桜の恋人たち

石動天明

第一章 邂逅

 薄いピンク色の花びらが、蒼い空に溶けるようにして舞い上がる。

 薄着だと少し寒いが、上着を羽織ってしまうと些か暑い。体温の調整が難しい日であった。


 柳生やぎゅう宍道しんじは千羽湖の畔を歩いていた。


 千羽湖は那加川水系の湖で、桜川と合わせてかつて存在していた藩主の城の南側外堀の役目を果たしていた。昭和期に埋め立てられ、面積で言えば狭まっており、埋め立てられた場所は田んぼとして利用され、現在では市街地を形成している。又、湖と謳ってはいるが平均水深で言えば分類上は沼という事になり、法律上は河川として位置付けられている。


 付近には県立近代美術館と県民文化センターが建てられており、周辺と合わせて千羽公園という名称になっていた。隣接しているのは江戸時代の藩主が創り上げた庭園で、合わせた総面積は都市公園として世界で二番目の広さを誇っていた。


 宍道が歩いているのは、湖のぐるりを囲む並木の土手だ。宍道は普段オートバイを使用しているが、春の麗な昼下がりを徒歩で満喫していた。


 桜並木が風に揺れ、花びらが舞い落ちては舞い上がってゆく。空中を滑るピンク色の春雪は湖に落ちて、小さな波紋を浮かべながら、ゆらりゆらりと何処かへ消えて行った。


 ――似合わんなぁ……。


 宍道は己の姿を思い出して、ぼんやりと桜を眺めている自分の滑稽さに苦笑した。


 柳生宍道――身長で一七五センチ、体重では八〇キロ後半から九〇キロある。と言っても脂肪でそうなっている訳ではない。身体に纏った分厚い筋肉のお蔭で、それだけの体重を叩き出していた。


 背丈で言えば、騒ぎ立てる程、珍しい訳ではない。スポーツをやっている人間ならば、それくらいの身長に届く事はあるだろう。ましてや成長期の男子である。だが宍道の場合、身長以上の巨大さを、その身体から感じさせる。


 先ず目に入るのは、太い頸である。やたらと広い肩幅と差が分からないくらいに太い。ランウェイを歩くモデルのウェストを、そのまま胸の上に持って来たくらいのものであった。


 その胸板も、分厚い。黒いシャツが内側から膨れ上がって、ボタンが弾け飛びそうになっている。防弾チョッキでも着込んでいるかのような様相だが、自前のものだ。シャツの下にはメッシュのアンダーウェアを身に着けているのだが、それがまるで粗い網目の服のようだった。


 胴体は縊れていない。樽型である。寸胴だが、緩みは殆ど観測出来ない。これでデブならば歩くたびに下腹が揺れる筈だが、それが見えないのだ。しっかりと引き絞られ、それでいて極度に発達した腹筋は、メディシンボールを落とされても平気そうだ。


 裾が広がった、ラッパのようなズボンを穿いている。だがこれは、宍道としても不満なのだ。本当ならばもっと、足首に近い、すらっとしたジーンズを穿いてみたい。だが宍道の身体の特性上、それが出来ないでいる。


 太腿が、ゴリラの腕のように太過ぎるのである。それが見劣りしないくらいの胴体を持っているが、それにしたって異常なくらいに太いのであった。当然、これも密集した筋肉によるものだ。

 小学生の頃、麻酔ごっこと称して太腿に膝蹴りを入れる遊びが流行ったが、宍道はそれを麻酔と呼ぶ理由が分からなかった。同年代の素人の蹴りでは、当時の宍道でさえ痛みを感じさせる事が出来なかったのだ。


 宍道の脛の真骨頂は硬さである。脹脛も巨大な力瘤のようになってはいるものの、どうしても足首に向かうに連れて細くなってしまう。


 お蔭で、膝の上と下で全く違うサイズのズボンを用意しなければ、身体にフィットしたスタイルを作る事が難しかった。頸周りはウェストの約二倍と言われており、これが分かればズボンのサイズが分かるとされているのだが、宍道には通用しない。何故ならばウェストが合うものであっても、太腿が邪魔をして脚を入れさせないからだ。


 今穿いているズボンも、ウェストではサイズがオーヴァーしており、ベルトできつく締め上げないとずり落ちてしまうのだった。


 そんな宍道の足を包んでいるのは、黒いショートブーツだ。登山用の靴と見えるくらいにごつい。登校には校則上、スニーカーを履いているが――本当は指定の革靴でないといけないのだが、サイズがない――、それだとすぐに靴底がすり減ってしまう。


 こんなゴリラのような男が、桜の花に見惚れているなどというのは、宍道からすると滑稽だった。


 何より自分は、不細工だ。


 別に、鼻が潰れていて獅子鼻だからとか、唇の肉が薄いからとか、耳の形が変だとか、そういう事を言っているのではない。眼だ。宍道の眼は、左右で全く形状が異なるのである。


 右眼は二重でぱっちりとしていて睫毛も長く、まるで女の子のようである。けれども左眼は、皮膚を剃刀で切って広げたように細く、一重瞼だ。


 人間ならば多少は顔の左右で違う部分がある筈で、正中線に衝立を出して見ると全く違う表情を作る。しかしその差異が余り大きくないので気にならない。


 宍道の場合、その違いが顕著な上、顔の中で最も眼を惹く両眼がそうなので、容姿の偏差値ががくっと下がってしまうのだった。


 宍道はそんな事を思いながらも、千羽湖畔の桜並木をぼぅっと歩いた。


 気付けば道が途切れており、駐車場に臨んでいる。駐車場は道を挟んで二つあり、西に向かって歩いていた宍道の視線の先には、歩道橋に上がる為のエレベータがあった。


 歩道橋は、駐車場を区切る道に垂直な丁字の道路と、駅から伸びる線路を跨いで架けられており、反対側のエレベータから降りると小さな山になっていた。手前には池があって鯉や亀が泳ぎ、木々の間に造られた階段を上ってゆくと、件の藩主庭園に進む事が出来る。


 宍道は道路を渡って、歩道橋の階段を上がろうとしたのだが、その時――


「てめぇ、しつこいのもいい加減にしねぇと、許さねぇぞ!」


 そんな物騒な声が聞こえた。

 場馴れしている、ドスの利いた叫びだった。


 宍道は階段の一段目に掛けようとしていた足を引き戻し、踵を返して声の方へと向かって行った。


 ――火事と喧嘩は江戸の華、とくらぁな。


 宍道は鼻頭を親指で擦ると、うきうきとした感じさえ纏って歩き出した。


 別にここは江戸ではないし、江戸っ子なのも宍道の祖父だけの事であるが――兎も角、柳生宍道には花を見るより華になる事の方が、気楽なようであった。






 スキップさえしそうな表情で宍道がやって来たのは、駐車場の隅にある公衆便所の横手だった。


 駐車場を区切る道路を南に進むと、登り坂になっている。坂に向かって西側は山になっており、その先に進むと神社があった筈だ。山の斜面には常緑樹が植えられており、駐車場に影を落としている。便所の脇の、樹の陰で、一人の男が三人組のやくざに絡まれている所だった。


 しかし宍道は、残念そうな顔で溜め息を吐いた。


「お、お願いします、どうか……」


 情けない顔でそんな事を言うのは、二〇代後半から三〇代を半分は過ぎていないであろう年齢の、くたびれた風の男性である。よれよれのシャツにつぎはぎのジャケットを着ており、毎日履くであろうズボンには何年もアイロンを掛けていなさそうだった。


「うるせぇぞ、そんな事でいちいち俺たちに構って来るんじゃねぇ」

「ぶち殺されてぇのか、あ?」


 そう言っているのは、派手な色のシャツを着た男と、紺色のカッターシャツの男だった。二人は語気も荒く、今にもパンチか蹴りを繰り出してしまいそうな剣幕だが、実際には手を出していない。

 手を出されると勘違いした相手が怯え、且つ、第三者から見て手を出す心算のないと分かる程度の距離を保っていた。


 彼らから少し下がった位置で、二人のチンピラよりも身なりが言い中年の男が、煙草を咥えていた。


「いい加減にしようや、兄ちゃん……」


 煙草を咥えた男は、静かに言った。


「あんたの事情は、俺たちには関係ないんだからよ……」


 宍道は、確かにどのような事情も、きっと自分には関係がないのだろうと思いながら、煙草を吸っていると男の口元に手を伸ばした。


「な――」

「ここ、禁煙っすよ」


 宍道はそう言うと、まだ火の点いている煙草を奪い取って、手の中に隠してしまった。指の一本一本が料理に使う麺棒のように太い指を、自転車のタイヤのように分厚い掌に折り畳むと、砲丸のような拳が出来上がった。


 宍道は手の中で煙草を握り潰して、もう片方の手でリーダー格の男の左手を取った。


 上を向けさせた掌に、拳を乗せ、指を開く。熱を全く感じさせない煙草を粉々にしたものが、男の掌に載った。


「てっ、てめぇ、兄貴になんて事……」


 紺色のシャツの男が、かっと眼を見開いた。勢い良く宍道に向けて突進しようとするその男の顔面に、煙草を吸っていた男が左手を押し付けて止めた。


 派手なシャツの男は、おろおろとして、何が起こっているのかを分からないでいた。


「若……」

「若はよして下さいよぅ、高橋さん……」


 宍道は煙草を握り潰した掌に、ふっと息を吹き掛けた。手に残っていた灰と煙草の葉っぱが飛んでゆく。高橋と呼ばれた男はジャケットの上着からハンカチを取り出して、宍道の手を入念に拭き取った。


「若、申し訳ありませんが、これは私どもの問題で……」


 高橋はハンカチを仕舞うと、宍道に対してそう言った。下手に出てはいるが、自分たちに関わらないで欲しいという態度だった。


「それは分かっています。でも、一人を三人で囲んでっていうのは、余り良い事とは思えません」


 宍道は細い左眼を瞑って、落ち着いたように言った。こちらも亦、敬語を使って目上の相手を敬ってはいる。


「取り敢えず、話を聞かせて下さい。そうすれば俺も関係者でしょ? その人も交えて……」


 宍道は公衆便所の壁にもたれかかるようにしていた男に、眼をやった。危うく暴行されそうになったのを助けてくれた巨漢が、しかし、一目で暴力団と分かる彼らと親しげに話しているのを見て、更に怯えを大きくしているようだった。


「……分かりました。実は……」


 高橋は語り始めた。


 ここから少し離れた国道沿いの道を、工事する事になったらしい。年度末には良くある事で、その年の予算を使い切る為に、大した工事ではなくともやらなければならない。


 しかし人手がなく、バイトを雇うにしても予算の余りというのがそれ程の額でもない。なので頭数を揃えるのに、高橋たち水門組みなとぐみの下っ端を何人か貸し出す事にした。紺色のシャツを着た青野と、派手なシャツの柴田も、その内に入っている。


 水門組とは、関東に於ける広域指定暴力団・出岡組でおかぐみ傘下の組織で、表立っては水門興行人材派遣センターの看板を掲げている。


 何処そこでイベントがあれば組員を派遣して、ステージの設置やチケットのもぎりなどをやり、彼らの給料と紹介料をイベント側から受け取る。


 今回もその一環である。


 しかしその工事に際して、一部の林を切り拓く事になった。

 その林の中には、一本の巨大な桜の樹が立っており、これが特に邪魔だった。


 現場を見て、高橋たちがその話をしていたのを、このくたびれた男が聞き付けて、言って来た。


 あの桜の樹を、伐らないで下さい――


 高橋が趣味でやっていて、自宅の敷地の事であれば、それもやぶさかではない。伐り倒すにしてもなかなか手こずりそうな、又、樹齢もそこそこある見事な桜の巨木だったからだ。


 しかし今回、高橋たちは市の依頼を受けてやっているのであり、その桜も自分たちのものではない。


 だから、誰とも知らない小汚い男の話になど、耳を貸す心算はなかった。


 だが男は三人を付け回して、どうあっても工事をやめさせようとした。


「その現場からずっと、つけて来たんですぜ」


 唾を吐きながら、柴田が言った。


 工事をやる事になった国道沿いの道から千羽湖まで大体、五・五キロ程である。それだけの距離を素人が尾行するというのは、なかなかの事であった。


 それで頭に来た青木が、車をここの駐車場に入れて、自分たちを追い駆けて来た男に詰め寄ったのである。


 そこに宍道がやって来たという訳だ。


「そいつぁ、おたくが悪いわな」


 宍道はくたびれた男の方を眺めた。


「おたく、ここいらの人ですか?」

「い、いいえ……」

「この人たちは、見た目はこんなだし、実際やくざですけど、それでも金を貰って市から仕事を委託されてる訳だし、それを邪魔するってのは、頂けませんよ」


 自分の頬を指でなぞりながら、宍道が言った。

 勝ち誇った顔をする青野と柴田。しかし宍道は二人の方を振り向くと、


「ま、だからって脅迫に出るのも、良い事ではありませんがね」

「――お前ら、詫びィ入れろ」


 高橋が、二人の肩に手を乗せた。

 でも、と、まごつく二人を一睨みして、もう一度、


「堅気に迷惑を掛けるんじゃねぇ。謝るんだ」


 そう言われて渋々と、くたびれた男に頭を下げた。

 宍道はそれに満足したようで、再び男の方に話し掛けた。


「それで、何か理由があるんですか?」

「え……」

「じゃなきゃ、何キロも車で追い掛けたりはしないでしょう」

「――」

「そいつを話してくれない事には、この人たちだって納得しないでしょう。何、これでも人の子ですからね、巧い事やろうと思えば、やってくれますよ」


 宍道にそう言われて、くたびれた男――花田はなだは話し始めた。


 男の名前は、花田こう。今年で三二歳になる。

 高校まではこの辺りで過ごした。

 佐倉さくら高校を卒業してから、一年浪人して東京の大学に入り、そのまま就職している。

 サラリーマンをやっていたが、務めているのは所謂ブラック企業であるという事だった。

 月ごとに厳しいノルマを課せられ、それを達成出来ないと残業や給料の減額が当然のようにある。


 二年前にその職場を辞めて、一人暮らしのアパートで引き籠っていた。

 それから半年間、ぽつぽつとバイトをやっていたが、どうにか新しい仕事を見付ける事が出来た。


 今度は神奈川の会社だった。

 給料が決して良いという訳ではないが、前に勤めていた会社よりも業務は楽しかった。


 このお彼岸に、少し長めの休みを取って、地元に帰って来たのである。


 そこで思い出の場所へ行った。

 例の桜の樹がある林の中であった。


 学生時代、同級生の女の子と一緒に、訪れた事があった。

 その桜の樹は、根元が複雑に絡まっており、博識な彼女は扶桑に似ていると言っていた。


「フソウって何です?」

「……何です?」


 青野が高橋に訊き、高橋が宍道に訊いた。


「恐らく彼女が言ったのは、中国の古典にある、幻の植物でしょう。海の果ての蓬莱山にある、一つの根から出た二つの茎が絡み合って伸びる樹の事です。男性原理と女性原理が……」


 宍道がうんちくを語り始めそうになった所で、花田耕太が話を続けた。


 当時、耕太はその事が良く分からなかったが、後で調べてみると、宍道の言った通りである事が分かった。耕太は、その同級生の女の子と恋人であり、彼女が自分たちのようだと言っていたのだという事を、後後、知った。


 その恋人とは、大学受験の後に別れている。既に言ったが、耕太は一年浪人しており、恋人は先に東京の大学へ進学した。耕太は時折、彼女と連絡を取りながらも、受験勉強に勤しんだ。


 耕太が大学に合格した日、彼は彼女の訃報を聞く事となった。

 春休みで地元に戻っていた彼女が、病気で亡くなったという。


 以来、耕太は地元に帰って来ていなかった。


 今回、有休を取って帰って来たのは、恋人の一三回忌の知らせを受けたからであった。


 そして彼女との思い出の場所である桜の樹が、伐り倒されそうになっていると耳にしたのだ。


 自分と彼女の静かな思い出を、誰かに壊されたくなかった――


 そういう事だった。


「良い話じゃないか」


 高橋は、照れたように笑みを浮かべる花田に言った。

 しかしすぐに顔を引き締めると、厳しく告げた。


「だが、それとこれとは話が別だ。俺たちだってボランティアやってる訳じゃねぇんだ。思い出の場所だとか何だとか、いちいちそんな事を聞き入れていたんじゃ、何も出来やしねぇ。俺たちはやくざだが、だからと言って好き勝手に暴れられる訳じゃねぇんだよ。特にこの人の前では、俺たちは筋を通さなくちゃいけねぇ。お前さんの話には、悪いが、一つも筋が通っているようには思えねぇんだよ」

「そんな……」

「俺だって、初恋の女と一緒に映画を見に行った映画館が潰れてるんだぜ。婚約指輪を買いに行ったデパートだって、もう解体し始めてるんだ。メランコリックに浸っておまんまが喰えるんならそれに越した事はねぇさ、だが、そんな事をいつまでも言っていられるかよ。兄ちゃんよ、そんな考えは、中学生で卒業して置くものだぜ」


 花田は助けを求めるように、宍道の方を見た。だが宍道も、この場合は高橋の意見に賛成であった。彼らと宍道に繋がりがあるからではない。高橋の言うように、一人一人の細かい意見を聞き入れていては、この世の中は回らないからだ。


「ただ、別にどうしても、その場所に道路を通さなくちゃいけないって事じゃないんでしょう」


 宍道が言った。


「若……」

「だから、若はやめて下さいってば。……兎に角、俺は基本、おたくらの意見に賛成だが、この人の話を聞いちまっちゃ、無碍にする訳にもいくまいし、どうにか巧く、やれないもんですかね」

「巧くというと……」

「工事をやめるとか、その桜の樹だけを伐らないようにするとか……」

「工事の中止は、今更、出来ません。もう機材やら車両やらの発注は終わってますから……。それに、今月中にやっつけなくちゃいけないので、時間がもうないんです。明日か明後日には、工事を始めなくちゃなりません」

「それじゃあ、一日……」


 宍道は、人差し指をぴんを立てて、高橋の前に突き出した。


「一日だけ、待ってくれませんか。工事の開始を、明後日という事にして……」

「何か、考えがあるんですか?」

「一日だけ、時間を下さい。何より現場を見に行って、この人と良く話して、その上で何か、変更して欲しい点があれば考えてみますから」


 高橋は宍道の提案に、困ったような顔をした。

 しかし宍道が真剣な眼差しで言うので、仕方ないと言って折れる事にした。


 これに反発したのは、青野であった。


「兄貴、何でこんな小僧に、俺たちがへいこらしなくちゃいけないんです?」

「青野、よせ……」

「説明もなしじゃ、分かりませんよ。こいつ、自分が堅気だからって、俺たちが手を出さないと思ってるんじゃないんですか」


 宍道は既に言っているように立派な体格をしているが、身長で言えば青野の方がある。手足も長いし、何よりも肝が据わっており、決して喧嘩で弱いという事はないだろう。


「やめろ、青野」

「でも、兄貴!」

「済みません、若、こいつ、新入りで……」


 分かっています、というような顔で頷く宍道に、ますます青野はむかっ腹を立てたようだった。高橋の事を押し退けると、宍道と向かい合って見下ろした。


「てめぇ、俺たちと対等な口、利いてんじゃねぇぞ。舐めてんのか」

「対等な心算はありませんよ。俺の方が年下でしょうから」

「そういう態度が舐めてるってんだよ! 大層博識でいらっしゃるようだが、俺たちの事を、所詮やくざと思って莫迦にしてるんだろう!?」

「よさんか、青野!」


 高橋が怒鳴りながら、青野と宍道との間に割り込んだ。そうして宍道の方を振り向いて、深々と頭を下げる。


「済みません、若……」

「やめて下さいよ、高橋さん。おたくがそういう態度だから、ますます、この人を怒らせちゃう……」

「はぁ、しかし、うちらはやはり堅気ではありませんので、つまり、その……」

「――」

「どうか、若、青野の事を教育してやってはくれませんか」

「えぇ……」


 宍道は困ったような顔をした。

 最初に望んだような展開ではあったのだが、すっかりやり難くなってしまった。






 宍道たちは、駐車場から離れて、千羽湖の南側、県立美術館や文化センターを見上げる芝生の広場にやって来た。

 すぐ傍に、湖の水が溢れ出した川が作られている。飛び石が並んだ小川である。


 宍道がその川の傍に立ち、青野がその向かいで睨み付けて来る。

 高橋と柴田と、ついでに花田は、土手の上から二人の姿を隠す壁のようにして、立っていた。


「えぇっと、教育っていうのは、つまり……」


 宍道は、両手をポケットに入れたまま、こちらを睨んでいる青野から眼を逸らさずに言った。


 高橋はもう一度、「お願いします」と、言った。

 宍道はやれやれといった顔で、青野の全身を眺めた。


 教育……要は、宍道の実力で、青野を黙らせてやれという事であった。


 暴力団と言っても、日常的に暴力を振るっている訳ではない。少し気に入らない事があったからと言って誰かれ構わず殴ってしまえば、警察のお世話になる。


 警察は常に組織犯罪に対して眼を光らせており、小さな暴行事件をきっかけにして事務所にガサ入れをし、銃刀法違反や麻薬取締法違反を突き付けて組織を弱らせようと目論んでいる。


 それ自体は間違った事ではない。


 しかし水門組に関して言えば、治安を乱すような事はしていない心算であった。


 寧ろ、町の自警団を自任している者さえ、何名かあった。

 こちらに関しては殆ど驕りのようなもので、勘違い甚だしくはあるのだが、少なくとも他の暴力団との関わり合いによって町の人々が危機に晒される事があれば、義の為に動くという気持ちは共通している。


 これについては後に、宍道と水門組との関係について話す時に、明かす事になるだろう。


 だが、こうした意識は上の人間の持つものであり、青野のような下っ端までは行き届いていない。


 青野をはじめとするチンピラは、学生時代に喧嘩に明け暮れ、進学や就職の出来なかった人間である。彼らの基本的な動機は、暴力であった。


 やくざになれば暴力が振るえる、嫌いなあいつ、気に入らないあの野郎をぶちのめせる――


 そういう考えの下で水門組と盃を交わしたのに、実際にはサラリーマンのような事務方仕事ばかりだ。


 面白くない。

 そんな面白くない時に、自分たちを尾行するようなふざけた男が現れた。


 その男を庇うようにして現れた、やけに大柄なこの小僧も、面白くない。その小僧に兄貴分の高橋が頭を下げている所など、ますます以て不愉快だった。


 だから高橋が、宍道に教育という名目で暴力を使わせ、青野を従えさせようとしているというのは、青野にとってもチャンスであった。


 自分がどれだけのものか、見せ付けてやるのだという気持ちになっていた。


 小さい頃から、ボクシングをやっている。中学では、大会で優勝した事もある。

 空手をやっていると言った同級生と、試しに戦ってみて、ノックアウトした。

 顔のガードが甘いと見抜き、ジャブを三発喰らわせて怯ませ、ストレートをぶちかました。

 この時に相手の事を怪我させたのが原因で、親が学校に怒られた。

 ムカついたから家出をして、不良の先輩の家に世話になった。

 ぱしりに使われそうになったが、逆に先輩をタコ殴りにして、ぱしりに使ってやった。


 高校へは行けない。

 日雇いの仕事でもやろうと思ったが、それでも長続きしなかった。

 コンビニバイトでは、気に入らない客を殴り、店員を殴って、警察に捕まった。


 刑務所でもボクシングの練習はやめなかった。

 自由時間にはスキッピングをやり、他の連中とつるまずに走り込んだ。

 グローブがなかったので、素手で壁を叩いて、拳を鍛えた。

 工場で部品を組み立てる時、作業を素早くやって、動体視力を養った。


 出て来た時に、水門組からスカウトされて、盃を交わしたのである。


 簡単な喧嘩なら、敗ける事はないと思っている。

 こんな、横幅はあっても身長のない小僧になど、敗ける訳がない。


 青野はスタンダードに構えた。

 拳を顔の前に持って来て、背中を緩く丸める。

 膝でリズムを採りながら、上半身を細かく左右に揺さ振ってゆく。

 堂に入ったボクシングのスタイルであった。


 宍道は、はったりではないと思いながらも、敵ではない事が分かっていた。


 構えずにいる宍道に、青野は突っ掛けて行った。


 これから宍道がどのように反応しても、自分のジャブの方がずっと速く、相手の顔に届く。


 青野が左ジャブを繰り出した。

 素早い。

 ジャブを打つ時、拳は握り込まない。そもそもジャブは、相手をノックアウトする為のパンチではなく、相手を牽制しつつ、相手との距離を測るパンチだからだ。


 宍道は、ふっと前に出た。

 青野のジャブが、宍道の顔の横を貫いてゆく。

 拳を引き戻すより早く、宍道の攻撃がヒットしていた。


 宍道が左拳を持ち上げるのが、広く取っていた青野の視界の片隅に映った。


 だが先に来た痛みは、足であった。

 宍道が踏み込みざまに、青野が前に出していた左足を、右足で踏み付けたのである。


 これに気を取られた青野は、呆気なく宍道のチョップブローを受けていた。


 肩口から砲丸投げのように、最短ルートで真っ直ぐ打ち出される拳に、青野は反応出来なかった。仮に右のパンチを繰り出そうにも、宍道の腕が顔をガードしてしまっているので、効果がない。


 宍道は鼻から血を吹き出した青野の、脚の間に右手を差し込んだ。打ち込んだ左拳を引き戻す勢いで、打ち上げるように右腕を入れ、そのまま腰をひねった。


 青野の身体は嘘のように浮かび上がり、空中で半回転して、背中から芝生の上に放り投げられた。


「――げはぁっ!」


 地面に思い切り落とされて、肺から全ての空気を吐き出す青野。

 投げられる時に回転させられた衝撃で、三半規管がダメージを受け、立ち上がろうとしてもバランスを崩してしまう。


 その青野を、宍道の右眼が冷たく見下ろした。


「ひぃっ」


 青野は逆光の中に佇む宍道の姿が、一瞬、鬼人のように恐ろしいものに映った。悲鳴を上げて身体を丸めてしまうと、宍道は彼の傍に跪いて手にしていたものを差し出した。


「済みません、これ、駄目にしちゃって……」


 宍道が差し出したのは、青野の靴の、右の半分から爪先の部分であった。踏み付けて、青野を引っこ抜いた時に、その部分だけが引き千切れてしまったらしい。


 ともすれば自分の足ごとそうなっていたかもしれない――


 その事を想像した青野は、穏やかに申し訳なさそうな顔をする宍道が恐ろしくなった。

 高橋が彼を敬う理由を、知ったのである。


 高橋がやって来て、宍道に言った。


「ありがとう御座います、若」


 宍道は立ち上がると、困ったように頭を掻き、言った。


「若はよして下さいったら……」

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