その6 豚は豚らしく、女神は女神らしく。





 夜目遠目よめとおめ、後ろ姿に笠の内。

 これはヒノモトに伝わる小噺こばなしに出てくることわざのひとつである。


 日も暮れなずむ宵闇の中、遠方から後ろ姿の相手を見やれば──、ましてやその相手が被り傘などをしていようものなら、誰だって決まって美人に見えるもの。人間の視覚など所詮その程度のものであるし、情緒溢れる光景に出会いを求める淡い期待が、そういった幻想を見せるのだと戒めを説いた言葉である。


「どうだ? 母ちゃん見つけたか?」

「だめ、全部ママに見える。けど、ママじゃないもっ」


 クロードに肩車された少年は、いつもよりずっと高い視点に身を竦ませながらも、しきりに首を動かして母親の姿を探していた。クロードの隣には、危なっかしい少年の様子を見上げるライラの姿がある。彼女の視線は時折うっすらと熱を孕んで、美味なる食前酒に酔うような恍惚を見せていた。


「んー、少年。あんまこんなこと言いたかねーけどよ、早く母ちゃん見つけないと、ちょっとばかし面倒なことになるぞ」


 ライラの疼きを察知したクロードが、やれやれと顔をしかめる。どうしてこうも、まともな女神がいないのか。ウィヌシュカといいリュイリィといいライラといい、クロードは一人ずつ順番に張り倒して性根を叩き直してやりたい気分だった。


 夜目遠目よめとおめ、後ろ姿に笠の内でなくとも、幼子おさなごを担いで歩くクロードとライラの姿は人目についた。「子連れのこすぷれいやあ」が歩いているなどと、街頭がざわめきだっている。


 そんなことなど露知らず、少年は大声で母親の名を呼び続けた。するとややあってから、人の賑わいの中から中年の男が名乗りを上げた。詳細を尋ねれば、男は少年の母親の居場所を知っているのだと言う。


「その子は、私が保護して連れていきますから。ほら、僕、こっちにおいで」


 やけに脂ぎった顔で、男は少年を手招いた。少年は半信半疑でこそあるものの、身を乗り出して男の伸ばした右手を掴もうとする。しかし男の腕を掴んだのは、怪しく微笑むライラであった。ライラの色香にのぼせたのか、男がだらしくなく鼻の下を伸ばす。


 そして次の瞬間、ライラはその細腕から想像もつかない握力を発揮した。まるで雑巾でも絞るように、男の腕を骨ごとのである。


「あらあら、豚の腕が取れてしまいました。欲望に駆られた変質者さんが、まさか本当においでなさるだなんて……、人の世もずいぶんと物騒ですわね」


 捻じれてもげた男の腕から、勢いよく鮮血が吹き出している。だが不浄なる赤が周囲の人々を巻き込むそれよりもはやく、ライラは自らが司る再生の能力ちからを発揮した。


 悶絶したままの男の右腕を、魔力特有の碧色の発光が包んでいく。こうして瞬く間に治癒された男の右腕は、ライラによって力任せに握り潰されたのであった。


「へ? ……ふえっ?」


 茫然自失といったふうに、クロードの頭上から感嘆の吐息が漏れた。今から何度も繰り返されるグロテスクな光景を察知したクロードが、少年を担ぎ直して自らの胸元に沈める。ふがふがと聞き取れない言葉で抗議する少年の耳元に、「ガキんちょにはまだはえーよ」と囁いたのだった。


「うふ、そんなに怖がらなくても大丈夫ですからね? ボクのママの代わりに、私がたっぷりと躾けてあげるだけですから。ケダモノはケダモノらしく、何度も果ててブヒブヒ鳴いていれば良いの」


 その先は、まさに地獄絵図であった。想像力の赴くまま捏ねられる紙粘土のように、男の肉体は何度も変形して無残を極めたのだ。声にもならぬ声が幾度も絞り出されたが、夜祭りの喧騒に呑まれてはかき消されていった。愉悦の表情を浮かべるライラと、苦虫を噛み潰したような表情のクロードが対照的であった。


「ったく、冤罪だったらどうすんだよ」


 事が済んでから、クロードが至極真っ当な意見を述べた。すんでのところで窒息を免れた少年も、よく分からないなりにクロードの意見に同調しているようだった。


「あらクロードさん、この私よりも豚の肩を持つのですか? 疑わしきは罰せよ。子を持つ保護者として当然の心理を、私が体現して差し上げただけですけれど」

「……もういいや、めんどくせー。あたしは早くお前と離れたい。っていうか」


 クロードは、紆余曲折を経てなついている少年の頭を、くしゃくしゃと掻き乱しながら続けた。


「いっそのこと女神なんてやめてさ、あたしがコイツの母ちゃんやるわ」

「面白い冗談ですこと。それこそ人さらいでしょうに」


 クロードの言葉を一笑に付すライラは、それでも上機嫌な様子だった。


 少年が今度こそ母親を見つけて、クロードが寂しげな微笑を浮かべたのはその直後の話である。




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