第25話 気高き傀儡。





 駆ける有翼獣ナグルファルの背に乗って、ウィヌシュカは天空を下っていく。射し込む夕陽が映し出す彼女の横顔は尚更に凛々しく、コットスへの畏怖など微塵も窺えない。


 ただそこにあるとするならば、悲壮。

 悲壮に彩られたウィヌシュカの美しさは、より多くの神々を虜にすることだろう。


 垂直に突き上げる突風を掻き分けながら、人間界ミッドガルドへと最短距離で落下する死の女神。その姿はまさしく知恵の果実のようであった。人間たちが神々を語り継ぎ、いつしか外典とつふみとなって変容を重ねていく中で、様々にカタチを変えた黄金イズンの林檎の成れの果て。


 世界を切り拓こうとする者たちは皆、天上の楽園から真っ逆さまに落ちていくのだ。ある時は知恵を、ある時は勇気を、またある時は永遠の生命を授かってしまったがために──。


 ウィヌシュカの斜め前方には、生身のままで急降下しているコットスの姿があった。胸の前で固く両腕を組み、そして下半身では胡座をかいて、ウィヌシュカの二倍はあろうかという上背を球のように丸めている。


 背中に携えた巨大なつるぎは、コットスが誇る神具曰くつきの宝剣バルムンクだ。コットス以外には持ち上げることすら叶わないと噂される宝剣の重さは、想像を絶するものであろう。


 コットスの着地と共に、爆音。


 魔力の込められた砲弾が着弾したのかと錯覚するほどの衝撃が、大地を走り抜けた。コットスは鍛え上げられた肉体で衝撃の全てを受け流すと、緩慢な動作で曰くつきの宝剣バルムンクを構えた。


 放たれた殺気のあまりの強大さに、有翼獣ナグルファルがガチガチと牙を震わせる。恐怖に抗いながらも降下を続ける健気な有翼獣ナグルファルに、ウィヌシュカは「感謝する」と囁き、やがて飛び降りた。


 ウィヌシュカの降り立ったその場所は、岩肌が剥き出しになった荒野だった。より正しくは、コットスが降り立った際の衝撃によって、荒野と化したばかりの大地である。


 コットスが放っている魔力の凄まじさに、周囲の一部はひずんでしまっていた。帯電しているかの如く不規則的に揺れる空間。勤勉な人間たちであれば、この現象にも何らかの名前を付けようとするだろう。しかし閉じられた世界で悠久を生き続けてきた神々にとって、空間の歪みに理屈を求める発想はない。


「さぁ、ウィヌシュカよ──、首を差し出すがよい」


 絶命を乞い願った傀儡の一つを、コットスが手招いた。大いなる主神は、ウィヌシュカの望み通り慈悲深き終幕を授けようとしているらしい。


 無言のままに首肯し、ウィヌシュカはゆっくり距離を詰めていった。コットスが宝剣を構える姿も、魔力の生み出す歪みによってゆらゆらと揺れている。


 コットスの眼前まで辿り着いたウィヌシュカは、銀色の髪をたくし上げ艶かしい首筋を晒した。この圧倒的な身長差であれば、あえて跪く必要もないのだ。むしろ跪かない方が、首を刎ねるに適した高さだといえる。


「主神コットス。私の愚かさと真摯に向き合ってくださったこと、深く感謝致します」


 息が詰まるほどの重圧の中で、ウィヌシュカは謝辞を述べた。先ほど絶命を求めた彼女であるから、当然今は丸腰である。だからこそ生じているコットスの油断を、ウィヌシュカは心底ありがたいと思った。


凡手ぼんしゅわざではないお主の戦力を失うのは惜しいが、迷いが芽生えた傀儡はきちんと始末しておかねばならぬ」

「ええ、だからこそ申し上げたはずです。と──」


 ウィヌシュカがちらと上を見やれば、風を裂きながら降ってくる死神の大鎌デスサイズの姿があった。有翼獣ナグルファルの背から上向きに数多あまたの命を奪ってきた死の女神の象徴。


 落下する死神の大鎌デスサイズを右手で掴んだウィヌシュカは、そのまま流れるように左手を添えた。目にも留まらぬ疾さで繰り出されるゼロ距離の横薙ぎ。暴風にも似た轟音が、一撃の鋭さを物語っている。


 コットスは靭やかに上体を捻り、紙一重で剣撃を回避した。その間にもウィヌシュカは、次の剣閃を放っている。最初から、これで終わるだなんて思っていない。


「あの場で斬り捨てておくべきだったのだ。その慢心が、あなたの命取りとなる!」

「やはり猿芝居だったか──、面白い。慢心しているのはどちらか、この私が思い知らせてやろう」


 ウィヌシュカの奇襲にさして動じる様子もなく、コットスは曰くつきの宝剣バルムンクを以ってしてこれを凌いでいく。剣呑な眼差しのウィヌシュカは、はやさを以ってして剛剣に応えるのだった。


 ──仕留める。必ずここで。


 願ってやまなかった千載一遇の好機を、決して逃がすわけにはいかない。何しろここは、神々の食糧庫である人間界ミッドガルドなのだ。ことわり


 この空間において、埒外の力を持った主神の能力は制限される。コットスの周りに生じている時空の歪みが、ほかならぬ何よりの証拠だった。


 だからこそ──。


 この生命を賭してならば、三柱の一本をし折ることが出来るのではないか。そういった打算が、ウィヌシュカの胸中にあった。気が遠くなるほどに続く三竦みの関係さえ壊してしまえば、あとはライラが希望を繋いでくれるだろう、と。


 死神の大鎌デスサイズを振るいながら、思わず嘲笑がこみ上げてしまう。ウィヌシュカのそれは、自身の愚かさをわらったものであった。


 これが笑わずにいられるものか。

 何故ならばやっていることが、リュイリィと大して変わらないのだから。


 一時の激情に流され、千年王国スクルドの十万の魂の核アニムスを無碍に消費したリュイリィ。今コットスと対峙しているウィヌシュカは、まさに彼女と同じ愚行を取っていた。


 地下世界で力を蓄えているはずのライラのこれまでも、昨日さくじつに刈り取ったばかりの六万五千の生命の何もかもを無駄にして、ウィヌシュカは今、身勝手な賭けに打って出ているのだ。


 しかし、ウィヌシュカは見誤っていた。目の前に立つ主神の戦力を、大きく見誤っていたのだ。


 彼女は未だ、気が付いていない。


 益体もない哲学に侵された自分が──、罪の意識に壊れてしまった自分が、どれほど正常な判断を欠いてこの場に立っているのかということに。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る