第24話 落下するヘスペリデス。
女神の仲違いなど、神々にとっては些事ですらない。ましてや豊穣の歓びに沸き上がる三柱の主神は、死の女神ウィヌシュカが単身で報告に上がったことの真意を勘繰ることさえなかった。
深緑に聳え立つ大いなるユグドラシルの麓。
「ウィヌシュカよ、此度の働き見事であった。してどれだけの命を刈り取ったのか」
「……六万五千ほどでございます」
天界の主神コットスに跪いたままでウィヌシュカは答えた。その心の中には、
ウィヌシュカの戦果に、下卑た哄笑をあげる冥界の主神ブリアレオスと、何やら意味ありげに頷く精霊界の主神ギュゲス。今頃は天界、冥界、精霊界のそれぞれで、空腹を満たした神々たちが寛いでいるに違いない。
「ん? しかしどうしたあ?
ブリアレオスの訝しむ声にも、どこか上の空のウィヌシュカは首を横に振るだけだった。当惑したように低く唸るブリアレオス。彼の焼け爛れた皮膚を覆う水疱の幾つかが、音もなく潰れては異臭を放った。「嫌われたものだな」と、コットスが他人事とばかりに言う。
迷い込んだ思慮の森で、ウィヌシュカは今も思考を巡らせていたのだ。想像の翼を広げようとする彼女のそれは高尚な行為か。はたまた、益体もない杞憂を煮詰めて色濃くする
──神々とは、何だ。
ウィヌシュカが断罪を重ねるたびに、埋まらない空虚が穴を広げていく。ライラに"哲学"を投げかけられたあの夜から、その速度は加速度的に増していくばかりだった。
ウィヌシュカをはじめとする超越者たちは、哲学という劇薬を持て余しているのだ。思考の螺旋に深く潜れば潜るほど、哲学が孕んでいる薬毒が心を喰い破っていく。それはある意味において、
連鎖する禅問答に人間たちが壊されてしまわないのは、"老い"があるからにほかならない。あるいは寿命を待たずして、人間たちの
唐突に訪れる絶対の終焉──、たとえば、死の女神によって齎される強制的
競売で競り落とした奴隷を心から愛してしまった貴族。
一枚の絵を仕上げることに人生の全てを捧げた芸術家。
不治の病に侵されながらも未開を切り拓く探検家。
信心を貫き千年王国を治めた誇り高き国王。
脳裏に焼き付いたその全てが、ウィヌシュカの心を苛んでいた。彼らが絶命するその瞬間まで輝かせていた無力な
だから、だからウィヌシュカは──。
「主神たちよ──、私は」
人間たちに蹂躙される神々の姿を夢想する。
慢心に座し続けたこの道の先で、人間たちに愚弄される神々の姿を。
きっとそれは、胸がすくような光景だ。
待ち焦がれた免罪符を得られるような、罪深き錯覚さえも覚えてしまう。
「私は──」
ウィヌシュカから這い出た重たい殺意に、
「血迷ったか死の女神よ。鎮まれ。ここが聖域だと申したのは汝ぞ」
ギュゲスはあくまでも冷静にウィヌシュカを咎めながら、片手に開かれた
「いいえ、紛れもなくここは聖域ウィグリド。ですからこの私を、今すぐに斬り捨ててくださって構いません。不戦の誓いに触れることのない結末をお約束します」
予想の遥か斜め上をいくウィヌシュカの発言が、コットスとギュゲスを押し黙らせた。ウィヌシュカがまさか絶命を乞い願うとは、さすがに想定外だったのだろう。
無抵抗であれば争いではない──、屁理屈と紙一重の主張をするウィヌシュカは、挑発的な殺意を少しも隠そうとしなかった。裏腹な言動を貫こうとするウィヌシュカに、ブリアレオスが激昂する。
「おい、意味不明な御託を並べてつけあがってんじゃねーぞ? 俺様の
「冥界の主神よ、論点がずれていると何故分からぬのか。そして死の女神よ、汝の戦力は有用だ。その不格好な殺気を今すぐに収めよ。寛大な我が、この一度に限り見逃してやろう」
和解を勧めるギュゲスに、ウィヌシュカは答える。
「……有用? それが有用な
彼女の頑なな願いが、一体どのような感情から派生しているものなのか。聡明なギュゲスの思考をもってしても、到底理解が及ばなかった。
それもそのはずである。当のウィヌシュカにも分かっていないのだ。自らの生命をも焼き尽くしてしまいそうなこの憤怒が、果たして自分のどこから湧き上がっているものなのか。
あるいはこの憤怒こそが、死に急いで楽になってしまいたいというウィヌシュカの弱さなのかもしれない。六万五千の生命を無慈悲に葬っておきながら、彼女は今、身勝手な幕引きに向かって突き進んでいる。
「……良かろう。ウィヌシュカよ、
そう促したのは、沈黙を貫いていたコットスであった。彼の握る
優しく微笑むウィヌシュカとは対照的に、ギュゲスは驚愕に目を見開いた。天界の主神であるコットスが、自らミッドガルドの大地を踏みしめれば、この世界全体の均衡を崩壊させかねないからだ。
「主神コットス。貴方の恩情に感謝致します。生まれ落ちた日に神具の名を知っていても、生まれ落ちた日がいつなのかすらも知らない。愚かなる私に、どうか容赦のない最期を──」
そう言いながらウィヌシュカは、三柱の主神のそれぞれに恭しく頭を下げた。流れ落ちる銀の髪に隠れて、冷たい微笑みを浮かべながら。
この歓びは、誰にも悟らせてはならない。コットスにもブリアレオスにもギュゲスにも──、もちろん
それでも笑うしかないだろう。
まさかこの私が一時の感情に任せて、ライラより先に反旗を翻すことになるなんて。
釣れたのは、天界の主神だ。
生命を捨ててでも、生命を墜とす。
凍てつく眼差しでそう誓ったウィヌシュカは、紛れもなく死の女神そのものであった。
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