ポスト





 そのポストを見つけたのは亡くなった祖父の家の庭だった。


 その年、偶然、私は母方の祖父が住む地方に転勤することとなった。十年ほど前に祖母が亡くなって以来、一軒家で一人暮らしを続けていた祖父。親戚一同の勧めもあり、独身の私は祖父と二人暮らしを始めることになっていた。


 ところがその矢先、祖父は病に倒れ、呆気なくこの世を去ってしまったのだ。


 慌ただしい葬儀が終わった後、私はその家で予定とは違う一人暮らしを始める運びとなった。


 平日は仕事に行き、休日は祖父の遺品の整理や家の状態を確認する作業に追われる日々。


 そしてあのポストに気付いたのだ。


 それは祖父が世話をしていた庭木の陰に隠れるかのようにひっそりと地面に埋まっていた。葉書を投函する口の部分が上を向いた状態、つまり横倒しになった四角い郵便ポストがこんなところに眠っていたことになる。


 それはほとんどが地中に埋まっていて僅かに確認できるのは投函口の部分だけだった。我ながらよく気付いたものだと思う。


 しかしなぜ祖父の家の庭にこのようなものが埋まっているのか全く検討もつかなかった。祖父が郵便関係の仕事に就いていたという話も聞いたことがなかったし、骨董品とか古物を集めるような趣味があったとも聞いたことはなかった。


 このままにしておいて誰かが困るわけでもないし、とりあえず放置するしかないか……。


 忙しさを理由に現実逃避を決め込んだ私は暫くの間ポストの存在を忘れていた。





 それは新生活にもようやく慣れてきた夏の始まりの頃だった。仕事から帰宅して着替えを済ませて間もなく玄関の古臭いチャイムが珍しく私を呼びつけた。まだこの土地の知り合いはそう多くない。いったい誰だろう? そう思いながら私は玄関に向かった。


 これまた古臭い引き戸のガラスの向こうに小柄な影が立っていた。どうぞ、と私が声を掛けるとゆっくりその扉が開いた。


 まだ幼さが残っている制服姿の女の子。中学生だろうか。不安そうな表情が気になった。


「えっと、どちら様でしょうか?」


 私がそう言うと彼女は少し躊躇した様子を見せたが、意を決したように口を開いた。


「あ、あの、わたし、去年亡くなった母に手紙を出したいんです!」


 手紙。その言葉を聞いた瞬間、忘れかけていた庭のポストがふっと頭に浮かんだ。


「手紙? 亡くなったお母さんに?」


「はい。えっと、あの、こちらですよね、死者に手紙を送ると返事が貰えるポストがあるお宅って」


 なんだって? あの、庭にあるポストが死者に手紙を送れるポストだって? しかも返事が来る?


「あの、ごめんね、私は亡くなった祖父からこの家を引き継いだばかりなんだ。庭にポストが埋まっていることは知っているけど、死者に手紙を送るっていうのはどういうことなのかな?」


「え……、そうなんですか? あの、えっと、私も先輩に聞いた話なのでそんなに詳しいわけじゃないんですけど……」


 そう言って彼女が話してくれた話は私が全く知らない話だった。


 この辺りで祖父の家は死者と手紙のやり取りが出来る場所として知る人ぞ知る都市伝説的存在になっていて、実際に死者と手紙をやり取りした者も多いのだという。


 手順はこうだ。死者への手紙を持った者がこの家を訪れると私の祖父はその者を庭に案内する。そしてあのポストに手紙を投函させる。


 死者からの返事は七日ほど掛かるとのことだった。一週間後、手紙を出した者が再びこの家を訪れると私の祖父は死者からの返事を渡してくれたらしい。


 その話を聞いているうちに私はある閃きを得た。


 祖父は昔、教師をしていた人でとても面倒見がよく情に厚い人だった。


 その彼の性格を考えればなんとなくこの話の真相が想像できた。


 そう、これは彼なりのボランティアだったのだろう。


 まず常識的に考えれば死者に手紙を出したからといって返事が来るなんてありえない。では祖父が渡していた返事というのはいったい誰が書いたものか。


 祖父自身が書いていたに違いない。


 恐らくあの地中に埋まったポストには投函した手紙を取り出せる何らかの仕掛けがあるのだろう。依頼者が帰った後で祖父は手紙を取り出し中身を見てそれに合った内容の返事を書いていたのだ。


 噂を信じてここに来るのは家族や大事な人の死がずっと受け入れられずに悩んでいる人だ。祖父はそんな人たちが前を向いて生きていけるように手助けしていた。それが事の真相だと思う。


 どうやってこんなことを思い付いたのか、そこは不思議だったが、祖父は良いことをしていたと思う。


 しかし問題は祖父が死んだ今、どうするかだ。


 この少女は藁にもすがる思いでここにやってきたに違いない。その彼女に私が気付いた真相を告げてしまって良いものだろうか。


 死者からの返事なんて来ないんだよ。


 そんな残酷な現実を私は幼い彼女に振り下ろすことなど出来なかった。


 ひょっとしたら祖父も最初はこんな感じだったのかもしれないな。ふと私はそう思った。


 根も葉もない噂が広まって、その話を信じた人がやってきて、可哀想に思った祖父は死者のふりをして返事を書いてあげた。それが更なる噂を呼び、この辺りの都市伝説として定着した。


 それなら納得がいく。それならば孫の私がやらなければならないのはひとつだろう。


「なるほど。ご期待に応えられるかわからないけど、それでもいいなら庭に案内するよ。いらっしゃい」


 私がそう言うと、ずっと不安気だった彼女の顔がパッと晴れた。「お願いします!」と元気よく答えた彼女を連れて私は庭に向かった。


 この家に住むようになって夜の庭に足を踏み入れたのは恐らく初めてだ。月明かりに照らされた我が家の庭はなかなか神秘的な雰囲気を携えていた。


 庭の奥、茂みの陰に隠れたポストの投函口のところに彼女を連れていくと、彼女は興味深そうにその中を覗き込んでいた。


「何か、見える?」


 私がそう尋ねると彼女は小首をかしげた。


「いえ、真っ暗で、何も……。でも……」


「でも?」


「まるで底が無いみたい。ずっと、どこまでも落ちていっちゃいそうな……」


 その彼女の言葉に私はなぜかぞくっとさせられた。うちの庭にそんな恐ろしいものが埋まっていて私はそうとは気付かずにずっとそんなものと同居してきたのか。そう思ったのだ。


 恐怖をごまかすように私は出来るだけ明るい調子で彼女に話し掛けた。


「手紙、入れるかい?」


「あ、はい、いいんですか?」


「さっきも言ったけど、私は祖父からここを引き継いだだけだから、ここに手紙を入れたらどうなるか知らないんだ。だから君の話のように返事が本当に来るのか保証は出来ない。それでもいいかい?」


「はい」


 まっすぐ私の目を見てそう答えた彼女の返事には強い意思が感じられた。


 そうか、きっと彼女だって心の底からこんなおとぎ話を信じているわけじゃないんだ。たぶん、これは彼女なりの「けじめ」なのだろう。亡くなったお母さんに対して何らかの後悔があって、それを今までずっと引きずって生きてきたのかもしれない。返事が来る来ないではなく、彼女はそのもやもやした気持ちを手紙という形にまとめる必要があったのだ。そう思えた。


「わかった。じゃあ、どうぞ」


 私がそう言うと彼女は黙って頷いて持っていた白い封筒をそっと投函口に落とした。


 すっ。


 そんな感じで封筒は闇に消えた。


 おかしい。横倒しになったポストならそれほど深いわけはないのにあんな入り方するか? それに音がしなかった。まるで本当に底が無いかのように。


 彼女はしばらくの間じっと投函口を見つめていた。ひょっとしたら私と同じ疑問を覚えたのかもしれない。私は彼女の不安を打ち消すように少し大きめの声で語り掛けた。


「後は待つしか無いかな? 一週間後だっけ? どうなるかはわからないけど、今ぐらいの時間でいいなら私も居ると思うからまたいらっしゃい」


「ありがとうございます」


 彼女はどこかすっきりした顔で深々と頭を下げた。


 いい子だな。こんな子のために何かしてあげたいと素直に思えた。爺さんもこんな気持ちだったのかもしれない。そう思った。


 玄関に戻り、彼女を見送ると早速私は行動を開始した。庭に戻り、手紙を回収するための仕掛けを探したのだ。


 ところが懐中電灯を使って注意深く探したにも関わらず特別な仕掛けのようなものは見つけることができなかった。


 嘘だろ? 爺さんはどうやってこの埋もれたポストから依頼者の手紙を取り出したんだ? まさか、いちいち掘り出していたってんじゃないだろうな?


 あまりにも馬鹿馬鹿しい考えだったが、そうとしか思えなかった。やるしかない。私は物置に行って祖父が使っていたスコップを取ってきた。


 数分後、私は愕然とした。私が掘り起こしたものはポスト全体ではなかったのだ。庭に埋まっていたのはポストの投函口とその周りの僅かな部分に過ぎなかった。埋まっていたというよりポストの一部分が捨てられてうっすら土が被っていたと言った方が正しいだろう。


 冷静に考えてみればポストがまるごと埋まっている方がおかしい。壊れたポストの一部が投げ捨てられていただけなのだ。


 しかし私は恐ろしいことに気付いた。置いてあるだけと言っていい投函口の部品。もちろんすぐ下は地面ということだ。


 どこを探しても彼女が投函したあの手紙は見当たらなかった。


 その後、私は投函口を出来るだけ元の通りになるように埋め戻した。頭の中はパニックになっていたがとりあえずそうすべきだと思ったのだ。


 作業を終えると私は戸惑った。手紙が無ければもちろん返事を書くことなど出来ない。いったいどうすればいいんだ? 爺さんはあの口だけのポストで何をやっていたんだ?


 身も心も疲れ果てた私はシャワーを浴びると布団に潜り込み眠りの深海に沈んでいった。





 仕事や雑用に追われてあっという間に一週間が過ぎようとしていた。明日の今頃、あの娘はやってくるだろう。


 どう説明したらいいものやら。私は悩んでいた。君の手紙はどこかに消えてしまった。返事もない。そんなことを言えるはずもない。


 こんなことならそれとなく手紙の中身を聞いておけばよかった。そうすればなんとなくそれっぽい返事を創作できたのに。


 後悔したが今更どうにもできない。こうなったら正直に言うしか無い。私は覚悟を決めた。


 そうして寝支度をしている時のことだ。玄関の辺りでカタンという音がしたような気がした。郵便受けに何かが入ったような音。私はパジャマのまま玄関に向かった。電気を付け、閉めたばかりの鍵を開けた。


 目の前に居たものに私は心臓が止まるかと思った。


 それは死んだ祖父だった。


 彼はカバンを下げてまるで郵便配達人のような格好をしていた。驚きのあまり固まった私に対して彼はニコリと笑った。生前、私を含めた孫たちによく見せてくれたあの笑顔だった。


 彼は郵便受けを指差した。そしてすっと消えた。


 暫くの間、パジャマ姿の私は玄関の前で呆然と立ち尽くした。


 ようやく我に返った私は郵便受けを覗いてみた。そこにはあの少女が持ってきたのとよく似た白い封筒が入っていた。


 中を見てみたい。そんな衝動に駆られたが、これはあの娘とあの娘のお母さんだけに見ることが許された代物だろう。私は静かにその封筒に手を合わせた。


 次の日の夜、少女は約束通りやってきた。不安そうな彼女に私は祖父譲りの笑顔を向けてあの封筒を手渡した。


 彼女はその場で封を開けた。震える手。字を追う彼女の眼から自然と涙が零れ始めた。


 内容は聞かなかったが、彼女は何度もありがとうございますを繰り返し頭を下げて、涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔に晴れ晴れとした笑顔を浮かべて帰っていった。

 

 何か私まで嬉しくなった。


 その後、私は遺品の整理中に祖父の日記を見つけた。その中にはあのポストについても記されていた。


 祖父の時代、あそこにあったのは今では殆ど見なくなった丸いポストの残骸だったらしい。そして死者への手紙の返事を持ってくるのは彼の父、つまり私の曽祖父だったというのだ。しかし曽祖父も郵便配達をしていたという話は聞いたことがなかった。なぜうちの家系が代々こんなことに関わっているのかはその日記には記されていなかった。


 丸ポストが朽ちてその原型を留めなくなった後で、祖父は知り合いの業者に頼んで、あのポストの投函口を手に入れたらしかった。


 ひょっとしたら、だからこそ今度は祖父が死者への手紙の返事を配達する役目を引き継いだのかもしれない。そう思った。


 死者に手紙を出したいという人間は今でもたまにやってくる。私は出来るだけそれを引き受けている。祖父と会えたのはあの一度だけで返事はいつの間にか郵便受けに入っていることが多かった。


 私もいつかあのポストに手紙を入れるのかもしれない。


 別のポストを庭に埋める日も来るだろう。


 そして先祖たちの仕事を引き継ぐ日もやってくると確信している。


 それまで私は生者と死者の架け橋の管理人として毎日を生きていこうと思っている。




                 (了)








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