瓶
それを拾ったのは日課にしている夜のランニングに出掛けた時のことだ。
いつものコースを走っていると電信柱の陰から「カラン」という音が聞こえた。
俺は音に首根っこを掴まれたように足を止めた。
カラン、カラン。
また聞こえた。恐る恐る音のする辺りを覗き込んでみた。
瓶があった。
ガラスで出来たそれは口がコルクと蝋のようなものでしっかりと塞がれていた。それが横倒しに転がっていて電信柱に体当たりを繰り返していたのだ。
体当たり? そう、それは明らかに自らの意志で動いていた。
こんな小さな瓶の中に生き物が入っているのか?
自分の中の本能が危険信号を発しているのを感じた。しかし好奇心がそれを上回ろうとしていた。
俺は揺れ続ける瓶にそっと手を伸ばした。見た目通りの重さを感じながら持ち上げて中を覗いた。
スーツ姿のサラリーマンらしき男がそこにいた。ありえない大きさで。
ヒイッと口から情けない悲鳴がこぼれ、思わず瓶を離してしまった。
その瞬間、突然くるくると目が回り出した。目眩か? くそ、情けない。
ようやく視点が落ち着くと俺は違和感に気付いた。
手に冷たい感触があった。そう、これはガラスだ。おかしい。俺は確かに瓶から手を離したはずだ。それなのに目の前には大きなガラスの窓があった。
……窓?
俺は自分の身に起きた異変に気付いた。辺りをキョロキョロと見渡して自分がありえない状況にいることを認知した。
巨大なガラスの瓶の中に自分は居た。いや、違う。信じたくはないが、まさか、そんな……。
その考えを証明するかのようにぐらっと地面が動いた。正確に言えば自分を取り囲んでいる瓶そのものが動いたのだ。
ガラスの向こうに巨大な顔があった。あの、先程まで瓶の中に居たスーツ姿のサラリーマンだった。
瓶が巨大なのではなく俺が小さくなったのだ。
「助かったぜ、おまえが来てくれて。死ぬまでこいつの中に居なくちゃならないのかと思って覚悟を決めていたところだったんだ。神様っているんだなあ」
「お、おい! なんだ、これは! どうなってる? 出せ! 出してくれ!」
俺は必死に叫んだ。しかし男は首を傾げてこう言った。
「悪いな、何か叫んでんだろうけど、全然聞こえねえよ。俺の時もそうだったんだ。通行人が見えるたびに必死に叫んだけど瓶の中から発した声は外の人間には聞こえないらしいぜ? よく覚えときな」
なんだと?
「あー、そんな顔すんなよ。言っとくけど俺も何も知らねえんだ、この瓶がどういう仕組みで、どういう物なのか。俺だって被害者なんだからよ。俺の前に入っていたのはどっかのおばさんだった。この道を歩いていたら変な音がするから覗いてみたら今のあんたみたいになったってわけさ。そのおばさんもやっと出られたとか言ってたな。おばさんの前に入っていたのは爺さんだったらしい。まあ、あんただって運が良ければ出られるさ。幸運を祈ってるぜ」
そう言うと男は瓶ごと私を電信柱の陰に放り投げた。身体のあちこちがガラスの壁に打ち付けられ、俺は苦痛の声を上げた。
「じゃあなー」
「く、くそ! 待ちやがれ! おい!」
去っていく男の後ろ姿に向かって思い付く限りの罵詈雑言を浴びせた。その姿が見えなくなるとようやく俺は叫ぶのをやめた。
遥か頭上の月が鈍く光るある夜のことだった。
(了)
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