分岐




 なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。


 気が付いたら私は公園のベンチでおいおいと惨めな声を出して泣いていた。


 目の前を通り過ぎていく通行人たちがこちらをちらちら見ていることはわかっていた。


 可哀想なものを見る目、自分が一番送られたくない視線に気付いていながら私は泣くことを止められなかった。


 仕事に行った帰りに夕食の食材を買い、いつもの帰宅コースを歩いて、この公園の前を通った。


 それはただの日常だったはずだ。


 しかし私はいつの間にかふらふら公園に入り、ベンチに座り込んで、人目も憚らず泣き出していた。


 なぜか。


 後悔。一言に無理やりまとめるならそうなるだろう。


 私が言うのもなんだが、夫はエリートと言われる類の人間だった。


 名前をあげれば日本のみならず海外の人でも知っているような大手企業に勤めていて、しかも現在の年齢としては異例といえるほどの出世を果たした、将来有望、誰もが羨むような旦那様だった。


 でも家庭の彼は私にとって決して最高の人間ではなかった。


 おまえ、変わったよな。


 それが彼の口癖だった。


 そんなことはない。私自身は変わってなどいないはずだ。


 私からすれば変わったのはむしろ彼の方だった。告白してきた時だって付き合っていた時だって彼はいつも私を褒めてくれた。それなのに結婚して数年経つと愛の言葉は次第に言葉の刃に変わった。


 夫婦としてはもう破綻していると言っていいだろう。それでも経済的なことを考えると私は離婚という決意に踏み切れなかった。世間体を何より大事にする彼もその気はないらしい。このまま事務的に夫婦という役に徹していかなければならないのか。


 今思えば、あの時、私は間違った選択をした。


 そう、あの時。


「戻りたいですか? あの時に」


 頭上から突然声を掛けられた私はびくっと顔を上げた。


 まず目に入ったのは場違いなシルクハットだった。左手にはステッキ。蝶ネクタイ。


 テンプレートな、いかにも、という姿の「紳士」がそこに居た。


「あ、あの、あなたは?」


「私ですか? そうですね、『案内人』とでも名乗っておきましょうか?」


 ニコニコと微笑む紳士に私は少し寒気を覚えた。関わり合いにならない方がいい。そう思う一方で最初に彼が発した言葉が引っ掛かった。


「えっと、案内人、さん? 今、『あの時に戻りたいか』とおっしゃったように聞こえたんですけど」


「ええ、言いましたよ。あなたは願ったはずだ。あの、『分岐点』に戻りたいと」


「分岐点?」


「ええ、そうです。あなたはあの分岐点に戻りたいと願った。だから私がこうして現れたわけです。なにせ私は『案内人』ですので」


「あの、意味が、その、わからないのですが」


 そう答えながらも私には確信めいた答えがあった。


 私が戻りたい、あの時。それはあのシーンしか無い。


「望月さんに別れを告げた、あの夜に戻りたいんでしょう?」


 私の目は丸くなっていたことだろう。なぜこの紳士はそのことを知っている?


 でも、そんな小さな驚きは一瞬で大きな期待に掻き消された。


 この男なら本当に「あの時」に戻してくれるかもしれない。彼の不思議な雰囲気が私にそう思わせた。


「……戻れるの? 私が望月さんを裏切った『あの時』に」


「あなたが真剣にそう願えばね。但し条件が一つあります。戻れば、あなたは今持っている記憶を失い、当時のあなたに戻ってしまう。特別に私の方で少しだけ細工を施しますので、記憶がなくてもあなたは現在の旦那様ではなく望月さんを選ぶでしょう。そして戻れるのは一度だけ。どうです?」


 自分でも驚くほど私は迷わなかった。


「お願いします! 戻してください! あの時に!」


「わかりました。では」


 紳士は開いた右手をゆっくり私の目の前に差し出した。私は自然と目を瞑った。




 


 なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。


 気が付いたら私は公園のベンチでおいおいと惨めな声を出して泣いていた。


 目の前を通り過ぎていく通行人たちがこちらをちらちら見ていることはわかっていた。


 可哀想なものを見る目、自分が一番送られたくない視線に気付いていながら私は泣くことを止められなかった。


 仕事に行った帰りに夕食の食材を買い、いつもの帰宅コースを歩いて、この公園の前を通った。


 それはただの日常だったはずだ。


 しかし私はいつの間にかふらふら公園に入り、ベンチに座り込んで、人目も憚らず泣き出していた。


 なぜか。


 後悔。一言に無理やりまとめるならそうなるだろう。


 私の夫は優しいが、それゆえ優柔不断で、ここぞという決断力がないせいか、何をやっても上手くいかないタイプの人間だった。


 そのため出世とは無縁であり、私たち夫婦はお世辞にも裕福とはいえない生活を送っていた。


 結婚して暫くは優しい彼と生活出来るだけで楽しかった。贅沢なんてしなくても良い、そう思っていた。


 しかし金銭的な問題から来る不自由さが次第に夫婦の溝となっていった。最近は些細なことで言い争いをしてしまう。それが惨めでしょうがなかった。


 彼と付き合っている時、私はある男性から告白された。私の友人たちの間では憧れの的になっていたイケメンで、すでに一流企業への内定が決まっていると噂になっていた人だ。


 私が望月と付き合っていることを知った上で告白してきた自信家だった。


 もちろん私は断ったが、あの時に彼の告白を受け入れていたら私はどんな人生を送れたのか、考えることがある。


 そう、戻れるなら戻ってみたい、あの時に。


 ……馬鹿馬鹿しい。そんなこと出来るわけないのに。


 早く帰って夕食の準備をしなければならない。私はようやく落ち着きを取り戻しベンチから腰を上げた。


 その時、目の前を奇妙な人物が通り過ぎた。


 まず目に入ったのは場違いなシルクハットだった。左手にはステッキ。蝶ネクタイ。


 テンプレートな、いかにも、という姿の「紳士」だった。


 目と目が合った瞬間、彼は私に向かって軽く会釈をし、どこかに去っていった。


 なぜか寂しそうな、その眼がいつまでも私の脳裏から離れなかった。




               (了)






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