バレンタインデー




 バレンタインなんてくだらない、とずっと思って生きてきた。


 そもそもバレンタインデーに女性から男性にチョコを渡すなんて習慣はお菓子メーカーが自社製品を買ってもらうために企てたキャンペーンが上手く定着しただけに過ぎないし、ましてや義理チョコとか友チョコとか自分チョコという拡大解釈は日本人の悪いところだとしか思えなかった。


 もちろん私にチョコをくれる娘たちは純粋な思いなのだろう。いつもは表に出せない秘めた思いを堂々と言える一年に一度しか無い貴重な機会なんだと言われれば頷くしか無い。


 でもね、声を大にして言いたい。


 私は女だ!


 見た目はボーイッシュってやつかもしれないけど、至ってノーマルな純情可憐な女子高校生なんだ!


 うちの学校は男女共学だ。もちろん野郎だってたくさんいる。それなのになぜ私なのだ? 赤面しながら女である私にチョコを渡してくる女子たちは何を望んでいるのだろう?


 この反応に困る儀式は中学時代からずっと続いていた。毎年この時期は憂鬱になる。


 バレンタインなんてくだらない、今年もそう思ってしまうだろう、そう思っていた。


 ところが、である。ああ、私としたことが、まさか、こんなことになるなんて。


 うっかり恋に落ちてしまうなんて。


 私の心を奪った相手は同じ学年の楠田という男だった。なんとなく存在は知っていたもののこれまで特に意識したことがなかった相手だ。


 あれは一ヶ月くらい前、下校時のことだ。私はちょこちょこと歩く一匹の野良猫を発見した。


 あえて公言したことはなかったが、私は尋常じゃない猫好きだ。自宅はペット禁止のマンションなので残念ながら飼うことはできなかったが、野良ちゃんを見掛けるとつい後を追いかけてしまう癖があった。


 その時も私は何気なくその猫の後ろを追い掛け始めた。するとその子はある場所でくいっと方向転換して建物と建物の間に入っていった。


 その動きに釣られるように私も続いてそこを覗き込んだ。


 視線の先に彼がいた。


 楠田君は数匹の猫に囲まれてしゃがんでいた。彼に頭を撫でられていた三毛猫は幸せそうに目を閉じてその身を任せていた。


 私が「あっ」と声を出すと彼は驚いたようにこちらを振り向いた。


「あ、ごめん」


 なぜ謝ったのか自分でもわからなかったが、自然とそんな言葉が私の口から飛び出した。


 すると彼はニコリと微笑んでこう言った。


「君も猫好きなの?」


 音にするなら「きゅん」という感じだった。たぶん私の顔は一瞬で真っ赤になっていたと思う。何か返事をした覚えはあるが、実はよく覚えていない。私は呼び止める彼の声を無視して逃げるようにその場を後にしていた。


 あの一件以来、私の心に彼が住み着いてしまった。ほんの一瞬の出会い。あの短い時間で彼のどこに惹かれたのか。それは理屈でどうこう考えられるものじゃないのだろう。


 それが恋って奴なんだと思う。


 そしてバレンタインデーがやってきた。


 これ以上こんなドキドキした状態で毎日学校に行くのは耐えられそうにない。私はこの戦いに終止符を打つために計画を立てた。彼にチョコを渡して自分の思いを伝えるのだ。結果が良いものになるか悪いものになるか、それはわからないが、同じ場所で足踏みを続けるよりは遥かにマシだと思った。


 私は下校時のチャンスに賭けるため校門の見える位置で待機しながら彼を待った。


 しかしそれがいけなかった。


「先輩? 何してるんですか? あー、それ!」


 私は突然後ろから声を掛けられて心臓が飛び出るかと思った。同じ部活の後輩の娘が私の持っている包みを指差していた。


「先輩、それ、チョコですよね? わー、先越されたー! ねえねえ、誰から貰ったんですか? ひょっとして希美ですか? もう、一緒に渡そうって約束してたのに!」


 どうやら彼女は私が彼に渡そうと思って持っていた包みを貰ったものだと勘違いしたようだ。


 あちゃー、なんて言い訳しよう?


 そう思って困っていると泣き面に蜂というか最悪の事態がやってきた。


 そう、楠田君が現れたのだ。


「ねえ、先輩、私のチョコも貰ってください! 希美の奴も受け取ったんだから私のも貰ってくれますよね?」


「え! いや、あのね、その……」


 楠田君は私と後輩を一瞥すると軽く会釈をして横を通り過ぎていった。


 チョコを渡そうと思っていた相手の目の前で女の子からチョコを渡されるというバッドタイミング。


 神様ってやつは意地悪だ。


 それからはなかなか大変だった。騒ぎを聞きつけた後輩軍団(といっても三人くらいだが)が押し寄せてきて次々とチョコを渡されたのだ。周りからは「またか」みたいにニヤニヤ見られるし、楠田君にチョコ渡すぞ作戦の失敗のせいもあってイライラしてしまい、私は我ながら棒読みの礼を述べるとその場を逃げるように後にした。


 後輩たちをダッシュで引き離した後、ふーっと溜息を吐き、トボトボと歩いていると、ふいに猫の後ろ姿が見えた。紛れもなく、あの時の猫だった。揺れる尻尾にちょっと心が和み、当然のごとく後を追いかけた。


 ん、あれ、この道って……。


 見覚えのある風景。そうだ、あの時と全く同じ場所を猫は歩いていた。


 まさか、あそこでくいっと……、あっ!


 そう、私の予想通り野良ちゃんはこの前と全く同じように建物と建物の間に入っていった。


 え、でも、さすがに、そんな偶然あるわけ……。


 そう思いながら私はそうっと猫が消えた先を覗いた。


 彼が居た。また猫たちに囲まれて。


「わっ!? う、嘘!?」


 私は思わずそんな声を出していた。彼は「おっ?」といった表情でこちらを見た。


 どどど、どうしよう? そうだ、チョコ渡さないと! あー、でも、今更だしなあ……。


 私は決して高性能とはいえない頭脳をフル回転させた。そして一つの名案を思い付いた。


「ああ、えっと、これ、あげる! 後輩にいっぱい貰ったからさ。お裾分け!」


 そう言いながら私は自分が用意してきたチョコを彼に向けて差し出した。たぶん上手く誤魔化せたはずだ。顔はちょっと赤いかもしれないが、それは寒さのせいということにすればいい。


 すると彼はチョコと私を交互に見比べると意外な一言を放ってきた。


「ひょっとして、これ、俺のために君が用意してくれた奴?」


 ななな、なんだとー!? 楠田君って超能力者だったのか!


「ち、違う違う! そんなわけないじゃん! 違うよー! ホント、違うんだから!」


 我ながらバレバレだった。


「そう? でもさっき校門で目が合った時、そのチョコを大事そうに抱えていた右手が俺の方にぴくっと動いたからさ。ひょっとしてくれんのかなって期待しちゃったんだよね。そっか、違うのか。ごめんな、意識過剰なんだ、俺」


 そう言って彼は照れくさそうにニコリと笑った。


 うう、なんだよ、こいつ! 悔しいなあ、もう! そんな笑顔向けられたら嘘吐けないじゃん!


「わかったよ! 認めるよ! 君にあげたくて私が用意した奴だよ!」


 顔から火が出そうだった。そんな私を見て楠田君は笑い出した。


「やっぱり? なんでそんな嘘吐いたの? それになんか怒ってない? 変な奴だな、君は」


 ああ、もう、馬鹿にして! 腹が立つなあ。私はなんでこんなやつを好きになってしまったんだろう?


 それが恋って奴なのかな、やっぱり。


 私の心を代弁するかのように猫が不思議そうな声でにゃあと鳴いた。





                (了)






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