伝説
その伝説はこの土地に住む者なら誰でも知っているくらい有名なものだった。
「悪いことをすると山の奥に住んでいる黒神さまがやってきて連れて行かれる」。
もちろんそれは言うことを聞かない子供を戒めるための方便であり、昔の人が考案した作り話だ。
みんなはそう思っていただろう。でも私は心の底からその話を信じていた。
当時、私は小学五年生だった。母親は私を産んですぐ病気で亡くなり、父は男手ひとつで私を育ててくれたのだが、一年前、突然再婚したい女性がいると言い出した。
母の写真に向かって毎日「おはよう」とか「ただいま」と語り掛けていた私はその新しい母をどうしても受け入れることができなかった。
家に帰りたくない。ある日、強くそう思った私はふっと父方の祖父に聞いた伝説を思い出した。
そうだ、悪い子になれば黒神さまが私を何処かに連れて行ってくれるに違いない。
それは無力な子供の私にとって甘美な誘惑だった。
噂のある山は自宅とはまるで反対の方向だったので、私は自分の思い付きに冷たい笑みを浮かべながら踵を返した。
十数分ほど歩き続け、ようやく私は目的の山に辿り着いた。すでに周りに住宅は無く田んぼが広がっていて人気は無かったが、子供が一人で山に入る所を見られたら面倒なことになりそうだということは小学生の私にも予想できたので、慎重に辺りを窺ってから山道を登り始めた。
山道といってもそれは観光地のように整備されたものではなく山菜採りに来る地元の人間が歩きやすいように均(なら)した程度のものだったので子供の足ではなかなか大変だったが、私はとにかく黒神さまに会いたい一心でとにかく上へ上へ向かった。
気が付くといつの間にか空は真っ赤に染まっていた。
疲れた。この辺でいいかな?
私は立ち止まり、どうすれば黒神さまを呼び出せるのか、考えた。
悪いことか。怒らせればいいのかな? この山に住んでいるのなら……。
私は目の前にある樹の一本を軽く蹴ってみた。二度、三度、自分の足が痛くならない程度に力を込めて何度も蹴った。
いつしかそれは黒神さまを呼び出すためというよりも自分が抱える不満をぶつける八つ当たりに変わっていった。
どのくらい蹴ったかわからない。ふと我に返ると私はいつの間にか暗闇の中で泣きながら樹を蹴り続けていた。
闇に包まれた山の中は自分が想像していた以上の異様な雰囲気を湛えていた。恐怖心。私は一瞬でここに来てしまったことを後悔した。
帰ろう。そう思った瞬間、私は背後に何者かの気配を感じた。見てはいけない。本能的にそう思ったが、私の身体は条件反射のように勝手に後ろを振り返っていた。
人型をした黒い塊が立っていた。
闇の中にいるというのにそれははっきりとした黒色を認識させた。闇よりも黒いということなのだろう。そして私はそれを一目で「女性」だと思った。見た目でわかったわけではない。シルエット的には男性とも女性とも受け取れるものだったが、私の直感がそう教えてくれたのだ。
「く、黒神さま?」
私が震える声でそう尋ねても答えは返ってこなかった。その代わり、彼女は無言で私の方に向かって一歩を踏み出した。
一歩ずつ一歩ずつ彼女は近づいてきた。やがて金縛りにあったように動けなくなった私の眼前まで彼女は迫ってきた。
ああ、私はどこかに連れ去られるんだ。そしてそこはたぶん闇すら眩しく感じるような真の闇が広がる場所に違いない。
私は自分の愚かさを激しく後悔した。先程とは違う意味の涙がこぼれた。
耳元で彼女の息遣いが聞こえた。そして彼女はゆっくりと翼を広げた。黒い黒いその翼に抱きしめられながら私は意識を失った。
私を発見したのは新しい母だった。彼女が私の名前を呼び続ける声に起こされ、ゆっくり目を開けると目を真っ赤に腫らした彼女が涙でぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けていた。
朝。すでに闇は無かった。
夜になっても私が帰らなかったことで両親は警察に捜索願を出したらしい。山の方に向かって歩く私を目撃した方がいて地元の人たちも参加してこの付近での捜索がなされたということだった。
もちろん私は両親にこっぴどく怒られた。でもそれをきっかけに私は新しい母と驚くほど仲良くなることが出来た。
ひょっとしたら黒神さまが連れ去ったのは私の邪心だったのではないか、今ではそう思っている。
恐怖のあまり子供が見た夢。そう思う方もいるだろう。だから最後にこんな話をしたい。
私は後日、母に「どうやって私を見つけたのか」聞いてみた。私が倒れていた場所は道から離れた木々の間だったのだ。低木が生い茂っていて倒れている子供を見つけるには難しい場所だった。
すると彼女はこう言ったのだ。
「必死にあなたを探している時、ふわふわと舞う黒い羽根が突然私の目の前に現れたの。なぜかはわからないけど、それがあなたのところまで案内してくれるって確信したのよ。だから後を付いていったらあなたが倒れていたのよ」
きっとあなたの住む場所にも何かしらの伝説はあるだろう。そしてそれはただのおとぎ話ではないかもしれないのだ。
(了)
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