ごめんなさい




 冬の朝、布団からなんとか抜け落ちた僕はキッチンに向かった。


 テーブルの上には見覚えのない小さな一枚の紙が置いてあった。


 ごめんなさい。


 そこにはただ一言そう書いてあった。若い女性がボールペンで書いたような字。僕は直感的にそう思った。


 問題なのは僕が一人暮らしだということだ。


 残念ながら鍵を預けるような彼女も居ないし、遠く離れて住む実家の家族なら連絡をしてから来るはずだ。


 つまり僕が寝ている間に我が家に不法侵入者が居たということになる。


 寝ぼけた頭が一気に覚醒するのを感じた。しかし覚醒めた頭は一瞬でパニックになった。


 け、警察に電話しなくちゃ! そうだ、その前に何か盗られたものがないか確認しないと。


 僕はパジャマのまま部屋を一通り見て回った。カバンや押し入れも開けて中をチェックした。


 結論から言うと無くなったものは何もなかった。


 泥棒じゃない? でも何者かがうちに入ってきたのは確かだ。でもこのメモを警察に見せたとして果たして動いてくれるだろうか? 証拠はこの字だけ。自分の字じゃないと主張しても信じてもらえるかどうかわからない。


 これから仕事もあるし時間を取られるのは困る。とりあえず後で鍵を付け替えよう。それが一番現実的な対策だ。それでも何かあるようならその時に警察に届ければいい。


 僕はそう決めた。決めたからには仕事に行かなければ。大きく溜め息を吐くと、ちらっとメモに視線を送った。


 ごめんなさい。どういう意味だろう?




 それから僕はあのメモ用紙と思わぬ所で何度も再会することになった。


 電車の中、旅行先、帰省した実家、場所も時間帯も様々で、とても人間業とは思えなかった。


 どの紙にも「ごめんなさい」の一言が書いてあった。字体も同じ、字の大きさも一緒だった。


 もちろん気味が悪かったが、それ以上の実害はなかったし、そもそもこんなこと誰に相談すればいいのかもわからなかったので、特に何もしないまま、その事態を放置していた。




 それはある休日の朝だった。特に予定もなく家でのんびり朝食を作っていた時、ふとあのメモ用紙のことを思い出した。


 それはすでに12枚という枚数になっていた。捨てるのも気が引けてあまり使わない机の引き出しの奥に入れたままにしておいた。それを全て取り出してみた。


 12枚のごめんなさい。いったい誰が何を僕に伝えたかったのか。


 じっとそのメモ用紙を眺めていたら僕はなぜかすごく悲しい気分になった。


 そんなに謝らなくてもいいのに。許す、許すよ、もう。


「もういいんだよ。僕こそごめんね」


 何気なく、ふと口に出してつぶやいてみた。


 何かが起きたわけではない。相手に伝わったかどうかもわからない。


 でもなぜか僕の眼からは自然と涙が零れた。


 僕は12枚のごめんなさいを握りしめたまま嗚咽を漏らし続けた。




 次の日の朝、テーブルの上に、あのメモ用紙があった。


 僕はハッとした。いつもとは違う文字。


 ありがとう。


 ただそれだけが書いてあった。






                 (了)






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