名前




 私は自分の名前が嫌いだった。


 自分の容姿に合っていないと思っていたし、初対面の人は絶対に正しく読んでくれない厄介な代物だったからだ。


 親はさぞノリノリで付けてくれたに違いない。自分の娘がファンタジーの世界の住民であり、そこでお姫様になると信じて疑わなかったのだろう。


 でもありがた迷惑なだけだった、こんな大袈裟な名前は。


 私は友達にも自分の名前を呼ばせなかった。名前とは全く関係のないあだ名を自分で考え出し、それで私を呼ぶように徹底的な根回しを行った。


 先生たちはさすがにそうもいかないので仕方なくひとりひとりに対して「私のことは苗字で呼んでもらいたい」と訴えかけた。


 こうして私のことを名前で呼ぶものは親だけとなった。


 そしてそれすら我慢できなくなると、いよいよ私の心は最後の防衛機制を発動した。


 親が呼んでいるのは私ではなく私の隣りにいる誰かだと思い込むことにしたのだ。


 一人っ子だった私は自分が呼ばれるはずの名前を持つ双子の妹を脳内に創造することでようやく心の安定を手に入れた。


 その空想は私の成長とともに膨らみ、いつしか私は見えない妹に同情と親愛の念を覚えるようにさえなっていた。


 両親は生返事しかしない私を次第に疎ましく思い始めていたようだが、寒気がするような名前で呼ばれる妹に比べたらマシだと本気で思っていた。


 ところがこんな私にも恋をする季節がやってきた。


 両想い、付き合うようになった彼は私のことをあだ名ではなく名前で呼びたいと言った。


 もちろん私は断固として拒否をした。彼には隠し事をしたくなかったので理由もきちんと説明した。


 すると彼は予想もしなかったことを言い出した。


「え、君の名前、素敵だと思うけどな。俺は好きだよ」


 雷に打たれたような衝撃があった。


 素敵? 好き?


 信じられなかった。でも彼の目は真っ直ぐで嘘を付いているようには見えなかった。


 そして一番信じられなかったのは素敵と言われてちょっと嬉しくなってしまった私の心だった。


 長年付き合ってきた自分の心に裏切られた気がした。


 私の頭の中で妹が嬉しそうに笑顔を見せていた。


 その夜、真っ暗にした自室で私は鏡を見ながら問い掛けた。


 おまえじゃない! 褒められたのは私よ!


 彼が褒めてくれたのは私の名前よ?


 違う! 違う! それは私がお父さんとお母さんに貰った名前で……。


 それを捨てたのはお姉ちゃんでしょ? これはもう私の名前なの。


 違う! あんたは幻だもん! あんたに名前なんて要らないんだ!


 あら、勘違いしてるわね。本物だから名前があるわけじゃないのよ?


 えっ?


 名前がある方が本物なのよ。私には名前がある。出生届にも載っているちゃんとした名前が。でもお姉ちゃんはどうかしら? みんなに呼ばせている名前のあなたは本当のあなたなの?


 本当の……、わたし……?


 そう。あなたは本当のあなたなの? 自分自身が創り出してしまった空想の人物なんじゃないの?


 違う。それは妹の方だ。私はそれを知っていた。でもそれを言おうとするとなぜか声が詰まった。


 本当に違うのだろうか。幻なのは妹? それとも……。


 あああああああ!


 ガチャンという音がした。目の前には割れた鏡。突き出された私の右手からは血が滴っていた。






 最近、友達から人が変わったようだとよく言われる。


 付き合い始めたばかりの彼氏からもそんなことを言われた。


 でも「悪い意味ではなく良い意味で」ということなので、まあ、良いだろう。


 自分に自信を持つのは決して悪いことではない。


 例えば私には親が付けてくれた素敵な名前がある。





                (了)






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