温泉の熱か、別の熱か。

アインは清潔感溢れる中にも、店構えや庭園に倣った意匠の脱衣所を見て居心地の良さを感じていた。



城での暮らしも今となっては慣れたものだし、貴族が泊まるような宿の中でも一番高級な部屋に泊まることだって慣れた。

同じ高級感なのに、この宿のそれは何処か親しみやすい。

寛ぎやすい、という言葉がよく似合った。



「――――さて」



取りあえず服を脱がなければ。



シャツのボタンを上から外していき、ひと先ず上半身だけさらけ出す。不意に髪を乾かす魔道具などが置かれた横長の鏡に目が向けられた。そこに映るのは、磨き上げられたアインの上半身――――だが、そんなのに気を取られた気ではない。



「…………何があったんだろう」



ふと、鏡に映った自分の肌に炎が重なったように見えた。

ふと、炎が重なった肌が焼けただれていくように見えた。



これらはあの日、ヴェルグク倒したのちにセラと戦った日のことだ。

泉に移った自分の肌を見て、なんて大けがを負ってるんだと思い、セラとの実力差に圧倒された記憶がある。

今こうして思い出していたのは、しばらく前にセラが残した言葉のせいだろうが……。



「あの人は秘密主義すぎるんだよ……はぁ……」



不満を口にするも、心の底ではわかっていた。

振り返るとセラとの戦いは特定の条件下での根競べみたいなものだったから、仮に彼女が『権能の糸』の力を容赦なく使っていたら、アインに勝ちの目はなかった。

言うなればあれは、勝ちを譲ってもらったも同然だ、とアインは考えている。



これらの事実を思い返していた理由というのも、セラが秘密主義なことに起因する。



「俺がもっと強ければ……」



消沈した声色で呟いたアインはズボンのポケットに手を差し込むと、そこに入れていた髪留めに使う紐を取り出す。男性にしては長めの髪だから、入浴する際はそれで髪を縛った方が楽なのだ。



考えても仕方ないと諦めたアインはその髪紐を咥え、空いた両手で髪の毛を後頭部から手櫛を通すように。一通り通し終えてから軽く縛って留めた。

後は最後にタオルを手にして、服を脱いでから大浴場へつづく扉に向かう。



それを開くと、硫黄の香りを孕んだ湯気がアインの全身を横切った。



「おぉ~……」



想像以上に広い大浴場だった。

岩石を磨いたような石畳を歩いた先にある、一際大きな湯舟に目が奪われる。この湯舟の忠心にはオブジェであろう石の彫刻が鎮座していた。

他にも、様々な温泉で満たされた湯舟が散見される。



湯気で見通しがいいわ、、、、、、、、、、けではないが、、、、、、、楽しみになる光景が広がっていた。



最初は――――やはり、身体を洗わなければ。



アインは一番にシャワーが置かれた所に足を運び、なによりも先に全身を洗った。

振り向き、どこのお湯から入ろうかと思って辺りを見渡す。やはり見通しが悪いせいもあって、目星を付けるに至れなかった。



そのため最初に行くのは一番目立つ温泉から、と考えて歩き出した。



一際大きな湯舟に入ったお湯は暑めで好みだった。

ついでにオブジェを回りながら次にどこに向かうか物色して、最終的に出入口の裏手――――オブジェの裏側に腰を下ろし、温泉の心地良さに身を委ねた。



「…………なんてことだ」



心地良すぎて立ち上がれそうにない。

全身が温められている感覚に合わせて目を閉じたら、お湯が流れる音だけが耳に届いて心身ともに落ち着いた。

アインは背にしたオブジェの手前にある段差に両腕を上げ、緩み切った格好で寛いだ。



それが、三分ほど過ぎた頃だったろうか。



「あら?」



と、近くから聞きなれた声が届く。



カティマも言っていたが今のアインは油断しきっている。

更に温泉に浸かり、幼い頃から散見された持ち前の抜けっぷりをありありと見せつけていた今、その声の主が近くに居る事実に正常な判断を下すことを忘れていたのだ。




◇ ◇ ◇ ◇




皆で浸かった温泉での時間は一時間と少しだった。



それから夕食を終え、三人がアインの部屋を訪ねた。

クリスは酔いがさめたらしく、浴衣の襟から谷間が見え隠れしそうになると、照れくさそうに背を向けて直すようになっていた。



その、いつものクリスらしさにほっと胸を撫で下ろしたアインは、冷たい茶を飲みながら窓際の椅子で外を眺めている。



(――――王太子精神メンタルはやがて、国王精神メンタルへと昇華する)



憂いはない。此の程の出来事で確信した。



「アインもお菓子をどうぞ」


「うん、ありがと」



茶菓子を持ってきてくれたクローネに爽やかな笑みを向けて返す。

いくらでもかかってこい。今の自分は無敵だからね。

自信を漂わせた彼の笑みは精悍だった。まさに向かうところ敵なしであると言うように。



「…………ふふっ」



その笑みに気が付いたクローネがくすっと笑う。



「ねぇねぇ、次はこのお部屋のお風呂にする?」



耳打ちをしたクローネがしーっ、と人差し指を自らの唇に押し当てる。いつもと違った浴衣姿もまた色っぽく、湯上りの香りも相まって湛えんばかりの可憐さだ。



彼女もまた知っていた。

オリビア同様に、アインの男心を隅から隅まで理解しきっている。強気に振舞うアインに可愛らしさを覚え、いじりたくなってしまうのも愛おしさによるものだった。



「そ、それについては関係部署に問合せを――――」


「任せて。私、まだ補佐官の仕事をしてるわ」


「……実は体調が優れなくて」


「まぁ大変! 看病してあげないと!」


「……じゃなくて、実は温泉が苦手だったりして」


「嘘ね。さっきはなんだかんだ楽しんでいたじゃない。最後の方なんか、私たちの手を握って元気に歩いてたのを忘れた?」


「……愛してるよ、クローネ」


「ええ。私の方が愛してるわよ」



気持ちよく事実上の敗北宣言をして、クローネに一度口づけをしてもらう。

アインはこれで満足してしまっていいのかとどうするべきかと熟考するも、歓談に花を咲かせるオリビアとクリスの下に戻るクローネの後姿を見ていると、考えるまでもないと結論付けて窓の外に顔を戻す。



すると――――。



「うわぁ……なんか来た……」



窓の外というよりかは、窓伝いにこちらにやってくる浴衣姿の猫がいた。その表情は疲れ切っている。

彼女は見慣れない手袋をしていた。

恐らくそれは魔道具だろう。非力な彼女が窓伝いに来れるのがその証拠だ。



――――あ・け・て・く・れ・ニャ!



窓を叩きながら訴えかける彼女をどうしたものかと思たが、力尽きて墜落されても気分が悪い。だから観念して窓を開け、彼女を部屋の中へ引き入れる。



「なにしてんのさ」


「に、逃げて来たのニャ……!」


「えっと、誰から?」


「お父様たちに決まってるニャろッ!? なーんなのニャあいつら! 馬鹿みたいに酒を煽って人に絡みはじめて! 面倒にニャったからディルを置いて逃げて来たのニャッ!」



カティマが逃げるとなれば相当だ。

そして、そこにおいて来られたディルが可愛そうである。



「とりあえずさ、俺に謝ることない?」


「ないニャ。温泉のことを言ってるのニャら、少しも楽しくニャかったってあの三人に行ってくるといいニャ。そうしたら、私はどんな謝罪でもしてやるのニャ」


「それはずるいじゃん」


「ニャハハッ! そうそう、私はズルいのニャー!」


「……なんだろ、折檻しづらいこの感じはどうしたものか」


「ま、そう言うもんニャ。でもどうしても私を折檻したいってのニャら、私が置き土産でも残してやろうかニャ?」



ニヤリと笑ったカティマがアインの横を歩きだした。



「何をするのさ?」


「いやニャに。クリスの可愛い姿でもみせたろーかニャって思ってニャ。どうニャ? 興味あるかニャ?」



断然、ある。

アインは静かに首を縦に振った。



「クリス! クリスは居るニャ!?」


「は、はい!? っというかカティマ様いつの間に……っ!?」


「そーんなことはどーでもいいのニャッ! それで、風の噂でクリスが酒に酔って大胆な行動をしたと聞いたニャ! それは本当かニャ!?」



一瞬、クリスは「うっ」と唸った。

けれどすぐに「こほん」と咳払いをして居住まいを正すと、何故か堂々とした様子でこれまで座っていたソファを立ち上がり、凛然とした表情で言う。



「はい。いくらアイン様のお傍に居させていただけているとはいえ、恥ずかしい姿をさらけ出してしまいました。アイン様にも申し訳なく思っております」



みてくれは立派だった。

だがそれもカティマに崩される。



「アレ、実は酒じゃないのニャ」


「…………はい?」


「ニャから、酒っぽい味にしただけのジュースニャ。こういうこともあろうかと、私が密かに用意して入れ替えておいたのニャ」



十数秒、まさに十数秒クリスは閉口した。

真顔になり、ただまばたきを繰り返したのだ。

彼女に変化が訪れたのは、三十秒を過ぎてからである。胸元から首まで、そして顔まで下から上に肌が真っ赤に染まっていき、最後にはぼんっ! と音が鳴りそうなほど身体を揺らす。



「そもそもが自滅ってことに気が付いてないのかニャ? エルフのクリスは薬が効きにくいから、酒におぼれるのだって難しいはずなのニャ!」


「カ、カカカカティマ様……!? あの、あの……っ!」


「とゆーわけで、私はこれにて失礼するのニャ―!」



隠密のようにやってきて、嵐のように立ち去るカティマが最後に爆弾を残していった。

実際、アインから見ればクリスの姿は可愛らしかった。羞恥心が限界に近いのは見て分かるが、可愛らしく思えてしまうのは止められない。



その様子を見ていたら、クリスは慌ててアインの傍にやってきた。

彼女はそのまま膝立ちになると、椅子の上でくつろいでいたアインの胸元に顔を押し付ける。すると両手で力なく胸板を叩きだした。



「あ、甘えたらダメなんですかっ!? いいじゃないですかっ! 日頃の甘えたい欲求を抑えられなかっただけなんですからぁっ! お酒を言い訳にするくらい、偶にはいいじゃないですかぁっ!」


「大丈夫。俺は一言もダメなんて言ってないよ」



クリスがもう一度が顔を見せたのは十数秒後だ。

真っ赤に染まった顔。潤んだ瞳。尖らせた唇。

そんな彼女は何も言わずに唇をアインと重ね合わせると、何度か啄むようにしてから立ち上がる。



「ほ、ほら! アイン様も一緒にお話しますよ!」



そのままアインの手を取り、クローネとオリビアが待つ場所へ連れて行く。浴衣の後姿から見える彼女のうなじは、頬に負けじと真っ赤だった。

 



◇ ◇ ◇ ◇




今日のお話は描写の警告が怖かった&そういう描写が苦手な方もいらっしゃるかもしれませんので、一部(というか温泉付近)をすべてなろうの年齢制限がある方に投稿しております。

ご興味がある方は、そちらでご覧いただけますと幸いです。



また、8月6日にコミックス4巻が発売となります!

今回は海龍編となっておりますので、菅原先生が描く手に汗握る海龍を是非是非お楽しみくださいませ! 好評予約受付中です!

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