閑話『想いの育ち方と、甘え方』
その夜、クリスは走馬灯のようにこれまでのことを夢に見た。
――――これは今から十数年前のこと、オリビアがアウグスト大公邸で離縁を決めた夜のことだ。
オリビアからの連絡を受けたクリスは夜の闇に紛れ、部下を引き連れて王都を脱していた。
彼女らは王都近郊の海沿いで船に乗ると、そのまま沖まで出て、港町マグナから到着したばかりのプリンセス・オリビアへ乗り込んだ。
「クリスティーナ様」
桟橋を過ぎて甲板に乗ったところで話しかけてきたのは女性の騎士だ。
近衛騎士には多くの女性騎士がいるが、その理由は単純で、相手が女性の王族の場合、特に同性でなければ外聞が悪い場合もあるからだ。
「姫様のご子息ですが、どうなさるご予定でしょうか」
「勿論、イシュタリカへお連れする予定です」
「……少し心配なのですね。よろしいのですか? 我ら近衛騎士一同、陛下がラウンドハートを嫌悪している事実を存じ上げておりますが……」
「大丈夫ですよ。陛下はアイン様とお会いしたがってますし、アイン様自体の振る舞いは素晴らしいと聞いてます。オリビア様は、アイン様さえいれば何もいらないと言ってらっしゃるぐらいですからね」
その言葉に近衛騎士は虚を突かれた。
なるほど、聖女と謳われたオリビアがそこまで言うのなら。
すると彼女はクリスの前を去り、整然と後ろを歩きだす。
――――それにしても。
「はぁ……不安しかない……」
まず、計画を知らない者に見つからないようにするだけで至難の業だ。
特に面倒な存在としては、ウォーレン子飼いの隠密集団もいる。幸いにも、その頂点であるリリが王都にいないことは救いだったが、大変な任務に変わりはない。
プリンセス・オリビアに乗ってさえしまえば問題は無い。
口は悪いが逃げきれるだろうから。
「どうか何事もなく、お二人を連れて来られますように」
それと、アインと言う男の子が本当にいい子でありますように。
クリスは空を見上げて祈りを捧げた。
◇ ◇ ◇ ◇
祈りが不要であったことを知るのは、港町ラウンドハートに到着して間もなくだった。
彼女は船を下りるや否や、自分を見て警戒するアインに気が付いた。
――――私が怖くないのでしょうか?
唐突に現れたのは、自分たちの技術をはるかに上回る超大国の戦艦である。それを前にして、しかも多数の騎士が現れたというのに、アインは臆することなくオリビアを守るように立ちはだかった。
それを見て、クリスは兜の中で目じりを下げた。
「……勇敢な騎士様、我々は敵ではありません。どうか安心してくださいませ」
彼の前で膝を付くことに抵抗はなかった。
もしかしたら、心の中ではラウンドハートの血を引く彼に膝を付くことに、若干の拒否反応はあったかもしれない。
しかし今、彼女はオリビアにするのと同じように膝を折り、アインに優し気な目を向けた。
「味方?」
きょとんとしたアインを見て、クリスは更に微笑んだ。
――――こうしてみると、本当にオリビア様によく似たお方ですね。
心の中で呟き、彼の敵意を拭おうと試みる。
「はい、味方です。味方という表現では、私共の立場では失礼にあたりますが……。少なくとも、あなた方お二人に仇なす者ではありません。――お初にお目にかかります、アイン様」
「あ、はい……。こ……こちらこそ、はじめまして」
それからオリビアと久しぶりに言葉を交わしたり、秘密裏にイシュタリカへ帰ったりなど話題に事欠かぬ時間を過ごし、アインは近衛騎士の不安をよそにシルヴァードに気に入られ、王太子となったのだ。
これは誰にとっても忙しない、また経験のない濃密な一日であった。
◇ ◇ ◇ ◇
「暗黒ストロー……暗黒ストロー……」
「クリス様。何故急に物騒な言葉を呟きはじめたのですか」
ある日の晩、クリスは城内の設けられた自室に居た。
彼女は最近聞いたばかりの技名を反芻しながら、マーサが部屋の掃除をしてくれる様子を眺めていた。
…………部屋の片隅で、膝を抱きながら。
「アイン様がカティマ様と考えた技なんです」
「…………あら、まぁ」
「どう思いますか?」
「返答は差し控えさせていただきますね」
昼間に彼女がアインに告げた答えとほぼ同じ返答だった。
「一応お聞かせください。どのような技だったのですか?」
「アイン様が生み出した幻想の手の先に、カティマ様特製のミスリルで出来た爪を装着して、魔物に突き立てることにより直接魔石のエネルギーを吸う技です」
それ以降、マーサは何も言わなかった。それらしき答えが思いつかず、頬を引き攣らせながら掃除に戻ったのだ。
「あぁ……不安です……そろそろアイン様にも騎士を付けないといけないのに……こういうことに動揺するような騎士では……」
クリスのつぶやきを聞き、マーサが言う。
「そのことでしたら、昨日、夫が考えがあると言っていましたよ」
「えっ、ほんとですか? ロイド様ならもうお考えだと思ってましたけど……それで、なんて仰っていたのです?」
「様々な事情を鑑みた結果、やはりクリス様にもお傍についてもらうつもりだそうです」
「それは――――私なら大丈夫ですが、でもオリビア様が居ますよ?」
「ですので、学園に通われることが正式に決まり次第、アイン様にはうちのディルを近くにおいてもらっては、と言ってたんです」
「あ……いいかもしれません、それ」
ディルなら学園の中でアインを守れるし、朝の登校の後で任せるのも問題ない。
彼自身の強さも一般の騎士と比べれば決して劣ることもない。彼は学園を卒業して少し経てば、間違いなく近衛騎士の試験にも合格できる少年だ。
「アイン様が学園かー……」
「ご不安ですか?」
「ええ……入試だけが心配ですね」
「入試? 学園はいくつか選ばれると思いますが、恐らく王立キングスランド学園では? だとしても、アイン様の学力と剣の腕なら――――なるほど、そういうことですか」
マーサはクリスの懸念に気が付いて、僅かながら嘆息を漏らした。
そして二人は顔を見合わせ、やがて来る試験が何事もなく終わることを祈ったのだ。
――――が、しかし。
「あっ……」
王立キングスランド学園の入試が行われたその日、アインを見送ってから数十分後。
クリスは学内から漂う異様な魔力の圧を感じ、同時に腕利きの冒険者が放つ闘気を肌で感じ取り、額に手を当てて天を仰ぎ、すぐに城門の壁の傍でしゃがみこんだ。
「アイン様……やってしまったのですね……」
暗黒騎士の力は使わないようにとシルヴァードにも言われていたのに、試験官に煽られて使ってしまったのだろう。
これは叱らなければならない。
護衛を務める騎士として、そして年長者として。
…………とか思っていたのだが。
「試験のためとはいえ、クリスさんたちとの時間まで貶されたら、俺だって怒りますよ」
叱りつける厳しい態度はあっさりと消えた。
アインの言葉を聞き、彼の苛立った顔を見てスーッと消えてしまった。
――――へ、陛下が窘めてくださるでしょうから……。
自分に弟が居なくてよかった。
居たらきっと怒れない、ただの甘いだけの姉になってだろうから。
クリスは生まれてはじめてそれを自覚しながら、諫言することを諦めたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
それからというもの、クリスは学園に通うアインの送り迎えを毎日のようにつづけた。
そして、遠足のときは成長したアインに気配を悟られ、すべてがウォーレンの策であることまで見抜かれたことに感服した。
きっと、この方はすごい王になる。
幼き日の第一王子もまた天才であったが、アインにも確かな王の力を見出していたクリスは、その将来が楽しみでたまらなかった。
そんな未来の王は少し奔放だったが、どこか弟が出来たようでクリスも楽しかったことを覚えている。
しかしその平穏な日々は、ある巨凶の出現により変わってしまう。
その巨凶がマグナ沖に現れたという報告が届いたのは、クリスがアインを学園へ送り届け、白に戻って数十分後のことだった。
城内はすぐに騒々しくなり、頼りのウォーレンがいつになく神妙な面持ちで考えごとにふけっていた。
そんな中、クリスは一人覚悟した。
討伐隊を指揮するのは自分しかいない。
ロイドは城に居るべきで、そうなると代わりに相応しい人材が見当たらないのだ。
当たり前だがイシュタリカにも騎士は大勢いて、その騎士たちをまとめる要職に就いたものだって大勢いる。
そうはいっても、相手が相手だ。
対する魔物が海龍……それも二頭であれば、戦力の面から行っても、クリスが行くことが最良であることは彼女自身も分かっていた。
「ウォーレン様」
一分一秒でも早く決断しなければならないのに、ウォーレンは大会議室に集まった貴族を前に未だ判断で来ていなかった。
そのことが、クリスにはひどく不思議に見えていた。
「私がマグナに向かいます」
「……いいえ、なりません」
反対されるとは思っておらず、クリスは驚きのあまり席を立った。
「悩んでいる時間はありません! ウォーレン様だってお分かりのはずです! 今回の騒動、私以上の適任は居ないんです……っ!」
「それを判断するのはクリス殿ではございませんよ。判断するのはこの私、ウォーレン・ラークでございます」
「でも……っ!」
ウォーレンは頑なに認めようとしなかった。
それどころか別の案を急に口にしはじめたのだが、どれもこれもが明らかに被害が大きくなるものばかりで、どこかウォーレンのわりに冴えない案ばかり。
いつしか貴族たちの中でもクリスを推す声が増していき、その声はウォーレンにも抑えきれぬ波となった。
されど、ウォーレンは頷かない。
徹底的に頷かず、彼への不満が貴族たちの中で徐々に増していく。それは、普段近くに居るクリスを守ろうとしているのではないか? という疑念の塊だ。
実のところこれは間違いではない。
ウォーレンはクリスの血統を知っていたから、絶対に死地へ送るまいと決めていた。
だが、最後はクリスが制止を振り切って大会議室を後にした。
オリビアの悲しげな顔を見て、決心が鈍らぬよう駆け足で城を後にしたのだ。
彼女は戦場で必死に戦った。
しかし必死に戦おうが所詮は人の集まりで、大国イシュタリカに名を刻む巨凶、海龍の対処に余裕が生まれるわけではなかった。
やがて戦況は一変し、残る一頭の海龍が猛威を奮う。
クリスが乗る戦艦も狙われて、彼女はこれが最期と覚悟した。
――――そのとき、彼がやってきた。
脳裏を掠めていた弟のように思っていたアインが現れて、海龍の突進をその身一つで止めてみせたのだ。
彼はそれからやり遂げた。
たった一人で、ほぼ無傷の海龍を討伐するという偉業を成し遂げたのだ。
「殿下はご無事です。ですので副団長殿も――――」
「いいえ。私はここから離れません」
治療師はクリスに休憩するよう提案したが、クリスは頑なに首を縦に振らず、膝の上に寝かせたアインから目を放そうとしなかった。
彼女としても、このグレイシャー家の船の中に満足なベッドがあればそうしたが、徹底的に荷物を捨てていたこの船の中に、もうそんなものは残されていない。
であれば戦艦に乗り込めばよかったという考えもあるが、海に浮上して、まだ目覚めないアインを無理に動かすことをクリスが避けていた。
「……承知致しました。何かございましたら、すぐにお呼びください」
「はい。分かっています」
クリスはアインの頬に掛かった彼の髪を指先で避け、その頬が暖かいことに安堵する。
「私は怒ってるんですからね……アイン様」
まだ目覚めない彼に話しかけ、瞼に涙を浮かべはじめる。
感情がぐちゃぐちゃで、視界がぐるぐるしてきそうな錯覚を覚えた。
「……ダメですよ。ただの護衛を助けるために命を懸けるなんて、王太子殿下がしたらいけないんです」
クリスはそう言いながら、治療師が包帯を巻いたばかりのアインの両手を見た。
海中での戦いの余波が残るその両腕は、痛々しいあざや傷が残っている。
クリスはその腕に手を伸ばしかけて、触ってアインが痛かったら悪いと思って手を引っ込めた。代わりにアインの頬を軽く撫でながら呟くのだ。
「いつの間に、こんなに大きくなってたんでしょうね」
アインとはじめて会った日のことを思い出す。
いつしかアインは見違えるほど成長していたようで、はじめて会った日とは顔つきも、そして身体付きも変わっていた。
まだ少年らしさが残る顔立ちに、若干の凛々しさが宿りはじめていたのだ。
「起きてくれないと、許しませんからね」
これからも見守りたい。
彼が成長していくさまを近くで、ずっと見守りたいと思った。
「あれ、ここ……」
彼の唇がにわかに動き、声を発した。
クリスは大きく身体を動かして喜びたくなる感情に必死に耐えて、目じりから漏れだしそうになった涙に堪え、なるべく優しい声で言うのだ。
「お目覚めですか。お馬鹿な王太子殿下?」
と。
◇ ◇ ◇ ◇
海龍騒動の後、アインはしばらくしてからエウロへの名代を命じられた。
それ自体はよかったのだ。
クリスも自分が同行するだろうと最初から思っていて、ウォーレンからそれを頼まれたときは「そのつもりでした」と間を置かずに返答したほどである。
しかし、予想外だったのはその帰りのこと。
クリスには何もできなかった。
唐突にアインの様子が変わってしまい、彼女も恐れるほどの濃密な魔力の圧に負け、満足に動くことが出来なかった。
その結果として、アインはホワイトキングの壁を破壊。
身の丈に合わぬ強大な力を使った反動として、彼は半年に及ぶ長い時間、目を覚ますことなかったのだ。
「クリス殿。アイン様がイストに行かれる件ですが――――」
「私が一緒に行きます」
「……それはもう、できれば頼みたいと思っておりました。しかし即答ですな。少々驚きましたぞ」
城内の一室にて、ウォーレンがクリスの即答に目を見開いて驚いた。
「――――今度は絶対にお守りします。私の命に代えても、アイン様のことは絶対に絶対にお守りしますから」
決意に満ちた顔を声を聞き、ウォーレンは柔らかな笑みを浮かべてヒゲをさする。
すると彼は、信用していますと前置きして話をつづけた。
「近頃も以前にも増して、クリス殿がアイン様のお傍にいてくれて安心しておりました。さて、何か心の変化でもございましたか?」
「心の変化……?」
「ええ。お二人は以前から相性が良かったと思いますが、最近はそれが顕著でしたからな」
クリスはその問いかけへの返答に戸惑った。
言われてみれば確かにここ最近、アインと一緒にいることが多い気がする。
海龍の際に助けてもらったから?
名代帰りに何もできなかったから?
……どれも違うような気がした。
ウォーレンをよそに、彼女は何度かまばたきを繰り返して考える。
どうして私は、こんなにアイン様の傍に居ようって……。
少なくとも恋心ではないと知っていた。というか、年齢の差や立場を鑑みて、それがあり得ないことであるともわかっていた。
「――――アイン様って、目を離せないお方ですから」
自然とこの言葉が口から漏れだした。
「目を離すと、何処かへ行ってしまいそうなお方なんです。手が届かないほど遠くへ、手が届かないほどの存在になってしまいそうで、ちょっと不安なんです」
ウォーレンは何も言わず微笑んでいた。
好々爺然と、楽しそうに。
◇ ◇ ◇ ◇
次の予定が決まった。冒険者の町バルトだ。
アインの予定が徐々に決まり、今回はクローネも同行することがクリスの耳にも届いた。
アインとクローネの二人は年々仲睦まじく、見て居るのがじれったい姿を見せてくれている。そんな二人にとっても、今回の行程はいい刺激になるだろう。クリスは密かにそう考えていた。
「ちゃんと、バルトの様子を確認しておかないと」
そんなクリスの最近は、休日になると自室でバルトの様子を確かめることや、アインの護衛体勢について確認することに一日を使っていた。
言わずもがな、バルトは危険を伴う都市だ。
多くの冒険者が夢を見て足を運び、一獲千金を目当てに魔物を戦う。あそこはそんな場所で、イシュタリカでも特に強力な魔物が跋扈する地域である。
――――コン、コン。
扉がノックされたことを受けて、クリスが椅子から立ち上がり扉に向かう。
「マーサさん? どうしたんです?」
「近衛騎士の方からお願いされたのです。こちらをご確認ください」
そう言って渡されたのは、近衛騎士たちの勤務表だ。
いつものクリスであればそれを見て、数分と経たずに問題ないといってサインをする。
だというのに、今日のクリスは違っていた。
今日の彼女はマーサに部屋の中へ入るよう言うと、受け取った勤務表をにらめっこをして、ああでもない、こうでもないと言い出した。
「……えっと……先週はこうだったから……今週は……」
珍しく考えている姿を見たマーサは思わず口を開く。
「どうされたのですか? クリス様にしては珍しいですね」
「その……最近はあんまり近衛側の仕事をすることがなくて……ああでも違いますよっ!? ちゃんとアイン様のお傍にいて、しなければならない仕事をしていますからっ!」
返事を聞いたマーサは思い出した。
そう言えば、最近のクリスはあまり近衛騎士と行動を共にしている様子がない。アインが半年の昏睡を経てからというもの、特にそうだった気がしてきた。
「アイン様に意識を向けすぎた結果、近衛の仕事の仕方を少し忘れてしまいましたか?」
「うっ…………」
「なるほど。図星のようですね」
「で、でも!」
「分かっていますよ。しなければならない仕事はしっかりなさっておいでですものね。ただ、以前は休日も近衛の詰め所に顔を出しておられましたから、些末事も数分と経たずに確認できたおいでだったのでしょう」
最近の休日はバルトの件で確認することが多かったが、実はその前も大して変わらない。
イストに行った際はイスト周りの調べ事をしたり、何かあった時のため、逃げ道を考えたりと勤しんでいた。
更にその前に遡っても、彼女はアインの傍がオリビアの傍にいた。
「私としては、それほどご心配なさらずとも大丈夫だと思いますよ。アイン様は同年代の方たちと比べても遥かに成熟なさっておいでですし……カティマ様と一緒にいらっしゃる際と違って、普段は落ち着きのあるお方ですから」
「…………わかってます」
でも、すぐ傍で見ていたいと思っていたのだ。
しかし数日後、彼女は予想だにしていなかった言葉をアインに聞かされ、しばらくの間、まるで目的を見いだせなくなったかのように、無気力になってしまう。
――――マーサが部屋にやって来てから数日後、クリスは同じように自分の部屋で。
「どうしよう……」
その新たな休日に、この一日を何をして過ごすか迷っていた。
前までは結局、近衛騎士としての仕事をしたり、町に出て騎士の詰め所に顔を出したりして過ごしていたのだが、それをする気にもなれない。
『わ、私の護衛は……私はいらない子、ですか?』
『……"貴方"を守れれば、私はそれだけでいいのに』
アインを見送る少し前に呟いた言葉を思い出す。
「弟離れできない姉って……こんな感じなんでしょうね……」
思えば部下の中にもそういう近衛騎士が居た。
その部下は幼い弟が居て、それはもう溺愛していると聞いたことがある。
朝は弟に見送られ、帰宅して一番に聞くのも弟の声。更に更に、休日は絶対に弟と共に城下町に出て買い物をするというのだが、その弟がある日、マグナにある学園に通うことに決めたそうだ。
それからというもの、部下はありったけの有休を使って精神を落ち着かせた。
通常、近衛騎士という立場は騎士の中で一番のエリートで、実力のある者しかなることが出来ない立場にある。
だというのに、それほど心が落ち着かなくなるのかとクリスは叱責しそうになったことがある。
これはアインが来る前の話だったが、今では部下の気持ちが分かってしまう。
「
一時は近衛騎士を辞するとも言った部下だが、弟に「近衛騎士をしてるお姉ちゃんがカッコいいよ」とか言われたらしく、踏みとどまった。
今のクリスは自分が立ち直るべく参考にしようと思ったのだが、さすがに難しそうだ。
――――いつもの凛々しいクリスさんが好きだよ。
たとえばこんな言葉をアインに言われたら、一瞬で立ち直れるという自信があった。
心の中で、彼の言葉で言ってもらう妄想をしたら元気が出てきたから、間違いない。だが同時に、何を考えてるんだ、私は、と頭を抱えて床に倒れ込み悶絶した。
「バカ……変な妄想をしてる場合じゃないのに……」
その後、手持ち無沙汰な自分を抑えるべく城内を闊歩した。
様子を見ていたオリビアがマーサを介して、静かになさいと言ったのは数十分後のことである。
◇ ◇ ◇ ◇
バルトでも色々あったそうだ。
それを聞いたクリスがやっぱり自分も傍に居たかったと思ったのは、今の彼女には避けられないことだった。
だけど、そんなことがどうでもよく思える出来事が起こった。
『過去の懲罰について、一つ撤回を』
アインを守りたい。
もう置いてけぼりは嫌だと言ったクリスに訪れた光景は、国王シルヴァードと舌戦を繰り広げるアインの姿だった。
『だがアイン。元帥に戻すことはできぬだろう?なにせ元帥にはクリスが……』
『ええ。ですのでクリスを元帥から罷免。私とお母様の専属護衛として、近衛騎士団の団長として席を取り直します』
傍で話を聞いていたクリスはここで気が付いた。
アインが自分の褒美をすべて使うと言った理由も。わざわざシルヴァードと仰々しい舌戦を交わすことになった理由も。
同時に、胸が熱くなった。
そして弟のように思っていたアインを見て、その背中がいつの間にか本当に大きくなっていたことに気が付く。
『元帥を罷免などと簡単に申すでない! ロイドを元帥に戻すと聞いて驚いたが、更に馬鹿な事を申すとは何事かっ!?』
シルヴァードが激昂するのも無理はない。
海龍騒動の際にロイドを罷免としたときもかなり無理をした。
だが、アインを止められず危機に晒した事実への罰を与えなくてはならなかったとしても、当時の事情を鑑みて、グレイシャー家にも罰を与えないためにはアレしかなかった。
そのためロイドは騎士ではなくなり、シルヴァードの私兵のような立場になったのだ。
代わりにクリスが元帥に昇格したことはその影響である。
だというのに、アインはそれらすべてを覆す大胆なことを口にしていたのだ。
『セージ子爵とのこと、その裏付けとして多くの密談を露にしたこと……聞いておりますよ?多くの不正が見つかったとか。間接的ではありますが、その褒美も頂けるんですよね?』
『あぁくれてやる!だがアイン!そのように軽々しく物事をっ……――』
一歩も引かないアインは普段とまるで別人だった。
そこに少年らしさはない。
名君と謳われるシルヴァードと互角以上に渡り合う、海龍討伐の英雄がそこに居た。
『ロイドが騎士として戻るならば、彼の力を最大限発揮できるのは元帥です。更にいえば、クリスは元帥に向いた性格や能力ではない。どちらかといえば護衛向きだ』
『向き不向きは誰にでもあろう!そんなことでこのような人事などっ……』
『感情論ではありません。多少強引な部分があろうとも、"イシュタリカ"のためになることをしてほしい。ただその一心なばかりです』
クリスは今までアインを弟のようだと思っていた自分を恥じて、認識を改めた。
弟でも、少年でもない。
彼は間違いなく一人の男性で、それも英雄なのだと。
『……あなた? もうこのぐらいにしておいたら?』
とうとうララルアが口を開くと。
『無理やりな所はありますけど。でも筋は通ってます。アイン君、いえ……王太子。この返事は明日朝には致します。それで如何でしょうか?』
シルヴァードに認めるよう言って、この場を収めた。
それを受けてアインも頷いた。
『わかりました。では朝のお返事をお待ちしております。……クリス』
『へぁっ……?は、はいっ!』
『退室する。行くぞ』
有無を言わさぬ強さに、クリスはただ素直に応じていた。
面前を進む背中を眺めていると、以前にも増して頼りがいのある背中だと思った。いつの間にか身長だって、背の高いクリスとほぼ同じだ。
国王の寝室を出てからは、やがてさっきまでの強さも鳴りを潜めていく。
『クリスさんの身柄を貰いにいったって感じかな』
『そんな軽いものじゃ……っ。アイン様の貰った、大切な褒美だって全部……っ!』
『別にそれはいい。使い道は特になかったし、こうして使えるなら残しておいてよかったって思うよ』
彼女はその笑みに思わず見とれそうになった。
そして――――。
『クリスティーナ・ヴェルンシュタイン。そなたを元帥から罷免とし、その席を王太子アイン、並びに第二王女オリビアの護衛とする。また、近衛騎士団長としての責務は継続――――というわけでございます』
翌朝、ウォーレンが彼女の下を尋ねて辞令を告げた。
クリスは頬が緩みそうになるのを止められなかった。
目の前のウォーレンにそれを悟られて恥ずかしがったが、すぐにウォーレンからアインの下へ行ってくださいと言われ、軽い足取りで彼の下を目指す。
『……本日より、アイン様の専属護衛となりました。クリスティーナ・ヴェルンシュタインです。どうかよろしくお願いします!』
クリスはこの日ほど、自分の名を名乗ることに喜びを感じたことはない。
◇ ◇ ◇ ◇
あれからまた少し時間が過ぎた。
目下の問題は、最近のアインの様子が少し変だということ。
彼はどことなく気落ちしているというか、悩みを抱えているように見える。尋ねてみても「大丈夫だよ」としか返してくれず、クリスは無力感に苛まれていた。
せっかく専属護衛になれたのに、自分では力不足なのかと自己嫌悪していたほどだ。
「器ってなんだろうね……」
やっと教えてくれたと思いきや、クリスには理解が追い付かない悩みだった。
わかるのは、アインが王族としての悩みに苛まれているということだけで、どうして急にそのような悩みに駆られたのかはわからない。
アインと共にバルトへ行ったロイドに尋ねても、やはりわからないと言う。
クローネに尋ねても、彼女もまた急だから分からないと言った。
――――しかし、クリスはとある人物からヒントを得る。
「婆やも詳しくは存じ上げませんが、陛下とご一緒に王家墓所に向かわれた後から、お悩みになられているようですよ」
婆やことベリアが。
現王妃ララルア専属給仕のベリアから情報を得た。
きっかけは、クリスがアインのことで悩んでいた際のことだ。ベリアはクリスが悩んでいた城内のサロンへやってくると、暖かい紅茶を淹れて、何も聞かずにそう言って立ち去ったのだ。
「ベリアさん……?」
どうして? 本当ですか?
聞きたいことはたくさんあったけど、どれもこれも尋ねる前にベリアが立ち去ってしまった。残されたクリスはきょとんとしていたが、ふとした瞬間に紅茶を口に運び、心が落ち着いた。
あのマーサが逆立ちしても勝てないと言う給仕長の茶を久々に楽しんだ。
また一口嚥下して、クリスは「そうだ……」と口にした。
これが解決の糸口になるかは別だ。でも、できることを思い付いたのに行動しないことは考えられなかった。
クリスの頭には、エルフに伝わる古い儀式のことが思い浮かんでいた。
本来あれは婚約の儀式だ。
しかし、クリスはそれを自らの忠誠を示すべく使うことにした。本来の意味を知る人物は決して多くないから、大丈夫だと思った。
――――そうだ。私はアイン様の専属になったんだもん。
思い立ったら止まらなかった。
彼女はアインと共に謁見の間に足を運び、魔石を示すその儀式を行った。
胸の鼓動は緊張からか、それとも別の感情からか。
当時のクリスには皆目見当がつかなかったが、その儀式を行ったことに後悔はなかった。
「――――えっと、急にどうしたの?」
満足していた彼女がハッとしたのは、アインが小首を傾げたから。
なんでも、アインは悩んでいたのではなく考えていただけだという。
初代国王に憧れを抱いた彼はある出来事をきっかけに、自らの将来について考えていただけで、悲観的なことはなかったと言った。
自分の早とちりと知ったクリスは頬を真っ赤に染めた。
だがすぐに、心の内で大きな声で。
――――だだだ、大丈夫です! アイン様に魔石を捧げたことに後悔はありません! だから過程はどうでもいいんです! 結果だけが重要なんですっ!
誰に言い訳するわけでもなく、気恥ずかしさを隠すために。
こうしていると、アインはせっかくだから話し相手になってと言った。
そんな彼は以前と同じ笑みを浮かべていて、それを見たクリスは「良かった」と小さな声で言い、彼の後を追ったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
公務で王都を離れたアインが帰ってこない。
しかも、シルヴァードがその理由を語らなかった。
でもクリスは知っている。
シルヴァードが密かに「今度は何をするつもりなのだ……」とアインのことを呟いていたことを。
つまりアインに明確な目標があり、彼はそのために動いているということも。
「…………アイン様。いったいどこでなにをなさっているんですか?」
自分が居ないところで彼は何をしているんだろうって思った。
やっぱり、自分の護衛はいらないのかなって思ってしまった。
ううん、何かあったのかもしれない。
こんなに長い時間帰ってこないなんて、普通じゃないもん。
だったら、行かないと。
クリスは人知れず、彼の行方を探るべく行動することにしたのだが――――。
『――――だ! お帰り――――った!』
『本当に――――なのか!? お身体が――――っ!?』
これまで自室の窓際に座っていた彼女は、窓の外から聞こえてきた騎士たちの声を聞いて立ち上がった。
もしかして、アインが帰って来たのかもしれない。
居ても経ってもいられず、でも歩いてすぐに部屋に備え付けられた鏡を見て、彼女はおもむろに前髪に手を伸ばした。
こんなこと、別に気にする必要ないのに。
そう思っていたのに、身だしなみを気にして止まなかった。
「アイン様! お帰りで――――」
慌てて部屋を飛び出したクリスはアインの気配がする方角に駆けて行った。そこには疲れ切った様子のディルが居たから、間違いなくアインが帰って来たのだと思った。
だけど、アインの姿はない。
代わりに、アインによく似た美丈夫が居た。
――――誰だろう。
この時のクリスはアインを主体に凛々しさを考えて居たことに気が付いていない。無意識のことだったからだ。
「ただいま、クリス」
その声を聞いたクリスの足は自然と美丈夫に近づいた。
こうなってしまうと、もう無警戒である。
「色々あってこうなっちゃったんだけど、変かな?」
「い、いえ、更に凛々しくなられましたし……素敵だと思います……。でもその、本当にアイン様か心配になっちゃって」
結果、頼み込んでアインとの距離を詰めて、彼の近くで鼻を利かせた。
こうでもしないと、本当にアインなのか確信が持てなかったのだ。
「本当に――――本当にアイン様だったんですね!?」
言い終えてから、アインが仕方なそうな顔を浮かべてクリスを見ていた。
そのことに気が付いたクリスは自分の振る舞いを思い出して苦笑した。
すぐに、その苦笑はかぁっと真っ赤に染めあがる。
そう。
今のアインは以前と違い彼女よりも背が高く、さきほどの光景は傍から見ると、恋人同士が愛を確かめ合っているように見えたからだ。
ただでさえ大人びた考え方をしていたアインなのだから、年齢が離れているかなんて、傍から見ても分からない。
このことが、更に先ほどの大胆さに羞恥を覚えさせたのだ。
クリスはその後、アインが強引にシルヴァードに連れられていかれたことにより、別行動を強いられる。
その際、アインのために髪留めを持ってきたマーサとすれ違ったとき。
「お似合いでしたよ」
「……なんのことです?」
「先ほどのアイン様とクリス様がです。まるで若夫婦のようで、我々、給仕たちの間でも素敵だったと言われてました」
「ッ~~わ、忘れてくださいっ!」
「止めませんとも。ですがご安心くださいませ。ただでさえ普段から大人びていたアイン様ですし、あのようにお身体が大きくなられたとあっては、本当に違和感がございませんでした」
「わーっ! わーっ! 知りませんっ! 私、共通語とかわかりませんからっ!」
「…………弟のような存在と思っていた異性が急成長するなんて、古臭い恋愛物語に良くありそうですものね」
マーサは最後にその言葉を残して立ち去った。
残されたクリスは息を荒げ、首筋を赤く染めながらその後を見送った。
◇ ◇ ◇ ◇
あれからも、エルフの里を訪ねたり色々なことがあった。
ハイムとの戦争もはじまり、アインと別行動になったことでまた不満を抱くこともあったが、クリスはそれでもアインのため、イシュタリカのため必死に戦った。
クリスはハイム戦争が終わってからも命を懸けた。
アインを助けるべく、アーシェ復活のために命を賭して戦ったのだ。
寂しさを覚えはじめたのはこの辺りで、アインとクローネの距離が狭まり、男女としてもまた以前と違う関係性になって居た頃。
それでもクリスは、アインの傍に居ようと思った。
傍にいるだけでも幸せだし、二人の邪魔をする気もない。
ただ、ちょっと寂しいだけだ。
明確な恋心を自覚したのもこの頃で、これまでそんな気持ちを見せたこともなかったせいか、一歩踏み出す勇気がなかった。
だけど――――。
「ご、ごごごご……ごめんなさいッ! わざとじゃないんです! でも、でも……!」
きっかけは事故だった。
しかし唇は、確かに触れ合った。
龍信仰の者たちの後を追い、イストに向かったときのことである。
アインとクリスの二人は一瞬だけだが唇を交わし、そして根付いてしまったのだ。
アインは自覚症状はない。
しかし、クリスには確かにあった。
「これ……ツタ……?」
夜、宿の部屋で入浴しようと服を脱ぎ、鏡を見たとき。
一糸まとわぬ姿で唇をなぞり、触れ合った唇の感触を思い出してしまったとき、指先からツタが生じたのだ。
クリスはその理由がすぐにわかった。
根付いたことも、その原因も。
そして、申し訳なく思い涙を流してしまった。
だが同時に、諦めたくないと思ってしまった。
自分もアインの隣に立ちたいと、諦めかけていた想いが蘇ったのである。
◇ ◇ ◇ ◇
「私――もう我慢することは止めたんです。こないだ、クローネさんとも話しましたから」
ハイム戦争がはじまる前にエルフの里へ行ったとき、その途中で交わした勝負の褒美を思い出したクリスは、それを利用して告白することを決意した。
「アイン様。私――クリスティーナは、貴方のことをお慕い申しております」
勝負の内容は剣だ。
普通に戦っても勝機はない。
相手はアインなのだから。
「好きなんですッ! ずっとずっと前から、命を捧げたいって思うほど好きだったんですッ!」
息を吐く暇もない連撃を仕掛けた。
「いろいろ拗らせてたのかもしれませんけどっ! 海龍のときに助けられてから素敵だと思って、バルトへの調査で置いてけぼりになって悲しくなって、帰ってきたら自分の褒美全部使って、私のことをお傍に置いてくれたんですから……仕方ないじゃないですかッ!」
しかし、アインは動揺していた。
根付いていたと告白されて間もない賭けの戦いで、まさかいきなり告白されるなんて思ってもみなかったのだ。
最後は搦め手を使ったクリスの勝利だが、クリスはその戦いに後悔していない。
はじめての告白を前に必死だった。
――――もう、諦めないって決めたんです。
これは宣戦布告だった。
元エルフによる、初恋を成就するための。
アインを振り向かせるための――――。
◇ ◇ ◇ ◇
アインとクローネの婚約が正式に発表された。
二人のそんな姿を見ることが出来たのが嬉しいと同時に、自分もそうなりたいと強く願った。
あれからそう遠くない日に、二人が外で腕を組む機会があった。
賑やかな日々の裏に隠れていたことだが、確かにあったのだ。
その日は王都がどんよりと薄暗い雲に覆われた日で、アインはクリスを連れて城下町での公務にあたっていた。
公務が終わったのは夕方を過ぎて、茜色の陽が水平線の彼方に沈んだあとだ。
……突然、雨が降り出した。
雨音が遠くから聞こえはじめたと思いきや、二人が居た城下町の一角もすぐに大雨に見舞われはじめた。
最近のアインは徒歩を好んでいたこともあり、馬車はない。
待っていれば帰りの馬車がやってくるだろうが、この後、二人には城でもするべき仕事があった。ということで、悠長に待つ時間もない。
雨に濡れながら帰ることを考えはじめたところへ、同行していた近衛騎士が近づいてきて、建物の軒下で休んでいたアインに言う。
「もしよければ、馬車をお待ちの間だけでも傘をお使いください」
そう言って、一本の傘を手渡されたアイン。
彼は下がっていった近衛騎士と、傘の間で視線を左右させた。
「…………あのさ」
「はい? どうかなさいましたか?」
「よかったらクリスだけでも使ってもらうとか」
「ダメですよ。というか、逆ですからね、それ」
「別に俺は気にしないよ」
「私が気にするんです! アイン様だけ雨に濡れるくらいなら、私も一緒に濡れながら帰りますってば!」
となれば、一人だけ傘を使うことはできない。
ついでに馬車を待つつもりも二人にはなかったから、このままだと二人は傘があるのに雨に濡れながら城に変える羽目になる。
だったら――――と、アインは思い付きを口にする。
「それならこの傘を二人で使うしかないか」
濡れてしまうくらいなら、この方が絶対に良いからだ。
「……一緒に、ですか?」
それを聞いたクリスはきょとんして。それはもうきょとんとして、たっぷり数十秒使って状況を理解した。
「あのあのあの! 一緒にって……一緒にってそういうことです!?」
どういうことか分からなかったアインは傘を広げ、この中に二人でと言う。
「雨が降ってるから目立たないと思うから、今日だけ我慢してもらう方向で」
「……ち、近くなっちゃいますよ?」
「わかってるよ」
「……私と近くって、イヤじゃないですか?」
不安そうに言われたアインは深々とため息をついて、彼女の頭を少し乱暴に撫でまわす。
彼女は髪の毛が乱れたことに不安な様子をみせるどころか、嬉しそうに唇を尖らせていた。
そうしていたら、傘を広げたアインが一歩前に進んだ。
「ほら、帰るよ」
「ア、アイン様っ!」
アインに腕を強引にひっぱられたクリスは、そのまま傘の中へ身体を滑り込ませた。
彼女はそのまま勢いに逆らわず。
いや、逆らえずアインの腕に身体を委ね、腕を組むような体勢になった。
彼女の胸はシャツ越しにアインの腕に押し付けられ、熱と暖かさの中に早鐘を打つ音をアインに届けていた。
「周りにも同じような人とかいるし」
「そう言う問題じゃありません! いいんですか!? 私が開き直って手を繋ぐようになっちゃっても!」
「いいよ」
「――――あ、あれ……?」
「じゃ、今日からそう言うことで」
自分で行ってしまったことゆえ、クリスは何も言えず黙りこくった。
アインの腕をつかむ手に力が入り、身体が自然とさらに近づく。
「後で嘘って言われたり、やっぱり駄目って言われたら、数十年は不貞腐れる自信がありますからね」
いつしか、早すぎた鼓動は落ち着いていた。
これでも早鐘は早鐘に違いないが、この後の緊張は心地良く、心が彼女たちを急かすような緩やかなものだった。
◇ ◇ ◇ ◇
これまでのことを夢に見て居たクリスは目を覚ますと、いつもと違う天井を見上げていた。
そうか。昨日はシュトロムの別邸に泊まったから……。
「えっと……昨日は……」
アインと海に飛び込んで――――というより、クリスがアインに抱き着いたことで海に飛び込ませてしまい、しばらくそのまま二人の時間を楽しんでから屋敷に戻った。
さすがに服装が服装で、しかも二人とも海水に濡れていたから真正面から帰ることは避けた。勿論、恥ずかしかったから。
それで、秘密裏に屋敷に戻ってから、何食わぬ顔をして皆の前に戻ったのだ。
「ちょっと寂しいような……あんな夢を見たからなのかな……」
朝起きてすぐこんな気分に陥ったことはない。
不安になり、昨日のことまで夢だったのじゃないかと疑ってしまった。
だがすぐに手元のスタークリスタルを見て、胸を撫で下ろした。
「いますぐ逢いたい……」
彼女はネグリジェの上にシャツを着ると、ととと――――っと軽い足取りで扉に向かった。軽く開けて廊下に誰も居ないことを確認する。
幸い、まだ夜が明けて間もないからか誰も居なかった。
すると速足でアインの部屋を目指し、ノックした。
返事がすぐに「はいはい?」と帰ってきたことで、クリスはアインの部屋に足を踏み入れた。
中に入ると、アインの姿がない。
恐らく、ベッドがある寝室の方だと思い、クリスはそのままの足で向かっていった。
予想通りアインはそこに居た。彼はベッドに座りながらの着替えの最中で、ズボンこそはいているが、上に着るシャツはまだボタンを留めている最中だった。
クリスはそれを見て、抑えようのない甘えたい感情に全身を駆られた。
「あれ? クリスだったんだ」
他に誰だと思っていたのかと思い、クリスは若干不満げだった。
しかし、甘えたい感情が消えるわけじゃない。
むしろ不満な気持ちだけがすぐに消えて、ベッドに腰を下ろしたアインに向かっていく。
「……すみません。甘えたくなりました」
クリスはそう言うと、座ったままのアインに抱き着いた。
彼の胸板に甘えるように顔を擦りつけ、背中に回した腕にぎゅっと力を込めて、そのまま全身を預けて身体をこすり合わせる。
いままでにない甘え方にアインは面食らっていたが、特に止めることなくクリスを受け入れ、彼女の後頭部を優しく撫でる。
「どうしたのさ、急に」
「甘えたくなっちゃいました。他意はありません」
「なるほど……わかりやすい」
甘えたクリスが身体を擦らせるせいで、シャツを留める途中だったアインの身体が少しずつ露出していく。また、クリスだってシャツの下にはネグリジェ一枚着ているだけで、しかもしっかりボタンを止めていなかったから、はだけてしまっていた。
シャツの裾から覗く真っ白な足も、胸元から覗く双丘の影も。
エルフの民族衣装と違い、煽情的で息を呑む。
彼女は自分の様子にあまり気が付かぬまま、アインを挑発するように顔を近づけ、彼の唇をついばむように一度、二度、そして三度と交わし合った。
ときに照れくさそうに顔を反らすが、すぐに甘えたい感情に負けて見つめ合い、もう一度――――と唇をつん、と差し出してしまう。
しかし、その時間にも終わりはやってくるのだ。
不意にアインが「あっ」と思い出したように言い、クリスを驚かせる。
「どうしたんですか……?」
「……ごめん、ちょっとだけ離れた方がいいかも」
「――――イヤです……まだ離れたくありません……」
だが、今回はアインのいうことを聞くべきだったのだ。
二人があってすぐ、アインが『あれ? クリスだったんだ』と言った言葉こそ、アインが離れた方がいいと言った理由であり……。
「あ、あらら……?」
「ッ――――!?」
アインの部屋の扉が開いていて、更に言えば、寝室までの扉も開いていた理由でもある。
ちなみに、やってきたのはマーサである。マーサはまだ日が昇る前に王都を発ち、アインの下にやってきてまだ数十分と経っていない。
そんなマーサはアインに仕事を頼まれたことで、一度アインの傍を離れていた。
ノックもせずに彼女がここまで足を運んだのは、そのせいだ。
そしてクリスは硬直している。まるで凍り付いたかのように。
「これはその、えっと」
マーサは珍しく困惑した。
ベッドの上でクリスがアインに甘えていたのだから、むしろ困惑しない方が嘘だった。
しかし、マーサはクリスの腕を見て察した。
あれが噂の『深海の秘宝』で、それが手元にあるということは……もう、昨日のうちに何があったのか分からないはずがない。
結局、マーサはそれ以上何も言わず。
最後に頭を下げてから、この部屋を後にした。
「…………まだ夢の中だったみたいです」
「現実だよ」
「…………おかしいですね。夢の中なのに、アイン様の感触がすごくはっきりしてます」
「そりゃ、現実だからね」
クリスはアインの胸板を弱々しく叩きはじめた。更に頭を左右に振り、艶めかしい髪の毛をベッドの上で大げさに揺らす。
「わかりました。受け止めましょう」
顔をアインの胸板に埋めながら、首筋を真っ赤にして言った。
「ですが、私にだって言い訳があるんです」
「えっと……どういう?」
アインに言い訳しても意味はないのだが、彼女はこの恥ずかしさをどうにかすべくそれを口にするのだ。
「――――好きな人に甘えたくなるなんて、どうしようもないことじゃないですかぁ……っ!」
言い終えたクリスが顔を上げると、宝石のような双眸に涙をたくさん抱えていた。
唇を尖らせ、どうしようもなかったと言い張る彼女は必死になって開き直り、もう一度、アインと唇を重ねたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
本来であれば次章の予定だったのですが、プロットがあまり整理できておらず、クリスの振り返りを入れつつのエピローグもどきとなりました。
次こそは次章のはずなので、どうぞよろしくお願いいたします。
また、もうすぐ原作最新9巻が発売となります。
こちらも併せて、どうぞよろしくお願いいたします。
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