脱兎のように。
「ッ――――セラさん!?」
いつからか頭上に浮かび、片手を差し伸ばしていた楽園の覇者が。
刹那に海水を浄化させ、海龍の周囲が海底まで露出。
熱波はアインの頬まで届き、神隠しのダンジョンでのことが瞼の裏によぎった。
我ながら、あれほどの炎に耐えきったことが信じられない。
「儂が来た件ならあとじゃ。急がねばもっと面倒なことになるぞ」
アインは彼女がここにいることも、事情を知っていることも、すべてが疑問で仕方がなかった。
けれど、さらに面倒になると言われると話は別だ。
セラのような圧倒的な強者の口から出た言葉とあれば殊更である。
「ぼさっとしとる暇はないぞ! お主も手伝うんじゃからなッ!」
「わ、分かってますって! 急だから驚いてただけです!」
「どうだかな! お主は何百年も前から抜けておるし……ああいや、昔話をしとる場合じゃなかったの!」
浮いたまま海龍に近づくセラに、木の根を生やした海面を駆けるアイン。
海龍が居た場所の海水は一瞬で蒸発していたが、既に周囲の海水がなだれ込んでいた。
だが、全身を焦がされた海龍は海中で喘ぎ、身体をうねらせて苦しみを露にする。
巨躯が動く故余による波もあるが、蒸発した箇所に一斉に海水がなだれ込んだ故余による大波。ただそれも、アインの木の根により防がれる。
「ママ―! 魔石の中に変な人が居るよー!」
「変な人が居たの! 蹲っててお腹痛そうだったの!」
「分かっとる。その変な人のせいで面倒なことになっとるんじゃ」
二人の木霊はセラの返事を聞いて宙に浮いたまま小首を傾げた。
「遠くで見とるんじゃ。よいな?」
頭を指先で撫でられると、上機嫌に飛び去って行ってしまう。
「セラさん、知ってるんですか!?」
「あん? 何をじゃ!」
「魔石の中にいる人のことです!」
「知っとるわ! どうしてこんな辺鄙な地に居るのかは知らんが、どういう人物かはこの儂も知っておる!」
「ッ……なるほど、道理で」
道理でカティマも知らない知識を持っていたのだ。
あの少女も恐らく、アインが知る場所から来た存在ではないのだ。
「さて」
すると、セラは何もない宙を叩いて空間を割る。
そこに手を差し入れ取り出したるは、彼女の鎌だ。
「お主も苦戦はしても倒せぬ相手では無かろう! どうしてここまで泳がせた!」
「女の子を助けるためです――――ッ!」
「こんのお人よしめがッ! 知らぬからできたことであろうが、あの魔石はすでに呪われておるのだぞッ!? 魔石を分離させねば話にもならん!」
「呪われてるってのは良く分かりませんが、分離させるつもりでした!」
「はんっ! どうせそうだと思うたわッ!」
セラの鎌の先端から糸が現れた。
海風に靡くも、すぐに石突に届き交わった。
まるで、その姿はハープのようである。
――――権能の糸。
縁を具現化したもので、それを切ることができる彼女の特別なスキルだ。
「言っておくが、お主が期待しているほど楽ではないぞ」
糸を一本、青々と輝く糸を彼女は引き千切った。
海龍はそれと同時に動かなくなり、海に身体を横たわらせる。
二人も動きを止め、その様子を見守った。
「もう、楽そうですが」
「……馬鹿を言うでない。ここからが本番じゃ」
海龍の額から、魔石が零れ落ちた。
「儂は命という概念も断つことができるが、あれに至ってはそれができん。いや、正しくは出来るが意味がないと言ったところじゃ」
それは少女を助けたいというアインの想いを鑑みたものではない。
「ネクロマンサーは面倒な存在であると、この機会によう覚えることじゃな」
海原に浮かんだ魔石が鼓動して、少女が苦悶に表情を歪めた。
魔石から生じた赤紫色をした半透明の液体が、まるで海龍と見まがう体躯を成す。海の中で膨張して、体躯は先ほどのそれと比べて大差がない。
(どうなってるんだ……あれは……ッ)
巨躯も、透けて見える内蔵も。
鱗やヒレにいたるすべての部位が、すべて半透明に構築されていた。
……魔石から伸びた管が全身にはびこって、血管のようである。
「あの女と魔石は完全なる同化を遂げておる」
「――――助けることは出来るんですか?」
「上手くいけばな。それまで、あ奴の生命力が持てば何とかなるやもしれん」
「教えてください」
「む?」
「どうすれば助けることができるのかを」
すると、セラは宙に浮かんだままアインを見下ろした。
彼は彼女を見ず、こちらの方を向いた海龍の魔石にしか目を向けていない。
「儂にはあ奴と魔石を分離させることは叶わん。すでに完全なる同化を遂げているからの。……じゃが、お主が魔石を吸い尽くせばどうとでもなるさな」
「あれ……ってことは、さっきのうちに吸っておけばよかったんじゃ……」
「無理じゃ。ある程度削らんうちに吸ったところで、同時にあの女の魔力も吸うことになる。よう思い出してみよ、あのヴェルグクの魔力を吸ったときも大変だったじゃろうて」
確かにあの時は辛かった。
アインは引き攣る笑みを何とか隠し、息を呑む。
セラもセラでその様子に気が付いていたが、微笑むにとどめた。
「言っておくが、あ奴が使役するアンデッドは強いぞ。むしろ、
穏やかに話せるのもつかの間。
二人の下へ、変貌した海龍が大口を開けて襲い掛かる。
アインは木の根から飛び跳ね、セラも躱した。
「一応、どのぐらい強いか聞いておいていいですかねッ!」
「くふふっ……! 大方お主が想像しとる通りじゃ! ――――つまり!」
大鎌を振り上げたセラが海龍の体躯を切り裂くも、その身体はすぐに繋がり元通り。
追撃を仕掛けたヒレを、そのまま鎌で難なく受け止めてみせた。
さっき、自分があれほど苦難したというのに……と。
(嘘でしょ……ッ)
あんなに軽々と受け止めるのかと、アインは呆気に取られてしまう。
「同化してる今ッ! この海龍はヴェルグクより強いということじゃなッ!」
覚悟はしていたが、実際に口にされると気が重い。
だが、セラより弱いと思うと心が落ち着いた。
(――――あの子も相応の実力者ってことか)
それも、セラが足を運ぶほどには。
するとそこへ。
『ガァッ!』
『キュッ! キュッ!』
沖で泳いでいたはずの双子の海龍が現れて、アインの下に顔を見せる。
共に戦ってくれるようだが、首を横に振ったアイン。
「こっちは任せるんだ! 二人は町の方を! リヴァイアサンの方を頼む!」
避難し遅れた人々がいるかもしれない。また、リヴァイアサンにも船員はいるし、あの船も避難場所になるかもしれない。
多くを鑑みての結論に、双子はすぐに頷いて海に潜った。
◇ ◇ ◇ ◇
離れた場所、崖の下にある町での救助は順調だった。
クリスが来た際に崩落した岩々をレイピアで切り裂き、人が歩ける道を作ってしまったからそう難しいことはない。
人々の慌てようには苦労したが、彼女の誘導に従って皆が陸地へと避難していった。
「……どうなってるの」
クリスは一通り避難誘導が終わったところで海を見た。
見たこともない海龍の姿。
本来、数百年に一度現れるとされている海龍であるものの、今のような身体で現れたという記録は残されていないはず。
先ほどの、リヴァイアサンの主砲にも勝る炎もだ。
自分が知らないところで何が起こっているのかが不安だった。
…………他に残された人は?
周りから人の声は聞こえてこない。
もう避難し終えた、こう判断したところへ。
「お姉ちゃん……助けてっ!」
腰にトンッ、と抱き着いた幼い少女。
頬を涙に濡らし、腫れぼったい目でクリスを見上げていた。
クリスは膝を折り、目を合わせて涙を拭った。
「ッ…………はい。どうしたんですか?」
悠長に聞くべきではないが、自分が鬼気迫る様子で尋ねても威圧してしまうと思い、なるべく穏やかな口調で問いかけた。
「お婆ちゃんが動けないの! お願い! お婆ちゃんを助けて!」
「わ、分かりました! すぐに行きましょう!」
小さな体で必死に走る少女を追い、向かった先は外れにある小さな家だった。家と言うには古臭くて、半壊している。
崩落した岩々によるものと思われるが……。
「……お婆ちゃんは中に居るんですか?」
少女が頷いたのを見て、クリスは扉に手を掛けた。
しかし、開かない。
半壊による余波で立て付けが悪いのか、何度引っ張っても開く気配がしなかった。
となれば、切迫した今ならば力技が何よりも好ましい。
「ここで待っていてくださいね。大丈夫、私に任せてください!」
「うん……ッ!」
少女に距離を取らせ、レイピアを抜き去って扉を断つ。
開けた中には部屋が二つだけ。
奥に見える寝室と、キッチンがあるリビングだけ。
中に足を踏み入れたクリスはすぐに寝室にいた人の気配に気が付いた。
大きく軋む、頼りない木の床の上を進むと、ベッドには少女の祖母と思しき者の姿がある。……目を覚ます気配はない。きっと、体調が優れないのだ。
「お婆ちゃんっ! お婆ちゃんっ!」
「大丈夫ですよ。私がお外まで連れて行ってあげます」
「本当に!? お婆ちゃん、平気なの!?」
「ええ、勿論です。今はお休みしちゃってますけど、お外でゆっくりお話しできますよ」
少女の頭を撫でてから、すぐに老婆の身体を起こした。
そのまま背負い、少女に手を伸ばして手を握る。
…………これで大丈夫。
ほっと胸を撫で下ろして家を出ると、一番に海龍の姿が目に映った。
アインはあんなに大きな魔物と戦っている。それを思うと、傍に居られない自分の力のなさが悔しくてたまらなかった。
けど、今の自分がしていることも重要だ。
自分が為すべきことをしよう。こう考えて町の外への道に就く。
すると――――少し進んだところで。
「きゃっ!?」
「私の手を離しては駄目! 絶対に離れないでくださいっ!」
崖が新たに崩落。
海龍が最初に放った海水のブレスによる余波が残っていた。
クリスたちの頭上に落石が近づくが、彼女は慌てず空いていた手でレイピアを抜いた。片手を少女のために、背を老婆のために預けていたため動きづらいが、落石程度であれば造作もない。
少女が目をつむっている間に砕ききって、周囲に落ちた音に少女がビクッと身体を揺らした。
「さぁ、目を開けてください」
「お姉……ちゃん……?」
何があったのか、少女には想像もつかなかった。
クリスが救ってくれたことだけは理解できて、震える手は無意識にクリスの手を強く握りしめる。
それを握り返したクリスだが、足元で鳴り出した不穏な音に、動こうとした足を止めた。
つづけて周囲を見渡し、残る逃げ場が海辺しかないことに気が付き眉をひそめた。
「まさか、この辺りの地形は陸ではなく……岩の上……ッ!?」
次の瞬間に起こることを瞬時に察知し、少女を強引に抱き上げて近くの屋根に飛び移った。
すると、すぐに辺りの地面が崩落してく。
海の藻屑と化していき、彼女の予想が正しかったことを証明した。
この辺りの地形は限界だったのだ。陸があるわけでもなくて、海に面した崖のような岩の上に造られた地形だったことがその原因であろう。
不安により自分の身体にしがみ付き、震えた少女に心が痛んだ。
すぐ安全な場所に行ってあげたいのは山々だが、クリスが入る場所以外の地形はすでに崩れ去っており、足場がない。
崖を駆け上げることも考えたが、不安が多かった。
一人だったら別だが、今は老婆を背負い、少女を守りながらというのが関係して。
…………どうすればいいの?
脳がオーバーヒートしそうなほど多くを考えたのだが、陸から逃げるのはリスクが大きすぎる。
「――――ちゃんッ! 姉ちゃんッ!」
そこへ、海の方から聞こえてきた男の声。
目を向けると、ここからほど近くへやって来ていた一隻の船があった。
船尾にはラジードが居て、大きく手を振り声を上げる。
「こっちだ! もう逃げ場が残ってねぇッ!」
実のところ、海に逃げることも考えてはいた。海龍のせいで波が荒々しいとあって現実的ではなかったが、ラジードが来たのなら話が変わる。
魔物が住まう海での仕事を生業とする船であれば……あるいは……。
「お姉さんと一緒に、もう少しだけ頑張ってくれますか?」
「――――うん! 私、頑張れるよ!」
「ふふっ、ありがとうございます。じゃあ、もう少しだけ一緒に頑張りましょう」
今度は少女をしっかりと抱き上げて、背と腹に二人を抱えての不安定な体勢のままに、この日のために騎士として修練と積んできたと言わんばかりに足を動かす。
大丈夫、このぐらいならどうってことない。
屋根を飛び降りて、海に浮かんだ家の残骸の上を飛び跳ねる。
二つ、三つ、四つ……。
ラジードが乗る船との距離が近づいて、とうとう。
「先に二人をっ!」
「おうとも! てめぇら! 急いで二人を船の中に連れて行けッ!」
船の横っ腹にレイピアを突き刺し、ぶら下がる。
少女と老婆を船員に預け、今一度胸を撫で下ろした。すぐに自分も船に乗り込んで、二人の無事を確認して頬を緩ませる。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
「姉ちゃん、ここから先は俺としても判断できねえんだ。悪いが、少し知恵を貸してくれ」
「は……はい……っ! 何か問題あるんですね……っ!」
「この辺りには、もう船を止められる場所が残ってねえんだ。わかるだろ? シュゼイドの地形は崖が多くてよ……港をつくれる場所なんて、それこそ町の周りぐらいなもんだった」
それもすべて、海龍に破壊尽くされているのだ。
クリスは息を整えながら、何処か避難できる場所はないかと探った。
陸が無理ならば海しかないが、このまま漂っていても危険である。
では、一体どこに逃げればいい?
――――彼女が嵐に見舞われた海を見ていたところへ。
不意に、沖に停泊していたリヴァイアサンが見えた。船尾で何か光っていたのだ。……目を凝らすと、カティマらしき人物の姿がある。
「ありがとうございます――――カティマ様」
彼女の声を聞いたラジードも悟るが、表情が重い。
「あの戦艦に避難できるってんなら頼もしいぜ。けどよ、どうやって行けばいいかって話だ」
「この船は……難しそうでね」
少し沖に出たところで波にさらわれてしまうだろう。
一か八かに賭けて避難するか、他の道を模索するかである。
『ガァッ!』
『キュッ……キュウッ!』
突然、ここで船の両脇が双子の海龍に挟みこまれた。
双子はそのまま泳ぎだし、リヴァイアサンに近づいていく。
間違いない。助けに来てくれたのだ。
きっと、アインのおかげだと思い、クリスは密かに唇の端を緩ませた。
「なっ……こ、こいつらが例の……ッ!?」
「ラジードさん! 今だけは目をつむってください! 思うことはおありでしょうが、この船に乗った人たちのためにも……どうか……っ!」
「ッ――――分かってる。分かってんだよ、んなこたぁ! くそ……おら! お前たちッ! 船の具合を確認しねぇかッ!?」
ラジードに思うところはあったが、かといって理解できないほど愚かではない。
彼は船員たちに指示を出す――――ということにして、双子が見えないところへ姿を消した。
残されたクリスは双子の到来に力が抜けた。
「そういえば……」
海龍にはその名と同じ、海流というスキルがある。
それさえあれば、もっと楽に進めるはずと思ったのだ。
けど、双子がスキルを使っている様子がない。
これはあくまでも予想だが、アインが戦っている海龍の方が強いせいで、双子は力を使えない状況なのかもしれない。
近くでは今も尚、巨躯を晒す海龍とアインの戦いが繰り広げられている。
目を凝らしてみると、彼と共に誰か知らない者が戦っていた。
誰なのか気にならないと言ったら嘘になるが、そんなことよりも、アインの無事を祈る想いが心を満たす。
「クリスーッ! ほりゃ! 急いでこっちに乗り込むのニャッ! さっさとこの海域からとんずらこくのニャッ!」
拡声効果のある魔道具を使ったカティマの声を聞き、クリスは無事にリヴァイアサンに避難できたことに喜んだ。
やがて、近づいた船は用意されていたタラップを進み人々を移す。
◇ ◇ ◇ ◇
クリスは人々を船内に避難させたところで、操舵室に行きカティマと合流を果たす。
「助かりました! で、でも! どうしてカティマ様がリヴァイアサンに……?」
「私が居た方が何かと都合がいいと思ってニャ。今ここにいる人の中で、リヴァイアサンの耐久性やらなにやらを熟知してるのは私なのニャ。で、あの後すぐに移動したってわけニャ」
故に指示を出す人物として足を運んだのだと、彼女はそう言った。
元王女がすることかと思うが、これもカティマらしい。
気に留めていないわけではないとして、でも、クリスは咎めることなく素直に感謝の言葉を告げ、動き出したリヴァイアサンの行き先を尋ねる。
「これからどこへ向かわれるのでしょう」
「陸地周りは危ニャすぎて逃げる気になれないのニャ。ってわけで、あの海龍の脅威が届かない沖まで撤退するのニャ」
クリスは濡れた髪をタオルで拭いながら、きょとんとした。
「だ、大丈夫なんですか……?」
「幸いにも、双子も護衛してくれてるからニャ。下手に回り道をして陸地を目指すよりも、さっさと離れた方がまだ安全なのニャ」
「……分かりました。それなら、私も納得です」
「んむ、んむ! とりあえず少し休むのニャ! クリスにもまだ頼らないと行けないからニャ!」
「ふふっ、任せてください」
久しぶりに明るい声を出して、目じりを下げた。
その後。
疲れに息を吐いたクリスは操舵室の窓の前まで進み、首筋に付いた濡れた髪の毛を鬱陶しく思いながら。
「……アイン様」
遠ざかる海龍と戦うアインの名を、呟いたのである。
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