海龍と深海の秘宝と。
シュゼイドを離れるにつれて、双子の海龍のスキルが徐々に力を示していく。
自慢の海流操作により周囲の海域は落ち着いて、つい十数分前までのシュゼイドの港と大違いの静けさを取り戻していた。
「さてさて、なのニャ」
操舵室に置かれた大きなテーブルの上へ。
カティマがおもむろに地図を広げた。
「こいつぁ……シュゼイドの海じゃねえか」
覗き込んだラジードが言った。
「そうなのニャ。で、例の場所はここで間違いないかニャ?」
「この赤い印ぁ……まさか第一王女殿下、あんたは……ッ!?」
「正直、行くなら今がギリギリなのニャ」
赤い印を肉球で指し示したカティマが硬い声で。
「深海の秘宝と謳われてるものが眠っている海域にして、魔物が寄り付かない不思議な海域、だったかニャ」
「そ、そうさ! けどよ! この状況じゃあ……ッ!」
「仮にアインが海龍を討伐するのを待ったとして、確かにその方が安全なのニャ。けど、分かりやすく言ってやるニャ。その安全を待ってから動いた場合、お前の娘は間違いなく海の藻屑になってるニャ」
「ッ――――ど、どうしてだい?」
「専門外と言えど、あれほど大きな衝撃を放つ存在が現れたんニャから想像できるのニャ」
すると、カティマは遠くの空を指差した。
あの方角は例の海域……?
目を見開いたラジードへとカティマはつづけて言う。
「見ての通り、ここいらへんの嵐は収まっていないのニャ。海龍が好き勝手に荒らした海原も変わらず……って、後は言わなくともわかるはずニャ」
魔物が出現する海域で漁をする船といえど……。
あの様子では抵抗むなしく、迎える末路は残酷なものとなろう。
「だから、もう時間は残されていないのニャ」
助けてくれるのか?
期待して言葉を待ったラジードへと。
カティマがヒゲを揺らして言う。
「……ま、嫁いだとは言え、王族生まれの私も思うところはあるってことだニャ」
彼女とてラジード個人を表立って特別扱いするつもりは無いが、アインと同じで心に抱くものがないとは言えなかった。
でも、こうして動いている時点で今更だろうか。
――――鑑みる余裕のないラジードは涙を流して膝を折り、カティマの足元で縋るように手を合わせたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
緊急時にはカティマにもリヴァイアサンを動かす権限がある。皆がこれを聞いたのは、ラジードの娘を助けに行くと決まってからのことだ。
すでに幾分かの時間は過ぎ、皆を乗せたリヴァイアサンが目的地に到着する目前。
操舵室から見える海原の様子が変わったのは、それからだ。
窓際に立ったラジードが小さな声で「あそこだ」と言い、カティマやクリスの注目を集める。
彼は海を指さし、例の海域に到着したことを皆に知らせたのである。
「見ての通り、ここいらの波は落ち着かねぇんだ。気が付くと波の向きそのものが変わってるし、急に荒れることもある。今は王太子殿下の子たちが落ち着かせてくれてるようだが、普段は俺ら漁師の船で来るべき場所じゃねえんだ」
「ニャ? それならなんでお前んとこの弟子は無茶をしたのニャ?」
「……うちの船は特別製なんだ。まさか、こういう時にその頑丈さを生かすとは思いもよらなかったがな」
「ニャーるほどニャー……」
ところで、海原の色がこれまでと違っていた。
先日まで休暇を楽しんでいた南の島と似ているようで、少し違う。コバルトブルーの海水の中では極彩色の煌きが波に揺られる度に瞬くが、何かが生えているわけでもなく、魚がいるわけでもない。魔石砲を放った際の光によく似ていたのだ。
「あの光は何なのニャ?」
「頑固領主から聞いてなけりゃ、そういうこった。誰にもわからねぇってのが答えだ」
「ふむふむ……あの光が魔物を寄せ付けてニャいのかニャ? できればサンプルを採取して帰りたいとこニャけど、そういうのは後回しにしとくかニャっと」
すると、カティマはクリスを伴って窓の傍に向かった。
海域中を見渡すラジードを傍目に声を潜ませた。
「見えるかニャ」
「…………いえ、私にも見えません」
「ってことは面倒なのニャ。ラジードの船はこの海域に来ていないのか、ここに来る前に海龍にやられたか、あるいは――――」
この海域に来てから沈んだか、この三択に絞られる。
重苦しい空気が漂いはじめたところで、遂にラジードが窓に額を押し付けながらも項垂れた。
だが、ここで操舵室の外。
両脇を守るように泳いでいた双子が顔を覗かせたのである。
「クリス」
「分かっています。何か見つけたのかもしれませんね」
慌てて操舵室を飛び出したクリスは艦内を駆け、あっという間に甲板に足を運んだ。
荒れ狂う嵐による雨が頬を打つ中で、彼女は金糸の髪を抑えながら双子の下へ近づいた。
惜しいのは双子と言葉による疎通が取れないことだ。
けれど、双子は頭がいい。
何か見つけたのならすぐに知らせてくれるはず。
「エルっ! アルっ!」
足を運んだクリスを見るや否や、双子は巨大なリヴァイアサンの上に顔を乗せた。
卵から孵った頃を思うと見違えてしまう。
『キュ……ッ』
エルは軽く鳴いて、何かをクリスの足元に置いた。
見るとそれは、へし折られた船のマストである。クリスを追って駆けてきたラジードもそれを見つけ、遅れてやってきたカティマもまた視界に収めた。
「嘘……だろ……」
力を失ったラジードが膝から崩れ落ち、折れたマストに抱き着いた。
もう、何を取り繕う必要もなければ意味もなさない。
「俺の船のだぜ……こんなに折れてちゃ……」
浮かんでいたところで、魔物に襲われている。
泣き崩れてしまいそうになったところへと。
『フゥ』
アルが鼻息を掛けたのである。
これにはクリスとカティマは驚いて、アルらしからぬ行動に呆気にとられた。
ラジードも馬鹿にされたように思い怒りに身を震わせた。
しかし、見上げたところに居たアルの顔を見て、怒りがすっと抜けていく。
何故ならば、宝石のような瞳が「諦めるな」と言っているようだったからだ。
つづけて姉のエルがある方角に顔を向けた。
一行がそれを見ると、海が折りたたまれるような下降海流がある。
「急いで私が指を差す方角に進むのニャッ!」
カティマが甲板から大きな声で指示を出すと。
「お、おいっ! 危ねぇぞッ!」
「馬鹿言うもんじゃないニャッ! あの程度の下降海流に負けるほど柔な戦艦じゃないのニャッ!」
制止したラジードの声を遮って、リヴァイアサンを勢いよく進ませた。
瞬く間に下降海流の傍に近づくと、見えてきたのは思いもよらぬ空間だ。
「見事なもんだニャ」
「カティマ様……! あれは一体っ!」
視線の先にある下降海流、そのさらに下に見え隠れする巨大な岩石の入り口。海水が吸い込まれていくその穴は、時に端々から僅かながら海水を放つ姿も見せていた。
……海の底は見えないが、カティマには分かったことがある。
「あの岩は海溝の深いところまで通じてるみたいニャ」
双子はその穴の傍に泳いでいき、海水を吸って戻ってくる。
さっき乗せたマストに吹きかけると、マストがあっという間に腐ってしまった。
同時に海水に混じっていた煌きが蒸発して、甘い香りを漂わせる。
『キュッ! キュウッ!』
『ガァ……アアアゥ!』
恐らく、双子はその下に飲み込まれた船があることを確信しているのだ。
下手をすると、すでに潜って確認している。
言葉は分からないが、長い付き合いのカティマとクリスにはそれが分かった。
ただ一方でカティマは甘い香りを嗅ぎ、眉をひそめて腕を組む。
「この毒の香りはもしかして……いやいやいや、あり得ないニャッ! けど実際に……」
「ひ、姫様よ! こいつぁどうなってるんだ!?」
「ちょっと静かにするのニャ! ひとまず毒の正体は置いておくとして……これはもしかするとだけどニャ……」
カティマは双子の前に立ち、顔を上げて尋ねる。
「下に空洞があるのかニャ?」
すると、双子は賢くも頷いたのだ。
「ということは海底洞窟のような場所が……でもそうニャると救助するにも……誰かが行くにしても毒が……問題はそうじゃニャくて……海水が流れ込みでもすれば……」
「――――カティマ様」
「双子に行ってもらうのは……現実的じゃないのニャ。双子ができる広さニャら、もうやってくれてるはずニャし……」
「カティマ様ッ!」
「ニャニャニャッ!? 急に大声出してどうしたのニャ!?」
慌てて両手を振ったカティマの前にはクリスが立っていた。
クリスはいつからか口にヒモを咥え、自慢の髪を手櫛で整える。
やがて、懐かしきポニーテールに結んで言うのだ。
「私が行きます。私の装備なら毒も大丈夫ですから問題ありません。双子の様子を見るに、きっと無茶なことにはならないようですから」
双子は危なければ止める、この確信はカティマにもあった。
「命の危険があると判断したらすぐに退き返すのニャ」
「分かっています。私に何かあれば、アイン様のお命に関わりますから」
根付きのことを示唆した彼女へカティマが言う。
「ドリアードがドライアドと同じ根付きをしているかは疑問が残るニャ。けど、危ないことは避けるべきってことに変わりはニャい。ほりゃ、私の分の大地の紅玉を念のために持っていくニャ」
渡されたのはイヤリング型のそれだ。
クリスは少しの間考えたが、受け取ってすぐに耳たぶに付ける。
「二人とも、まさかあそこに行くってのか!?」
「いえ、行くのは私だけですよ」
「だったら俺が――――」「いいえ、適任なのは私です。装備以外に、体質的に毒も効きづらいですし、身体能力をとっても私が最適なんです」「お、俺が一緒に行くってのも駄目ってことかい!?」
頷いたクリスはそれ以上何も言わず、無駄な時間は一秒でも避けるべきと支度に移る。
「ぶっちゃけると、私は結構楽観視してるとこがあるニャ」
「実は私もなんです。双子も居ますし、あのぐらいの海流でしたら飲み込まれても死ぬことはありませんしね」
「んむ。万が一だけは避けるべきってことだニャ」
「とはいえ、すぐに戻ります」
この辺りの特殊な海流がいつ変化するとも限らない。
双子が付いているとはいえ、万全は喫すべきであると。
「非常用の小型船があるのニャ。少しの間ニャら海中にいても進水することはニャいから、それに乗って潜ると良いニャ」
「助かります。帰りにミウちゃんたちをどうすればいいか迷っていたので」
甲板を進み胴体の横に密かに用意されていた小型船の鎖を外し、それを海面に浮かべた。
エルが近づいて鎖を咥え、クリスを見る。
「――――行ってきます」
そう言って小型船に乗り込んだクリスは間もなく、エルの力と双子のスキル:海流により下降海流へと飛び込んでいったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
荒々しいはずの波は双子により落ち着いていた。
海中に漂う毒素もスキルで避けられて、特に障害はなく潜水していく。
それは、たった数分のことだった。
やがてカティマの想像通り、穴の奥にあった空洞にたどり着く。
小型船の扉を開けて外に出れば、ここは深海に造られた小さな洞窟。
――――そこに、ラジードの船があったのだ。
陸地となった岩石の端に漂流して、半壊しながらも何とか船の形を保っていた。
その船の傍には焚き火が焚かれており……。
一人、小さな少女がしゃがみ、震える手を温めていた。
「ッ……ミウちゃん!」
クリスは双子と別れて船に近づくと、孤独と戦っていたミウの名を呼ぶ。
すると、ミウはクリスを見てまばたきを繰り返す。
瞼に大粒の涙を浮かべ、ふらっとした力ない足取りで距離を詰めた。
「よく頑張りましたね……っ! もう大丈夫です!」
「っ……ぅ……ふぇ……っ」
クリスに身体を押し付けて嗚咽を漏らす。
だがしかし、ミウと居たはずの船員の姿が無かった。
「ミウちゃん、船を動かしていた人は何処に行ったのですか……?」
「あの……あの人は……っ……あっちに行って……もう、分かんなくなっちゃって……っ」
「あっちって……まさか……ッ」
指さした方角はさっき、クリスが小型船を止めた場所である。
間違いなく、ここには逃げる手段がない。
だとすれば例の船員はきっと……生還することを諦めたのであろう。
「――――なんていう人なの」
偶然とはいえ、ここまでミウを連れてきたというのに。
自分だけ楽になることを選んだという事実へと、筆舌にし難い負の感情が脳裏を掠めた。
聞くに辛いことがあったのだろう。
ミウは更に身を震わせて、小さな声で泣いていた。
「大丈夫。もう心配しないでくださいね」
抱きしめるクリスの手にも力が入る。
一刻も早く脱出してラジードの下へ連れて行こう。
そう思ったのだが、小型船を停めた水を見て考えを検める。
「エル、アル。周りの海流を落ち着かせてもらえますか?」
自分だけなら何があっても耐えられるが、ミウを連れてなら話は別だ。
『キュルゥ!』
『ガゥッ!』
双子はその意図を察し、すぐさま海に潜って行った。
するとクリスは焚き火の前に座り、同じくミウを座らせて炎を眺めるのだ。
「お父さんも迎えに来てくれていますよ」
「ほ、ほんとに……? お父さんが来てくれたの……?」
「ええ。だから安心してくださいね」
「……危ないのに、お父さんも来てくれたんですか?」
「いいえ、危ないからこそ来てくれたんですよ。大好きな人のためなら、そんなのは少しも怖くないんです」
「好きな人のためなら……?」
徐々にミウも落ち着きを取り戻し、語り掛けるクリスの声に耳を傾ける余裕が生じた。
背後から自分を抱きしめてくれる手が温かくて、自然と身体を任せてしまう。
穏やかで、優しいクリスの声。
小さなミウはその声にだけ耳を傾けて、焚き火の揺れる炎を眺めていた。
◇ ◇ ◇ ◇
時間が少し遡り、シュゼイドに現れた海龍の近くにて。
荒々しい波も嵐も絶えず押し寄せていたが、戦況は一方的だった。
(……やっぱり、この人は別格だ)
竜人、セラ。
アインはこれまでの生涯の中で多くの戦いを経験しているが、今となってからは、同じ戦いを繰り返しても確実に勝てるという自負があった。
けれど、セラだけは別格だ。
最初から命のやり取りを前提にした戦いであれば、勝てる確率が皆無である。
自慢の炎は当然のこととして、権能の糸の力がでたらめすぎるのだ。
『ギィィイイイイイイイイイ――――ッ』
鎌に切り裂かれ、何度目かの再生を繰り返した海龍の泣き声が響き渡る。アインもアインで剣を振り、時に根を生やして動きを止め、セラとの共闘で一躍買っていた。
横顔を打つ荒々しい雨は海龍が消耗するにつれて激しくなり、波風も高まった。
まるで、息絶える寸前に魔力を暴走させているよう。
暴れる巨躯で陸地を削るその姿は、アインが幼き日に聞いた海龍の脅威そのものだ。
「もう頃合いじゃ、十分削ったじゃろ」
一度、距離を空けて木の根に降り立ったセラが言った。
同じく隣にやってきたアインは、雨に濡れた髪を乱暴に掻き上げる。
確かに海龍の消耗は十分なはずだ。二人で攻撃を繰り返すことしばらく。
もう、特筆すべき量の魔力を使わせている。
「アインは一気に魔石まで駆け上がり、魔石を貫いて魔力を吸うんじゃ」
「どのぐらい吸えばいいんですか」
「さっきはああいったが、あの女の魔力も多少なりとも吸うことになろう。多少苦しかろうが我慢しながら……そうじゃな。海龍の魔力が絶えたと思うたら止めてよい」
「つまり……現地で確認しろと」
「くふふっ、このぐらい造作もなかろう?」
では――――。
目配せを交わした二人は同時に消えた。
海を駆けて刹那で距離を詰め、セラが一足先に海龍の真正面へ。
アインはその少し後ろに。
器用に鎌を回転させ、片手をかざしたセラから漂いだした熱。
業火なんて言葉で言い表すことはおこがましく、相応しき言葉が見つからない。
――――セラの手のひらに浮かんだ紅炎。
深紅の光塵が漂いはじめ、降り注ぐ雨を一瞬で蒸発させてしまう。
ふとした瞬間に、紅炎が手のひらから浮かぶ。
「
片時の静寂をもたらし、音まで蒸発させて、放たれた。
深紅の閃光を放ち、雲を赤々と染め上げて天を露に。紅炎に染まった波動が海龍にだけ向かい……そして。
『ッ……ギ……ァ……ッ……アァ……』
海龍が切なげな悲鳴を上げた。
全身を構成する半透明の液体はほぼすべて蒸発してしまい、残されたのは頭部と、徐々に復活をつづける頼りない身体のみ。
「アイン、頼みたいんじゃが」
「え、ええ……なんでしょうか?」
「あの海龍じゃが、早く休ませてやってくれ」
すると、不意に顔を伏せたセラが重苦しい声で言った。
龍を相手に、種の近い彼女は哀れみを抱いたのか。
理由は定かではないが、アインは応じて飛び上がり。
「はい。すぐに終わらせます」
海面に露出した木の根を経由し、あっというまに額の魔石へたどり着く。
瞳孔から光を失った、弱々しい瞳と視線が交錯した。
早く楽にさせる。
この一心で振り上げたイシュタルが、魔石に深々と突き刺さる。
覚えのある海龍の魔力が、味がアインの全身に伝わってきた。
けれどすぐに、胸を貫かれたような痛みが奔る。
ヴェルグクの魔力を吸ったときとは違うが、似ている現象だった。
(くっ…………)
辛いが、やめるわけにはいかない。
魔石の中の少女も辛そうに頬を歪めるが……。
やがて……嘘のように。
魔石が半透明の身体から浮き上がって、力なく落下していく。堅牢なはずの魔石に細かなヒビが浮かび上がり、少女も解放されたようだ。
海龍の魔石は宙で破裂し、中に居た少女が放り出される。
アインは少女の身体を支え、身体が温かかったことに胸を撫で下ろす。
それから戦いの終焉をようやく迎えたことに気が付き、降り注ぎはじめた陽光を眩しそうに見上げたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
嵐はすっかり止み、シュゼイドの海はいつもの穏やかさに包まれた。
いつもと違うことと言えば町の惨状だ。
勿論、町の方も気になっていたが、戦いを終えたアインは木の根に少女を乗せ、セラと共に隣に腰を下ろして様子を見ている。
「こっちのことは儂に任せてよいぞ」
「……えっと?」
「鈍いのう。町の方が気になるんじゃろ? じゃったらはよ、行って来ればよいじゃろうて。こ奴のことは儂に任せて、さっさと行ってしまえ」
「い、いいんですか?」
「気にせんではよ行かぬか。後で包み隠さず教えてやるさな!」
するとアインはセラに甘え、木の根を伝って町に向かっていく。
少女が目を覚ましたのはそれから間もなくのことだ。
「ここ……は……」
「目が覚めたようじゃな」
「ッ――――聖域の覇者……!?」
「身構えるな。儂に敵意はないし、そもそも真正面から戦ったところでお主に勝ち目はない。此度はアインの願いあって、面倒な戦いをしたまでじゃ」
少女は身体を起こそうとしたが、身体の自由が利かなかった。
消耗が激しくて痛みも強く、指先を動かすことすらままならない。
「答えよ。どうしてお主が儂の子と共に居て、呪われた魔石に吸収されておったんじゃ」
「聖域の覇者の……ぐっ……ぁ……子……っ……?」
「あの水龍は儂が連れてきた二頭のうちの一頭じゃ。出会いは最悪じゃったが、慣れてくれれば可愛いもんじゃった。寿命が来たことで息絶えてしまったが、この海に眠らせていたのじゃ」
「…………ッ」
「事情があれど、我が子と思うとる龍をこの手で焼くことになるとは思わなかったがな」
だからセラは、止めを刺す前に重苦しさに苛まれていたのだ。
「あの子……は……綺麗、だった……」
「ああ、そうじゃろう」
「私はそれ……で……ッ……この地に来て……一緒に居たいって……思っ……て……」
「儂にはようわからんが、死した存在に愛を抱くこともあるのがネクロマンサーだと、そう聞いたことがあるが、そのようじゃな」
ひとまずの事情は理解したと頷いて、セラは少女の胸元に手を当てた。
温かく、優しい魔力が少女の身体に流れ込んでいく。
「誰にやられた」
「っ……ぅ……ぐぅ……」
「誰が我が子を呪い、お主を餌にした?」
「ッ――――」
少女は唇を動かすも、セラの耳に声が届かない。
顔を寄せ、口元に耳を運ぶと、そこで。
「アル――――の……天…………ッ」
聞こえた声に、目を見開く。
セラはぎゅっと唇を結んで歯を食いしばり、目を伏せた。
鼓動が弱々しくなる少女の手を握り、尋ねる。
「あい分かった」
つづけて。
「我が子と共に居てくれたことに感謝する。何か望みはあるか?」
「のぞ……み……?」
「儂に出来ることであれば、という条件が付くがな」
少女は弱々しくも笑みを浮かべて、セラの頬に手を添える。
ここにきて、はっきりとした声で言い放つ。
「あの子と、一緒に」
セラが少女に頷いて微笑みかけると、少女も同じく笑みを返して目を伏せた。
手は力なく垂れて、木の根にしな垂れる。
その後で言葉を発することはなく、胸が鼓動することもなく。
立ち上がったセラが木の根を鎌で発ち、少女の身体は海に沈んでいった。
◇ ◇ ◇ ◇
「くちゅんっ!」
クリスに抱かれていたミウがくしゃみをした。
焚き火は温かいが身体は海水で濡れているし、正直この海底洞窟の中は寒い。
腕を回していたクリスはおもむろに、海面へつづく通り道の方を見た。
気を利かせて顔を覗かせたエルが首を横に振ったことで、クリスは苦笑いを浮かべる。
「ごめんなさい、もう少しだけ待った方がいいみたいです」
「ううん、平気です。ちょっと寒いだけだから大丈夫」
「……風邪を引いたら大変です。もうちょっと焚き火に近づきましょう」
しかしミウは気丈だった。
こんな場所にしばらく取り残されているのに、寒いことに文句の一つも言わずに笑っている。
気遣っている側面もあろうが、だとしてもこの振る舞いを出来るだけで気丈だろう。
「お姉ちゃん、聞いてみてもいいですか?」
「はい? なんでしょうか?」
「どうして好きな人は迎えに来てくれるんですか?」
「……む、難しい質問ですね!」
自分で言っておきながら、明確な言葉に詰まってしまう。
「でも、一緒に居たいからなのかもしれません。これまでそうだったように、これからも一緒にいたくてそうするんです」
「…………良く分からないです」
「ふふっ、私も実は良く分かりません。けど、ミウちゃんはお父さんがお仕事から帰ってくるとき、入り口までお迎えに行ったことはありませんか?」
「あります。お父さんは私が来ると頬ずりしてくれます」
「ミウちゃんはそれが嬉しいと思ったことはありますか?」
「ちょっとだけ嬉し――――あ、ヒゲがジョリジョリするのは好きじゃないです」
「あははっ、でも、その嬉しいのが大切なのかもしれませんね」
ラジードの以外な一面を知ってしまったことに申し訳なさはあるが、何となく、言いたいことは伝わったようだ。
ヒゲのことはいずれ問題になりそうだが、家庭内で何とかしてもらうほかない。
「お姉さんは――――」
「私がどうかしましたか?」
「お姉さんは、誰かをお迎えに行ったりすることはあるんですか?」
「っ…………はい。ありますよ」
それも、数えきれないぐらい。
「私はその方を毎日お迎えに行ってましたし、朝もお見送りしてました」
「すごいです。たくさんたくさん好きな人なんですね」
何かこう、真っすぐ尋ねられるとさすがに照れてしまう。
面と向かって顔を見ていなかったのが救いだ。
目を閉じたクリスはその日のことを鮮明に思い出せる。特に……今日は海龍が現れた日とあって、アインを見送ってからすぐに戦場へ向かった日のことだって。
こうしていると、海底洞窟から分かる波も落ち着いてきた。
クリスがその様子を眺めていると、双子が唐突に喜びはじめた。
「エル、アル?」
声に出すが、双子は一向にこちらを見ようとしない。
どうしてかと思っていると、その理由がすぐに明らかになったのだ。
「――――ぷはぁっ!」
呆気にとられたクリスは「はぇ?」と間抜けな声を漏らしてしまったが、やってきた人物を見間違えることはなかった。
だが、どうしてここに……?
しかも、泳いできたように見えるのだが。
『キュッ! キュウウッ!』
『ガゥ、ガァッ!』
「くすぐったいって! 後でゆっくり遊んであげるから、いい子にしててよ!」
彼は岩を上り海中から脱して、崩壊した船を視界に収めて頬を歪めた。
でも、近くにいたクリスとミウを見て頬を緩めたのだ。
「ア、アイン様ッ!?」
「二人が無事でよかった。念のためにって思って迎えに来たんだけど……うん、二人とも大丈夫そうで安心した」
「どうしてここに……!? 海龍と戦っていたはずじゃ……ッ!」
「あっちはどうにかなったんだ。クローネたちとも合流して話をしたんだけど、こっちはこっちで大変だって連絡を貰ったからさ。話すことは結構あるけど、先にこっちから片付けよう」
「……別の船でいらしたんですね」
「いや、海を走って泳いでって感じだけど。これが一番早いしね」
無茶なことをと思ったが、指摘することはしなかった。
身体中を海水で濡らしたアインは軽く水気を払いながら笑っていて、指摘したところで、何を言っても苦笑いを浮かべられるだけだと分かっていたから。
「ミウちゃん、もう大丈夫だよ」
アインはそう言ってミウの頭を撫でた。
「波が大変だって、お姉さんが言ってました」
「ああ、確かにそうだった。けど俺が落ち着かせてきたから心配しなくていいんだ」
「……王太子殿下様はすごいんですね」
「どうかな、そうだと嬉しいんだけどね」
自分の面前にやって来たアインを見ているだけで、クリスの頬が少しずつ上気していく。さっきまでミウと話していたことが脳裏を掠めて止まなかったのだ。
「わ、わわわわ、私は船を見てきます!」
「あれ、中に誰かいるの?」
「居ないです! でも念のために様子をみてこようかなーって思いました!」
「あ……ああ、なるほどね」
「ちょっと待っててください! すぐに戻りま……っ」
これまで座りっぱなしだったこともあり、少し足元がふらついてしまう。
立ち上がったクリスは足元のバランスを軽く崩して、身体が傾いてしまったのだが、それをアインがすぐに支えた。
「平気?」
「……も、持ち前のポンコツを発揮しただけです!」
「え……えぇ……?」
色々と重なり過ぎていることもある。
こんなときに照れる場合かと思ったが、そもそも命の危険はなく、更にアインが来たことで皆無になったと言ってもいい現状。
はっきり言って、気が緩んでしまっていた。
半ば強引にアインの傍を離れ、身を隠すように半壊した船に足を踏み入れる。
何にせよ、最後に確認して行こうとは思っていたのだ。
――――くん、くん。
クリスが去ってから、ミウがアインの服の裾を引っ張った。
「王太子殿下様はお迎えに来てくれたんですか?」
「そうだよ、もうお家に帰れるからね」
どうやら求めていた返事ではないらしく、見上げたミウの顔はすっきりしていない。
「お姉さんが言ってたんです」
「ん、何を?」
「お迎えに来てくれる人は、待っている人のことが好きなんだって」
何度目か分からない「なるほど」という返事を返し、アインがそっぽを向いて頬を掻く。
「王太子殿下様はお姉さんのことが好きなんですか?」
色々と、確信を突く言葉だ。
だが、尋ねられたアインは今度はミウに顔を向ける。
膝を追って、目線を同じくした。
「――――そうだよ。俺は――――」
目と目を見て、静かな声で答えを告げようと。
しかしハッとして、口を閉じてしまう。
「ここから先はごめん。クリスに直接言わないといけない言葉なんだ」
「……良く、分かりません」
「俺も難しいことは言えないんだけど、俺にとって大切な言葉なんだ。だから、他の誰よりも先にクリスに言わないといけないって思ってるんだよ」
合点がいかないミウの頭をもう一度撫でて笑ったアイン。
そうだよ、と返した時点で答えも同じだが、軽々しく口にすることは避けていた。
言い淀んだわけでも、口にすることに忌避感があったわけでもない。
あくまでも言葉の意味を大事にして、ここで口にすることを避けたいだけだ。
これは大切に想い、心を寄せているからに他ならない。
「ただいま戻りま……あれ? アイン様、少しお顔が赤くなってますよ?」
「き、気のせいじゃない?」
「私が見間違えるはずありませんよ。熱は……ちょっと失礼しますね」
船を出たクリスはさっきまでの落ち着きのなさが鳴りを潜め、今度は逆にアインに近づいて額と額を重ねた。
「熱はないみたいです。ちょっと疲れちゃったんでしょうか」
「……かもね」
静かにしていたミウは何度か小首をかしげていた。
小さな身体で腕を組むと、唸りだす。
しかし数秒もすれば顔を上げ、クリスを見て笑ったのだ。
「お姉さんが言ってたこと、本当でした」
ミウはそう言うと、クリスが尋ね返すより先にクリスの手を取った。
「お船の中にお父さんの大事なものがあるので、取りに行ってもいいですか?」
「いいですよ、さっき見て来て安全だったので一緒に行きましょうか」
二度手間になるが、どうせ先に言われててもクリスが確認に行っていた。
彼女はアインに許可を取ると、ミウの手を取って再度船へ近づいた。
アインはアインで海底洞窟を見渡して、ふと。
「……この香りは」
毒が漂わせていた香りが鼻孔をくすぐって、まさかと思った。
香りは奥から漂ってくる。
手をかざすと、毒素分解EXが密かに働いているではないか。
「クリス! 俺はちょっと奥を見て来るッ! 数分で戻るからッ!」
「お、奥ですか!? 無理はなさらないでくださいねっ!?」
どうやら探し物に難航しているようで、すぐに許しの返事が届く。
あまり悠長にしているのもどうかと思って足早に進んだ。
蛇行して入り組んだ道は歩きづらかったが、軽快に足を進めていった。
すると、奥に進むに連れて――――。
毒素を孕んだ濃厚な瘴気が壁のように立ち塞がる。
特筆すべきは、その瘴気の奥に見え隠れする輝きだ。
「…………そういうことか」
考えることは色々あるが、どうして魔物が近寄らなかったのか。それに、毒素が海水に沁み込んでいたのかも理解できた。
すべてはあの光の元が原因だったのだ。
アインは両手を広げ、瘴気を払い毒素を分解する。
前に前にと進む脚は濃厚な毒の沼を踏みしめた。奥に見えるは小さな土の土台である。水は海水ではないようで、何処かから通じてやってきた湧き水のよう。
流れ着いた魔物の死体による栄養素に、この湧き水。
陽光が欠けているのだが、漂う濃厚な魔力を代替にしていたのかも。
いくら考えたところでアインには不案内だ。
「…………驚いたな」
曰く、長きに渡って語り継がれた昔話。
曰く、人を魅了して止まなかった海の伝説。
「これが――――深海の秘宝」
手を伸ばしたアインは手に取った。
見目麗しき金色に輝く、一輪のブルーファイアローズを。
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