あの場所へ。

 よし――――。

 アインが強く意気込んだのは翌朝のことだ。

 身体の調子はとてもいい。すべてはセラから受け取った魔道具による治癒の力と予想がつく。



「勝てたら、おまけで何個かくれないかな」



 軽口を叩けるだけの余裕もあった。

 ベッドの上で体を起こして、身体を伸ばして気持ちよさそうに声を漏らす。窓の外から差し込む朝日が一瞬だけ眩しかったが、それもまた心地良かった。

 ふわっと柔らかい毛布をよけてベッドの脇に座り、下に置いていた内履きに足を入れる。



 そういえば、とアインはここで思い出す。セラがただの治癒魔法の使い手として現れた際のことだ。

 あの時の魔法は果たして本当に魔法だったのだろうか?

 もしかしたら魔道具を使っていたかもしれない。はたまた、もしかしたらアインが知らないスキルの可能性だってあるわけで。

 気になったのは、それが戦いに影響するかもという理由からだった。



「ま、今更か」



 セラの力をどこまで分かってるか自分でも分からない。

 もう別の情報を頭に入れることも余計な気がしてしまう。



 ――――コン、コン。

 木の扉をノックした主はすぐに分かった。独特というわけではないがリズムと力加減を聞きなれているから分かったのだ。



「あら……ちょうど起きちゃってたのね」


「ついさっきね。クローネは?」


「ううん。私は少しだけ早かったの」



 恐らく、身支度のためだろう。

 彼女は相変わらずそうした事に余念がない。

 シルクのような髪も、白磁の肌も。

 服にだって、皺があった姿を見たことがないくらいだ。



「もうっ、なーに?」



 媚びるようではない、想い人にしか聞かせない甘さを孕んだ声だ。

 アインがつい見過ぎていたからか、彼女は少しだけ照れくさそうにはにかんだのだ。手元のスタークリスタルはその気持ちを代弁するかのように、今日も美しい桜色を湛えていた。



 すると、彼女はアインの隣に腰を下ろす。



「陛下からアインに贈り物があるんですって」


「お爺様が?」


「ええ。暇で外に出たくならないようにって、たくさんの書類仕事をご用意してくださってるそうなの」



 アインは弱い所を突かれたと言わんばかりに微笑した。



「署名だけしてくれれば大丈夫よ」


「それだけ? 仕事って言う割にはなんか……」


「まだ病み上がりじゃない。陛下もああ仰ってはいたけど、アインに無理をさせたいわけじゃないんだと思うわ」


「……お爺様らしいや」



 ひとまず腹ごしらえでもしようか。

 こう思い立ったところで、新たに扉がノックされる。

 やってきたのはクリス。

 彼女もまた、自慢の金髪を揺らして現れると、クローネと反対側のアインの隣へ腰を下ろした。



「お目付け役を命じられた、クリスティーナ・ヴェルンシュタインって言います」



 クリスはふふん、と得意げに言うも。



「姫にお目付け役をしてもらえるなんて光栄だよ」



 アインの返事に顔を覆ってしまったのだった。



 ――――それから。



 外の空気を吸いたいと言って、アインは一人で部屋を出た。

 甲板から吸う朝の空気は格別だからだ。

 昨晩のように廊下に出て、そのままの足で甲板に向かい階段を上る。

 扉を開けた刹那、涼しく爽やかな風に迎えられた。



 誰もいない甲板に出て手すりの前に立つと、昨晩のシルヴァードの事を思い出してしまう。

 つい、アインも感傷に浸った。

 すると。



「気持ちのいい風ですね」



 背後から聞こえてきた、鈴の音のように心地よい声。

 きっとアインなら何処に居ても分かる、大切な人の声だ。



「お母様も外の空気を吸いに来たんですか?」


「いいえ、私はアインの姿が見えたから来たんですよ」



 振り返ったアインが見たのは、いつもと同じく優雅にドレスを着こなすオリビアの姿だった。

 彼女の胸元を押し上げる豊かなふくらみの上に、幼い日のアインが贈ったスタークリスタルが今日も輝いている。

 風に靡いた髪をそっと手で支える姿は、淑やかな歩き方と相まって艶美。



 オリビアが歩く姿は、それだけで絵画に描かれた聖女のようだった。



 さて、彼女はアインの姿が見えたから、と言っていたが、もしかしたらアインの考えを知っているのかもしれない。

 アインは心の内でその予想を抱くも、すぐに確実に知っているだろうと考えを改めた。オリビアはセラの事を知っているし、セラと契約を交わした女性でもあるから尚更だ。



「身体の調子はどうですか?」


「もう大丈夫みたいです。心配をかけてすみませんでした」


「ううん、気にしないでいいんですよ」



 近づいてきていたオリビアがアインの前に立つ。

 そのまま両手を伸ばすと、彼の事をぎゅっと抱きしめた。以前なら、魔王化以前であればオリビアの胸元近くだったアインの背も、今はアインの方が高い。

 今は逆に、オリビアの方がアインの胸元近くに頭が届くくらいだ。

 押し付けられた柔らかさに加え、鼓動まで聞こえてきそう。



「――――うん、本当に大丈夫みたいですね」


「え」



 今ので分かったのかと、アインが呆気にとられた。



「私には何でも分かるんです。アインの事なら全部分かっちゃうんですよ」



 これはオリビアなりの鼓舞だろうか。

 少しの間抱きしめられた後、離れたアインが見たのはオリビアの零れんばかりの微笑みだった。



「クローネさんとクリスも誘って、一緒にご飯にしましょう」


「ですね、実はお腹がすいちゃってて」


「ふふっ――――それも知ってましたからね」


「我ながら、分かりやすすぎますね……」



 目を伏せて笑みを取り繕ったアインだったが、悪い気はしていなかった。

 むしろ居心地の良さを感じるほどだ。



「とりあえず、船内に戻りましょうか」



 甲板に来たばかりではあるが、もう十分だ。

 早速、朝食をとって英気を養うとしよう。

 アインはオリビアと隣り合って歩き、歓談を交えて歩き出した。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 飛空船を抜け出したのは深夜になった頃だ。

 見張りに見つからないように窓を開けて、音もなく忍んで地面に降りた。見張りの騎士の目はなんとか誤魔化して闇夜に消えて、神隠しのダンジョンまで駆けて行った。



 今、この辺りは先日と比べて賑わいが感じられない。



 冒険者のテントや建物は並んでいるが、活気はほぼほぼ失われている様子だった。

 それもこれもシルヴァードがやってきたことによるものだろう。

 アインは若干の申し訳なさを募らせたが。

 すべて後回しにするべきだと心に決めて中に入る。



 カツン。

 歩くと音が響き渡る。



 ――――やはり、中にも人っ子一人いない。

 それこそギルドの職員ですらだ。

 青白く光る内部は幻想的で、尚且つ神秘的だ。



(もう、来てるんだ)



 下層へつづく螺旋階段に足を踏み入れたところで、すぐに彼女の気配を感じ取った。

 待たせてはいけないという焦りを抱きながら、一段、また一段と階段を下りていく度に、来たるべき時に胸が大きく鼓動する。

 向かう先は一対の椅子が並ぶあの場所だ。

 昨日と違い、そこにある椅子のうち片方が穏やかに揺れていた。



「遅かったのう」



 と、セラが椅子に座ったまま口にした。

 後ろから近付いたアインは「すみません」とだけ返して、空いている椅子に腰を下ろすのだ。



「皆にバレないようにするので必死だったので」


「何じゃ面倒な。お主なら制止を振り切ってでも来れたであろうが」


「そんな呆れないで下さいよ。さすがの俺もそんなことはできないです」


「水龍の時には出来たのにのう」


「あれは――――ッ!」



 分かってる、冗談じゃ。

 ケラケラと笑うセラが椅子の上で胡坐をかく。



「手に取るようにわかる。緊張し、心を乱しているとな。大切な家族のためという美徳を前にして、お主は自分がそれを成し遂げられるか疑問を抱いている」


「…………」


「ま、例の件は茶でも飲んでからでどうじゃ」


「決心が鈍りそうなんで止めときます」


「嘘つけ。そんな気は毛頭ないという表情をしておるぞ」


「そうですか?」



 つい数十秒前までの心の乱れが嘘のように、消えていた。

 ここにきて心が落ち着いたのは覚悟が出来たからか、あるいは過剰に分泌された脳内麻薬の働きか。

 当の本人であるアインからすれば、どちらでもよく感じていた。実際、目的は変わっていない。やるべきことはすぐ傍で飄々としている、セラという竜人に膝をつかせること。



 この一つが確かな事であることも、アインの心に一本の芯を生み出している。



「あまり焦らしても可哀そうじゃしな、行くとしよう」



 と、立ちあがったセラ。

 アインは彼女が何をするのか固唾を飲んで見守っていたが、その後まもなく見せつけられた現象に、想像以上に驚かされた。



 扉――――あるいは門だろうか。

 セラが指をパチンと鳴らすと、暖炉の前に極彩色のオーロラが現れたのだ。

 オーロラは湖上に落ちた雫の波紋のように揺れて、少しずつ蒼と緑、以前アインが不意に訪れてしまったセラの世界が見えてくる。



 この原理や技術を尋ねる気にはなれない。

 彼女セラだからで片付けられる話だからだ。



 オーロラを眺めていたアインを見て、セラがきょとんとした顔で言う。

「これに入るのが怖いのか?」と。

 しかしアインは「違います」と即答してみせて。



「貴女に負けること以上に怖いことなんてありませんから」



 微塵も怖れを抱いていない勇敢な態度。

 彼はセラに先んじて、オーロラの中に足を踏み入れた。


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