ワイバーンと、エルフの招待と。
翌朝のアインは、少しの緊張感すら見せず自然体だった。
特別早起きをするわけでもなく、少し遅めの朝食を楽しんでから、彼はのんびりとした様子で皆に指示を出す。
「――――昼食までには帰ってこようか」
訳が分からなかった。
それはエルフの里に行ってということなのか、まさかワイバーンの討伐をしてからなのか。
この時代のウォーレンが尋ねる。
「今日は状況の把握に努めるのだな」
「違う」
「へぇ、では僕に教えてくれ。何を思ったのか、その真意について」
「難しいことは考えてない。俺が言ったのは、ワイバーンを殲滅してから昼食までには帰ってこようって意味だよ」
「……馬鹿馬鹿しい」
例えばここにいるのがアーシェだとする。
あるいはカインで、あるいはシルビアでもいい。イシュタリカにおける最上級の実力者が揃っていたのなら、昼食までに帰るということも夢物語ではないが。
「僕たちの戦力を鑑みることをお勧めしよう」
「知ってるよ。それでも十分だと思ってる」
「……呆れたな。王族が無知を晒すことは凡愚の極みだ。どうして彼女はこんな男を」
するとウォーレンはアインの近くを離れ、木のふもとに背を預けて座り込む。
本を開き、それにのみ興味を向けていた。
一方でイシュタリカの戦士たちは、アインに対して負の感情を抱いている様子はない。しかし一様に、困惑しているのだけは分かった。
エドだけが、昨日のアインを見ていたこともあり冷静だった。
生存本能が母への愛を勝ったという事実が忘れられず、彼は寡黙にアインを見つめていた。
あくまでも冷静さを保ちつつ、アインの振る舞いを精査しようと。
「不満がある者はここで待って居てくれて構わない。……というか、実際は何人か待って居てもらおうと思ってる。エルフの里から人が来たら困るし、もぬけの殻にするのはどうかと思うからね」
結局、何人かの戦士たちは留守番することになった。
アインと共に出発した戦士たちが呆気にとられるのは、それから少し後のことだ。
戦士の中には、アイン――――マルクが生まれる以前から、魔王アーシェの下に付いていた者もいる。当然、アーシェだけでなくカインとシルビアの強さも知っていたし、若き頃のマルクの素養の高さも良く知っていた。
だが、それでもだ。
今目の前にいる彼が見せている力には、覚えがない。
エルフの里のさらに奥に位置する深い森の中。
険しい山脈を臨む大自然の中が、一人の強者によって一方的な戦場と化していた。
「これで三十頭目だ」
魔石を一突きで砕かれたワイバーンが、力なく地面に横たわった。
ある時は空中から。またある時は地面に下りてから牙を剥き、ある時は数頭掛かりで襲い掛かるも、いずれも結果は変わらず、魔石か格のどちらかが貫かれる。
アインは少しの帰り血も浴びず、淡々とワイバーンを屠るだけ。
今に至るまで戦士は一人も剣を抜かず、魔法を放つこともなく見るばかり。
「くふふ……昨日のことは夢ではなかった」
もはやエドの首筋には、冷や汗の一滴も伝うことがない。
「夢ではなかったって何が?」
「いいえ、大したことではございません」
「……そっか」
深く追求することはせず、アインは戦士たちに、ワイバーンから魔石や素材を取るように指示を出す。
この間にも襲い掛かってくるワイバーンを片手間に処理していた。
戦士たちの間に、自分たちの必要性に疑問符を浮かべる者はいなかった。それを考えられるだけの余裕が無くて、同時にアインの剣技に見惚れていた者が多数。
また一頭、また一頭と数を減らすワイバーンは、この状況にいったい何を思っているだろう。
――――本当に昼には戻れそうだ。と、ある戦士はこう呟いていた。
「なんという力だ……」
ウォーレンもまた驚いていた。
ここに来る前の言葉は驕りではなかったのだと知り、呆気にとられる。
思わず立ち止って見つめていた彼の頭上から、勢いよくワイバーンが滑空してくる。
「え」
このままでは首から上が噛みちぎられる。
だが、そうはならない。
いつの間にか近くに居たアインが剣を抜いたからだ。
『ガッ……ァァア……』
首筋を切り裂かれ、かすむ鳴き声のあと息絶える。
ウォーレンはここでようやく命の危機だったことを強く自覚し、息を荒げた。
身体から力が抜けて膝を突きそうになるも、アインが肩を抱いて支える。
「ごめん。戦士じゃないのに戦場に来てもらっちゃって」
「ッ……馬鹿を言うな。僕はシルビア様から頼まれてここにいる! 僕の知識でマルク様の手助けをしてくれと頼まれたんだ!」
「邪見にしたつもりじゃないんだ。不快にさせたちゃったことは謝るよ」
アインはそう言うと、ウォーレンの無事を確認して傍を離れた。
彼は次から次へとやってくるワイバーンに対し、一切の攻撃を許さない。
「凡愚と罵った相手から助けられる気分はどうだ? 本ばかり読んで培った言葉で教えてくれ」
「最悪な気分だ、とだけ」
「くふふ……つまらない返事だな」
「楽しませてやる義務は僕にはない。そっちこそ、長と何か企んでいたのではないのか? でもその企みは瓦解したようだ。何せこうして、僕の傍に来ているぐらいなのだから」
「……訳の分からない妄想に付き合う気はないな」
エドは惚けた。
するとウォーレンから視線を外して、アインを見る。
まだ本気を見せてるよ様子もない彼に対し、今一度の怖れを抱いた。
◇ ◇ ◇ ◇
正史の上ではどのような結末を迎えたのかというと、アインがしたような大勝ではない。
戦士に犠牲者が生まれ、マルク本人も傷を負ったのだ。偏屈な若きウォーレンが策を講じてワイバーンを各個撃破し、エルフの里をその脅威から救った――――というのが本来の歴史だ。
だが一つだけ同じことがあった。
ワイバーンを殲滅した日の夜、一行は勝利を祝い宴の席を設けたのだ。
森の中で戦士たちは歌い踊っていた。ただし勝利を祝うというよりかは、アインの活躍を称える側面が大きい。
地面に座り、空を見上げていたウォーレンの下にアインが足を運ぶ。
「昼間は助かった」
「ああ、ワイバーンのこと?」
「そうだ。僕はマルク様のおかげで命拾いした。これについては素直に感謝してる」
「別にあれぐらい、気にしないでいいのに」
「……そういう人となりに、彼女は惹かれたのだろうな」
そっと呟かれた言葉が空気に溶け、二人の耳に届くのは戦士たちの笑い声と、風に触れる木々のささやくような音だけだ。
アインはウォーレンの隣に腰を下ろすと、隣の彼に倣って夜空を見上げた。
「良い空だね」
「……そうかもしれないな」
「本を読むのと、どっちが有意義?」
これはあまりにも愚問だった。
「比べるまでもなく、本だ。だが今は本を読みたい気分じゃない」
「へぇ、どうして?」
「死に瀕して心が不可思議に高揚してるのか。それとも、単に気分が向いていないかのどちらかだ」
「なるほど、難しいね」
とっつきにくさは無くなっていないが、少しだけ、話しやすくなったような気がした。
くすっと笑いを零してから、アインは不意に立ち上がる。戦士たちの宴に混じりに行こうかと、そう思った矢先のことだった。
「――――エルフ?」
エルフの戦士が数人と、アインが良く知る現代のエルフの長だ。
彼女たちはアイン一行が居を構えていたこの場所に、正装に身を包んで近づいてきている。
やがて、アインとウォーレンの前で立ち止ると、一斉に膝を折って頭を下げた。
「母が……長がお会いしたいと申しております」
「僕たちの王族に対し、急にやってきて何と無礼な――――」
「いいんだ。最初に勝手にやってきたのは俺たちの方だし、気にしてないよ」
その言葉にウォーレンは不満げだったが、アインの意を汲んで引き下がる。
「今から行けばいいのかな」
「長はいつでもと申しておりました。ですが、貴方様がいらしてくださるのなら、いつでも歓迎させていただきます」
じゃあ、今から会いに行こう。
間を置かない判断にエルフの者たちは驚きながらも、アインの言葉に感謝していた。
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