たった一つでも傷を付ければ俺の勝ち。
――少しの時間が経つ。
アインの誕生日からおよそ一週間が経過していたある日のことだ。
夜、いつものようにベッドに入ったアインは寝辛さに苛まれていた。何度寝返りを打ったか分からない。
すでに遅い時間だが、誰かしら起きているだろう。
部屋を出て誰かと話でもしようか、そう思った矢先に強烈な眠気に襲われた。
まさに不意の出来事で、アインはそれなら――と寝直す。
それからついさっきまでのことが嘘のように、アインは深い眠りに陥った。
しかし今日の眠りは不思議な感覚だった。
起きている時のように意識が覚醒していたし、何かを考える余裕もある。
真っ暗闇の中、はるか遠くから一つの光が生まれた。
その光は前触れもなく爆ぜる。爆ぜてしまった光は瞬く間にアインの近くにも届く。
強烈な光と風を見に浴びたアインは目を閉じた。
「なに……これ……ッ!?」
だがそれ以上の衝撃はやってこない。
気が付くと、辺りには小鳥のさえずりが響き渡っている。
穏やかな風に乗り草花の香りが届いた。
少しの間をおいて目を開けるとそこは。
「……どこだココ」
アインは見たこともない小高い草原に居た。
腰にはいつもの剣が携えられている。
辺りは新緑美しく空は紺碧。
ただ、アインが見たこともない光景が広がっている。
「し、島が浮いてる……!?」
紺碧の空を漂ういくつもの島々が目に映る。
大きい島から小さい島、いくつもの島々が優雅に空を泳いでいた。
これだけでも衝撃的な光景だが、それだけではない。
――龍だ。
色とりどりの多くの龍が空を飛んでいる。
「訳が分からない」
アインは記憶を辿るがこんな光景は見たことがない。
当然、書物でもだ。
夢とは思えない現実感だが、彼はどうしたもんかと歩き出す。
十数分歩いてみたが、まだまだ草原は広がっている。
空を漂う島々や龍は自由きままだ。地上を歩くアインは時折空を見上げて立ち止ると、その不思議な光景を眺めた。
何十分。いや、もしかしたら数時間は歩いたかもしれない。
小さな泉が視界に入る。隣には一本の大きな木があった。
「少し休もうかな」
現実感あふれる夢の中では、身体にも多少の疲れが生じていた。
「よいしょ――っと」
芝生の上に腰を下ろし、木の幹に背を預ける。
頬を撫でる暖かな春風が心地いい。
泉の中には、見たこともない極彩色の小魚が泳いでいた。
何時のなったら目が覚めるだろう?
いっそのこと、この夢を楽しむべきなのかもしれないが……。
と、半ばぼーっと惚けながら検討していたアインの耳に、なんとも力の抜ける声が聞こえてくるのだ。
「かー……かー……んむぅ……」
寝息と寝言だ。
身体を預けた幹の反対側から聞こえてくる。
人が居る夢だったのか。
現実味溢れる夢とあって、アインは立ち上がって確認に行く。
すると。
「くぁー……すぅー……」
顔は口が半開きで情けない。純白のローブは寝相の悪さからへそが見える。
鼻ちょうちんは無いが、なんとも幸せそうに寝ているものだと、アインは
この夢について事情を察せたところで、彼女の隣に腰を下ろした。
「呼ばれたってことか」
彼女、元は女神だと思っていた竜人が居たのだ。
俺を呼び出したのだろうか、とアインは想像するが、それにしてはこんな寝姿を晒されては合点がいかない。
すぅー……アインの横で竜人の鼻にちょうちんが出来上がる。
「これがカティマさん相手なら潰すんだけどね」
しかし相手は竜人。
アインから見れば恩人でもあるのだ。
何度かの邂逅では軽い態度を見せているものの、さすがに眠っている最中なのだから、静かにしておいてやる方がいい。
が、この状況が数十分もつづくと我慢の限界だ。
結局アインは、竜人が寝ている隣で数十分は我慢した。
一行起きる気配がなかったことで、人差し指で鼻ちょうちんを勢いよく割る。
「ッ――な、なんじゃ!?
「いや、俺ですけど」
「……ぬぉおお!? な、なんでお主がここにおるのじゃ!?」
そんなものはこっちが聞きたい。
アインは肩をすくませる。
すると、竜人は口の端についていた涎を拭いた。
「もしかすると先日、儂がお主と会ってしまったからなのか……? だがしかし――」
一人腕を組み、竜人はアインそっちのけで考え出す。
彼女は何も答えを得られなかったようで「まぁよい」と呟いてアインを見上げる。
「すぐに戻してやろう。心配することはないぞ」
「それは心配してないですけど。ここはどこなんですか?」
「気にするでない」
「いや、無理です」
「……相変わらず頑固じゃな」
苦笑した竜人が泉を眺め、つづけて空を見上げる。
「それぐらいなら教えてやっても良いか……ここは儂の故郷じゃ。と言っても、ここにあるのは丸ごと贋作の紛い物じゃが」
彼女は決してそれ以上を語らないだろう。
先日のこともあり、アインはその確信があった。
だが故郷という言葉には衝撃が走った。
ここは明らかに別世界と言っても過言ではない場所だからだ。
「一つ答えたのじゃから満足じゃろ? ではそろそろ」
「まだ聞きたいことがあります」
「なんじゃ……まったく。儂がそう簡単に教えてくれると思うなよ!」
ふんっ! 鼻息荒く言い切られる。
「初代国王と会ってたんですね」
「ッ――」
「日記を読みました。その日記には、貴女と初代国王が二度に渡って邂逅していたと」
「……日記ならば、約束を破ったとは言えぬか」
「じゃあ!」
初代国王について教えてくれるはず、アインはそう思った。
自分はいずれ王になる。そして、神隠しのダンジョンには足を運ぶことは間違いなくできないのだ。ならば今が多くのことを尋ねる最後のチャンスに他ならない。
アインは前に比べ、強気な態度で竜人を見つめる。
「知ってしまったのなら教えても良い。が、ただ教えるだけというのは好みではない」
竜人がニヤリと笑みを浮かべる。
「どうせ他にも尋ねたいのじゃろう?」
「ええ、お察しの通りです」
「神族の多くは供物を求める。儂は竜人じゃが、お主には女神として新たな生を与えた。ゆえに選択肢をくれてやろう」
すると、竜人が手をかざす。
パチンと指を叩くと空間にひびが入り、巨大な鎌がずずっ……と鈍い音を立てて現れる。
「お主が読んだ日記に対しての答えが欲しいか。それとも別の問いも含めての答えが欲しいか。どっちじゃ?」
「……後者の場合、どうなるんですか?」
答えは決まっている。
辺りに漂う緊張感が音になって聞こえてきそうだ。
アインは尋ねつつも竜人から距離を取った。
「儂の身体に傷を付けてみよ。さすればすべて答えてやらんこともない。これならお主も諦められるじゃろうからな」
竜人がくすくすと笑う姿は艶美だった。
身体は小さいし顔つきも幼い。だが、アインが感じたことのない不思議な感覚だった。
「何をしてもいいんですか?」
「ふむ、と言うとなんのことじゃ?」
「暴食の世界樹としての力を使っても大丈夫なんですか、ってことです」
「……」
竜人はきょとんとした顔を浮かべて間もなく、
「あーっはっはっはっはっはッ!」
と、高笑いをしてみせた。
「おかしい奴じゃなお主は……。なにをしても良いし、どんな卑怯な真似をしても良い。儂の肌に傷を付けられればお主の勝ちじゃ。時間は三分くれてやろう」
「なるほど、随分と分かりやすいですね」
冷静に答えたものの、アインの心のうちは穏やかじゃない。
先日も見せつけられた迫力。そして先ほどの高笑いからは絶対的な自信が溢れていた。
しかし、アインもこれまでの積み重ねがある。
たかが傷の一つぐらい入れてやらないと――油断は無く本気だ。
「開始はそうじゃな。お主が剣を抜いた瞬間でよいぞ」
「わかりました」
もはや問答は要らない。
アインは虚をつくために、次の瞬間には勢いよく剣――イシュタルを抜き去っていた。
ほぼ同時に踏み込み距離を詰めた。
後は彼女の白い肌に傷を付けるだけ。
背後を取って価値を確信した。
「約束は守ってもらいますからッ!」
空を裂く音。
イシュタルが竜人の右腕に触れた瞬間。
「魔王の力を使わずに剣を振るうとは。儂も舐められたものじゃ」
辺りに響き渡る、金切り音のような高い音。
ギギッ――鍔迫り合いを思わせる響きと共に、イシュタルから火花が散った。
驚きに染まるアインの瞳には、一枚の鱗が見えた。
「儂は竜人じゃ。鱗ぐらい出そうと思えば出せる」
磨き上げられた水晶のように美しい鱗だった。
だが問題なのは美しさではなく、イシュタルが切り裂けない頑丈さにある。剣を扱うのは普通の騎士ではなく、アインなのだ。
これまでに感じたことのない硬さにアインは戸惑った。
「そして、一度目はお主の敗北じゃ」
目にも止まらぬ速さで竜人は身体を翻す。
手に持った鎌が、アインの身体を深々と切り裂いた。
鮮血は飛び散ることは無かった。痛みもない。
気が付くとアインの身体は元通りだ。
(……動きが少しも見えなかったッ!?)
幼い頃、はじめてクリスの武を見た時を思わせる衝撃だった。
「何度死ぬか数えてみるのも良いじゃろうて。ここでは本当に死ぬことはない――安心してよいぞ」
余裕が目に見えて分かる。
アインは大きく息を吸うと、暴食の世界樹としての力を生み出していく。
辺り一帯にいくつものマンイーターが生まれ、離れた場所には大樹が生まれた。
「いつでもよいぞ」
大樹のツタや根が、勢いよく地中から地上に舞い上がり土が爆ぜる。
「じゃあ、遠慮なく」
黒龍戦のときはマンイーターが居なかった。
今は生み出せるだけのマンイーターが姿を見せている。
数えると数十はくだらない。
アインが手を振りかざす。
生み出されたすべてが勢いよく竜人に襲い掛かった。
「はじめからそうしておけばよかったじゃろうに」
竜人は泉の傍で立ちすくんでいた。
動くことなく、天球すべてを覆う攻撃に抵抗する様子が無かったのだ。
小さな身体がツタや根、マンイーターで見えなくなる。
しかし。
「もっと出来るじゃろう?」
ふと、そんな声だけがアインの耳に届いた。
まばたきをすると、竜人に襲い掛かったすべてが切り刻まれる。
竜人を中心に吹き荒れた強風が、切り刻まれたすべてを飛び散らせた。
「黒龍の力を吸ったのじゃ。まだ底が残っているであろうに――あと、いちいち大樹を作り出すのも悪い癖じゃ。邪魔であろうが」
パチン、竜人が指を鳴らした。
次の瞬間には、天から降り注ぐ巨大な光芒が大樹を包み込む。
粒子に分解されるように燃やされていき、その残骸が光芒を辿り空に消えた。
(う……嘘でしょ!?)
アインは目を白黒させ、この戦況に唾を飲み込んだ。
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