日記。
今宵のパーティの後半、アインはクローネと肩を並べて歩いた。
何せ今のアインは王太子としての立場に加え、シュトロム領主の立場もある。アインは少し悩んだものの、領主として貴族への顔見せも同時進行していた。
会場では、二人の自然で仲睦まじい様子が注目を集めていた。
ところでアインは、貴族全員の顔を知っているわけではなかった。覚えることを放棄していたという事では無く、純粋に数が多すぎて、まだ顔を見たことのない貴族が多いからだ。
そんな時は、隣に立つクローネがそっと助言する。
「アイン、あちらの方は――」
「ん、りょーかい」
彼女はアインの左腕に腕を絡ませており、歩く姿はさながら夫婦のよう。
二人の関係性は明言されていない。
しかし幼い頃からの二人の振る舞いは公然の事実であり、違和感がないどころか
シルヴァードをはじめとする王族たちは、二人の振る舞いを安心して眺めていられた。
同じく眺めていた貴族たちが言葉を交わす。
「未来の国王夫妻はなんと眩いことか」
「良いことだ。御子の誕生が待ちきれん」
「おや、気が早いようで。まだ殿下は即位してもないと言うのに」
「だが期待もしよう。言葉通り英雄王の誕生となるのだから」
耳の良いアインには称賛の声が良く届く。
気恥ずかしいが、一々照れていても疲れるだけだ。
苦笑したアインの服の袖が、クローネの手でちょんちょんと引っ張られた。
「平気? まだ疲れてない?」
「俺が疲れてたらクローネもってことになるよ?」
「ううん、私は隣に立ってるだけだもの」
「……全然違うと思うけどね」
彼女は補佐官としての仕事をしながらも、アインの隣で他の役割も欠かさない。
例えば妻のように、例えばアインを引き立てるためのパートナー役として、きめ細やかな手助けをしていた。
それがただ立っているだけ、と言われても納得感が無い。
「堂々とアインの隣に居られるんだもの。疲れるはずがないじゃない」
クローネはくすっと妖艶に笑う。
するとそんな二人の下へ、バルト伯爵が足を運んだ。
「殿下、お久しぶり――とまでは参りませんが、今宵は招待いただきありがとうございました」
「バルト伯爵、こちらこそ、来てくれてありがとう」
軽く挨拶を交わし、バルト伯爵がクローネを見た。
「クローネ様とはお久しぶりでございますね」
「そんな、私のような者に様と付けられては……」
「当然のことかと。殿下とのご関係、決して無視できるものではございませんので」
クローネは謙遜したものの、バルト伯爵が言うように様と付ける方が収まりが良い。クローネの身分は決して貴族ではないが、いくつか微妙な立場があるからだ。
公式な立場はアインの補佐官であるものの、今ではイシュタリカ一の大商会と名高いオーガスト商会会長の孫娘にして、立場上、主のアインとの恋仲でもある。将来の王妃になるにあたって、何一つ恥じ入ることのない身分だ。
クローネもまたそれらを理解し、バルト伯爵の言葉に強く抵抗はしない。
それが互いのためだからだ。
バルト伯爵がアインたちとの距離を更に一歩詰めた。
つづけて声を潜めて言う。
「是非、婚儀にも出席させていただければと」
いつもは照れた顔を見せないクローネが、その言葉には思わず頬を赤らめた。
だが、アインは茶化すことをせず、
「その時は是非、招待状に『出席』と書いて返事をくれ」
よどむことなく言い切った。
クローネは無意識にアインと絡めた腕を更に近づけ、隣に立つアインの顔を見上げていた。
幸せなんだろう、それが一目で分かる美しい顔を浮かべている。
「勿論でございます。――ところで、これは余計な問いかもしれませんが」
前置きをしたバルト伯爵が苦笑いを見せる。
「招待状の言葉が出ましたが、そうした事は通常、傍仕えや補佐官、秘書がするようなものでしょう。ですがクローネ様の場合は式の主役だ。それでもこちらの職務もなさる予定で?」
「バルト伯爵……さすがにそこまでの先のことは私も――」
「いいえ、数年もすれば私は補佐官ではなくなります。バルト伯爵が疑問に思われている件については、新たな補佐官がすることになると思いますわ」
全く聞いたことのない話に、アインが呆気にとられクローネに目を向ける。
「……はい?」
「もう、アイン? 私がずっと補佐官を出来る訳ないじゃない……。立場が変われば特にね」
「確かにその通りだけど……新たな補佐官って、また何か試験でもされるの?」
「ううん。多分しないと思うわ」
彼女は確信めいた様子で言うが、アインは一向に答えが得られない。
もしかすると、既に新たな補佐官も決まっているのだろうか。
「じゃあディルが新しい補佐官になるとか?」
「違うわよ。ディル護衛官はいずれ、黒騎士を脱退して元帥になるための人材だもの」
言ってることはおかしくない。
だが。
「これはこれは、クローネ様。殿下が答えを求めていらっしゃるようですよ?」
「ふふっ、分かってくれると思っていたんですが、少し急すぎて分からなかったみたいです」
「……答えをくれると嬉しいな」
観念したアインに微笑んでクローネが言う。
「本人の希望というのもあるのだけれど、マルコよ」
言葉にされて納得した。
マルコなら補佐官と言われても違和感がなく、試験がないという理由も分かる。
「彼は知識、振る舞い、人望、それに武芸もアインに次ぐ実力者だもの。万が一多くの反対があった時には試験が課せられると思うけど……」
「マルコ殿でしたらそのようなことはないでしょうね」
「ええ。バルト伯爵が仰った通り、問題にならないだろうって陛下も仰っていたわ」
「陛下もって、俺は何も聞いてなかったからね?」
「補佐官の選定は国王が承認するものだわ。だから厳密に言えば、他の王族に拒否権や選定権は無いの。私の時は純粋に試験で決められたけどね」
アインは、自分が知らないところで話が進んでいたことは驚いたが、すべての話に口を出していてはきりが無いのも事実だった。
とは言えマルコが補佐官と言われるとしっくりきた。
幼い頃から護衛を務めていたディルではないが、彼は昔からロイドを目標にしていた男。
アイン一人の護衛を務めるだけでなく、元帥として多くの立場に臨んだ方が向いているはずだ。
「でもね、執務室でアインと一緒に仕事をするのは私。これだけはマルコにも譲れないの」
想い人アインを見上げながらの言葉は、アインの心をいとも容易く
今すぐにでも抱き着きたい気持ちを必死に抑え、「頼もしいよ」とアインは彼女に笑って答える。
「ここシュトロムに来たかいがございました。お二方の仲睦まじいお姿を拝見できて、バルトでは良い土産話ができそうです」
では、そろそろ私は。バルト伯爵は最後に頭を下げて二人の前から立ち去った。
彼の背筋をピンと伸ばした歩き姿は、相応に年を召しているはずなのに凛々しい。
「アイン、後でならいくらでも抱きしめてくれていいのよ」
「……バレてても、そういうのは言わないでくれたほうが俺は助かるんだ」
「それなら、後でいっぱい抱きしめてって言ったら許してくれる?」
その言葉にアインは目を細めて頷く。
「言い方ってすごいなって思った」
「ええ。――さぁもう少し頑張りましょう。後でアインに抱きしめてもらえるって聞いて、すごく元気になっちゃった」
――それから間もなく、賑やかなパーティに終わりの時間がやってくる。
王都からやってきたシルヴァードたち以外の貴族たちが、最後にアインに一言告げて屋敷を去る。
祭りの後のような静けさの中、片付ける前。アインは家族だけのパーティを楽しんだ。
◇ ◇ ◇ ◇
屋敷の中は給仕たちが掃除に励んでいる。
シルヴァードやララルアは用意された部屋で休み、ロイドはディルと外に出て歩きに行った。
いつもはアインが剣技を磨いていた訓練場。
そこにはじめて足を運んだウォーレンが、アインに一つの包みを手渡す。
「これは……?」
絹だろうか。なめらかな白い布に包まれた何かをアインが受け取る。
「あいつの――彼の日記でございます」
「えっと、あいつって言うのは……」
「私がイシュタルを共に旅した、ある男のことでございますよ。多くの人々を救い、多くの異人種と共になり、最後は皆を置いて旅だった馬鹿な男です」
ウォーレンはそう言って空を見上げた。
天空いっぱいの星は、冬の寒さで澄んだ空気によって強く目を引いた。
「素直で、一生懸命で、負けず嫌いで……いたずら好きで、人を振り回すことが多い男でした。私の最初の友ではありますが、苦労させられたことばかりだったことを覚えています」
そう言ったウォーレンの顔は、言葉とは裏腹に楽し気だ。
懐かしみながら反芻して、回想する様子がアインの目にはどこか神秘的に映る。
訪れた沈黙の中、ウォーレンはアインに背を向け歩き出す。
「その日記の管理は私に任されておりました。ですが、アイン様に託すべきものなのでしょう」
「ウォーレンさんッ!? もしかしてこの日記って――」
「私はその日記を読んだことがございませんが、アイン様が読むことを止めることは致しません」
最後に、いつもの好々爺然とした声で言ってウォーレンが立ち去る。
残されたアインは、布を払い中の日記に目を向ける。
表紙のど真ん中に書かれた「日記」という分かりやすい文字を眺めてから、背表紙を見る。
すると。
「――マルク・フォン・イシュタリカ」
初代国王の名だ。
アインは恐る恐る手を添え、ゆっくりと表紙をめくった。
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