彼女にとっての戦い。

 しかし、重ねて残念なことに記憶がない。

 いったいいつ? むしろ、どうしてそう思ったのだろう?

 顔を赤らめながらも、魚のように口を開け閉めしてみせるクリス。



 楽しそうに尋ねるシルビアと目を合わせること十数秒。

 クリスは俯き、羞恥に唇を震わせながら口を開いた。



「――シ、シルビア様は何を仰っているのでしょうか……?」



 精一杯に繕った。

 だが、顔を上げられないところに彼女らしさが募る。

 とはいえ、俯いていると、例の葉や根が見えて、



「えぇぇええ……ど、どうして……!?」



 と、唐突に驚いてみせる始末だった。



「ふふ、本当に可愛らしい。ほら、落ち着いて」


「は、はい……お見苦しい姿を……」


「気にしないで。それじゃ、もう一つだけ調べてもいいかしら?」


「……はい?」



 すると、シルビアはおもむろにクリスのシャツに手を伸ばす。

 ボタンを一つだけ外し、胸と胸の間辺りへ手を当てた。



「こうして葉を出せたことで間違いないと思ったけど、やっぱり、アイン君と繋がりが出来てるわね」



 それも数秒にも満たない時間だ。

 彼女はすぐに手を放すが、その手のひらにはうっすらと緑色に光る――オーラのような何かが握られている。

 相変わらず、シルビアというエルダーリッチは不思議なことをする。



「シルビア様ッ!? い、一体何を……って、これは……?」


「可視化したアイン君の魔力――の断片かしら。綺麗な色してるでしょう?」



 深海をじっと見つめた時のような感覚。

 空を渡る雲を見つめた時のような感覚。

 なによりも、アイン本人を見つめるときのような感覚。



 それら全てを凝縮したような、安心感を抱かせる暖かな光だ。

 淡い緑の奥には、エルフの里にいるような心の落ち着きを思わせる。



「……すごく綺麗、です」


「えぇ、だってあの子の魔力だものね。――それで、いつ交わったのかしら?」


「ッ――で、ですから、私には交わった記憶なんて……あ」


「あらあら。覚えがあるのね」



 シュトロムを出てすぐだ。

 思い当たる節はあれしかない。残念なことに、あれしかないのだ。

 あれだけで根付いた? 事故で? 勝手に根付いてしまった?

 切なさや不安など、多くの感情に苛まれてしまう。

 今考えるべきことが多すぎたのだ。



「ほ、本当に根付いてるの……?」



 慌ててステータスカードを取り出し、エルフと書かれているはずの欄に目を向けた。

 すると、何よりも確実なその証拠が記載されている。

 クローネと同じ、ドリアードの文字がそこにはあった。



「……シルビア様……わ、私……どうしたら……」


「あ、あらら……別に泣かせたかったわけじゃないのだけど……」



 クリスは唇をぎゅっと閉じ、上目遣いに涙目でシルビアを見る。

 やがて、一筋の涙が頬を伝ったところで、シルビアはクリスの肩を抱いた。



「もう……どうして泣いてしまったの?」


「勝手にこんなことになって……嫌われたりでもしたら……」


「き、嫌われる? うぅーん……アイン君がスライムに負ける方が、よっぽど確立が高いと思うけど」



 なんとも言えない苦笑を浮かべたシルビア。

 だが、不安な気持ちは他人が考えるよりも強く、アインを命懸けで助けようとした彼女(クリス)らしさがあった。

 彼女はシルビアに目元を拭われると、少しずつだが落ち着きを取り戻す。

 もしかすると、彼女の魔法か何かで落ち着かされたのかもしれないが、



「あの子がそんな男の子じゃないって分かってるでしょ? まだ幼い時、命懸けでクリスさんを海龍から救ったこと、忘れたのかしら?」


「わ、忘れてません……!」


「まぁ、あの時は私が作った剣もあったけど、これ自体はあまり関係ないものね」



 城に収められていた一本の短剣。

 例の黒い短剣は、アインが海龍を倒す際に砕け散ったが、それがシルビア製なことを忘れてはならない。



「そんなことよりも、クリスさん? 根付いたきっかけは何だったのかしら?」


「……事故です。事故だったんです」


「事故? 事故で身体を重ねたとでもいうの?」



 行きずりのようなことはあり得ない。

 そう思っていたからこそ、シルビアは驚いた。



「ち、違います! だから、重ねて何ていないんですってば……!」


「それなら何があったのかしら?」



 シルビアに手を取られると、やはり落ち着ける。

 明らかに彼女の優しさが作用しているようで、むしろ、涙を流す前よりも自分らしくなれた。

 ――だから、クリスは落ち着いて彼女に語る。

 先日、シュトロムを出て、水列車の中で何があったのかを。



「――ですから、本当に事故だったんです……」


「あ、あらあら……そういうことだったのね」



 しかも自分の不注意で起きた事故。

 後ろ向きすぎて、罪悪感が募るばかりだったが、



「でも、それならちょうどいいじゃない」



 艶めかしい黒髪と相まって、クリスがうっとりするような笑みで言ったのだ。



「ちょうどいい……ですか?」


「どうしたいのかハッキリさせましょう? アイン君とどうなりたいの?」


「……そんなの」



 ――決まっている。



「もっと、お近づきになりたい……です」


「そうよね。エルフの気が長いのは知ってたけど、貴方はその想いにいつ決着をつけるのかなって、私だってやきもきしてたんだもの」



 アインと出会って約十年。

 最初はオリビア似の男の子という印象で、学園に通いだして大人びてきた。

 やがて、海龍の時には命を救われ、意識を始めたのはそのころからだ。

 年齢差はあるが、そんなことはそう気になりやしなかったのだ。



「でも! もう、アイン様にはクローネさんが……!」


「次期国王なのに娶るのは一人なの? 現国王がそうだったからって、過去の王族やアイン君がそうとは限らないでしょう?」



 それどころかシルヴァードが特殊だと言える。

 国王の妃が一人だなんて、先行きを思えば最善の選択にはならないからだ。

 


「……それは、そうですけど……」


「むしろ、民からしたら妃が一人っていうのも不安に感じるのだけど、そうね……」



 唇に手を当て考えるシルビアは、あまり間を置くことなく意見をまとめた。

 クリスがどうするべきか、それを賢者のように提示する。



「あの二人――アイン君とクローネさんは筋を通す性格かしら。王族としての役割は理解してるはずだけど、だからといって、なぁなぁにして妃を増やすーなんてことは絶対にしないと思うの」


「……はい。私もそう思います。お二人の心は強く結ばれてますから」


「だからクリスさんもこの先を望むなら、ある種の筋を通す必要があるかしら」



 ようは、こそこそせずに堂々とすることと、クローネに対し、この思いを打ち明ける必要もある。

 一方のクリスとしても、横やりをいれるような真似はしたくない。



「シュトロムに帰ったら言っちゃいなさい。クローネさんに、私もアイン君が好きだって」



 アインに対して何か行動を起こす前に、クローネへ話せと言った。




「ッ――!?」


あの子クローネも昔から器の大きな女の子よ。王族という特殊な立場にあっても、クローネさんなりに賢く考えるはずだもの」



 だから新たな一歩を踏み出せと、シルビアは背中を押してくる。



「このままでいるのは辛いでしょ? きっとアイン君、長生きどころの話じゃないわよ? 共に居るなら、そんな生き地獄はやめておいた方がいいと思うけど」



 根付いたという事実に基づき、クリスがアインから離れることはないだろう――という前提のもとで話すと、シルビアが言うように生き地獄だ。

 いずれは慣れるかもしれないが、そこにクリスの達成感や満足感はない。



「……」



 だから彼女は静かに頷いた。

 気持ちを露にすること、それを一歩とするのなら、これは間違いなく初めての一歩だ。

 ――だが、



「というより、みんなにバレてるのだから、隠すも何もないと思うわよ?」



 自分としては秘密にしていた話。

 それが、実は周知の事実だと言われて慌てふためく。



「――は、はぇッ!?」


「当たり前でしょう? 今の今までのことを思い返してみて? ただの忠犬というには度が過ぎてるもの」


「もしかして、クローネさんたちにも……ッ!?」


「そんな当たり前のことを今更言われてもね……。私もカインとはゆっくり進んだけど、貴方も似たようなものなのかしら……」



 最後にこの事実を告げられて赤面し、両手を顔に当てて悶絶した。

 それどころか、自分の気持ちを知っているであろう相手に対し、そんなことを宣言するなんて思ってもみなかった。

 しかし、帰ったら一対一で話せる時間をとりたい。クリスはそう心に決めた。



 ――結局、アインが帰ってくるギリギリまで、気持ちを落ち着かせることはできなかったのだった。



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