彼の必死さ。
シルヴァードの言葉もあり、ウォーレンが派遣したイシュタリカ戦艦。
その戦艦が、突如として帰国するとあって、港は慌ただしい様子を見せていた。
早朝のまだ薄っすらと暗い時間帯だが、港には多くの灯りが灯(とも)っている。
ちなみに、帰国するという理由は簡潔にウォーレンへと届けられたが、やはり情報量は少ない。
……そうした中、待ちに待った戦艦の到着。
少しでも早く情報を手に入れるため、ウォーレンは騎士を引き連れて港にやってきたのだった。
「クリス殿。急に申し訳ないですな」
「いえ、確認するのには私が適任でしょう」
クリスが連れて来られたのは、例の謎の生物の確認のためだ。
死骸は冷凍保存されて持ち込まれた。だが、万が一を考え、知識と実力が伴っているクリスが連れて来られた。
ウォーレンとしては、もう少し事態が落ち着いてから確認に来たかったが、後手に回るのを避けたかったのもあり、こうしてウォーレンとクリスが出向いたのだ。
「未曽有の事態です。リリの報告によれば、魔物とも言えず、ただの動物とも考えられない。しかし、肥大化した魔石が埋め込まれているという話ですから」
ウォーレンが語ったが、イシュタリカに住むクリスにとっても、驚くべき報告だった。
「……えぇ。普通なら、魔石なんて魔物か異人にしか宿っていませんからね」
「そうなんです。ですので、私は少し仮説を考えましてね」
こう口にすると、ウォーレンが咳払いをして喉の調子を整える。
「一つ目は、新種の生物という事です。ただ、その場合は奇跡的な確率といえるでしょうな」
「……どうにも夢物語に思えちゃいますね」
クリスが苦笑いを浮かべた。
「はははっ、その通りです。――そしてもう一つは、それは人工的な生物という事です。なんでも、赤狐は魔物を操るとのこと……つまり、そうした技術があって不思議では無いとは思いませんか?」
その情報源は、カティマが購入した古い本だ。
確かにその中には、魔物を操るという情報が記載されていた。
未知の技術な事に違いはないが、そうした可能性も否定できない。
「考えたくありませんが、筋が通っていますね……」
生態については、専用の機関で調査する必要がある。
だが、ウォーレンの推測も間違いじゃない気がしていた。
「っと、到着したようです。ではクリス殿、そちらの方も頼みましたよ」
「えぇ。お任せください」
完全に停泊した戦艦と港の間にタラップが繋がる。
それを見ると、クリスは急ぎ足で中に向かって行った。
一方、リリが乗る戦艦の方からは、そのリリ本人が降りて来た事で、ウォーレンはそこで静かに待っている。
「……おやおや。本当にいらっしゃるじゃないですか」
姿を見るまで信じられなかったが、リリの後ろを歩くのはエレナとティグルの二人。
まさか、こうして数日ぶりに二人の顔を見ることになるとは、さすがのウォーレンも想像したことが無い。
……色々と思うことはあるが、その事は後に回すとしよう。
「閣下。ただいま戻りました」
タラップを降りたリリが、ウォーレンの手前で頭を下げる。
「良く戻ってくれましたね。……さて、お二方には詳しく話をお聞かせ願いたい。早速ですが、まずは場所を変えましょうか」
エレナはマグナという都市を経験しているが、それでも王都の規模は遥か上を進んでいる。
つまり、隣で驚き続けているティグルと、似たような反応を見せていたという訳だ。
ウォーレンはこの二人の様子を見て、楽しそうに笑みを零し、近くにある馬車を指さしたのだった。
*
「……ふむ。そう言うことでしたか」
4人は馬車に乗りこむと、戦艦で話した内容をウォーレンに伝えた。
ハイム王家に異変が起きている事、そしてブルーノ家やラウンドハート家の件や、エドの事を漏らさず伝える。
この件は、たとえウォーレンであっても驚くような内容ばかりで、それを表に出さない様にするのに苦労してしまう。
「リリ。貴方が全てを決定するには荷が重すぎる話でしたが、結果を見ればいい仕事です」
「はっ」
得られた情報や、エレナやティグルの命を守れたことは、いずれどこかで使える話だ。
こうした利点を考えても、決して悪い話じゃない。
ウォーレンが認めてくれたことに、リリは安堵と喜びの感情を滲ませる。
「……すまない。先日の会談でも申していたが、私の言葉は信じられないだろう。だが、騒動が落ち着いたら必ず礼をする」
ティグルが頭を下げると、エレナも続いて頭を下げた。
「その件はまた後日ご相談致しましょう。今は考えるべき事と、決めておかねばならないことが多すぎます。こういうのは、切迫した状況で行ってもいい話ではございませんので」
こう語ったウォーレンは、数秒置いてから新たな言葉を口にする。
「例えば、お二人が我々に拉致されていないという証明です。そうした内容の署名をいくつかいただきたい。構いませんね?」
「……勿論だ」
「はい。私も同意します」
船の中でリリも語った話だ。
少なくとも、後々面倒になる事態は避けたい。
現状のティグルならば以前の彼よりは安心が出来るが、ラルフの状況を思えば用意は入念に行いたかった。
すると、この重苦しい状況を変えようと思ったのか、ウォーレンが別の会話を始めた。
「それにしても、まさかこんなにも早く再会するとは思いませんでしたな」
好々爺に笑みを浮かべ、二人に語り掛けたウォーレンの姿は、会談の時の威圧感は皆無に感じられる。
「あ、あぁ。私としても、まさかあんな騒動になるとは思わなかった」
「我々も同じく驚いたのですよ。……それにしても、エレナ殿はさすがだ。よくその事実にたどり着かれましたね」
「……偶然です。偶々、例の伝言を思い出しただけですので」
「それだけではございません。その後の判断も、ラウンドハート家やブルーノ家の相手をしなかったのも最善でしたから」
若干大げさに褒められれうと、エレナも照れてしまうようで、指で頬を軽く掻く仕草を見せる。
「それに、ティグル王子の行動力も功を成した。お二人の協力によって、良い結果になったのでしょうな」
「……わ、私だと?」
「えぇ。実は前々から、ティグル王子の行動力は私も評価しておりますので」
「……世辞を言うな」
見え透いた世辞に思えて、ティグルがそっぽを向く。
「正直な事を言ってしまえば、考えにまだ若い部分はいくつか見受けられました。ですが、全てを卑下するものではありません」
こうして語るウォーレンの真意が、二人にはよく理解できなかった。
持ち上げるようにお世辞を言う利点がさっぱりわからない。
少しばかり不安に思ったエレナだったが、一つ気になっていたことを尋ねる。
「――ところでウォーレン殿。一つお尋ねしても?」
「えぇ、どうぞ」
「……我々は、国交断絶の状況にあります。その中には、こうして対話することも禁ずるという記載があるはずですが、今回の場合はどうなるのでしょうか」
「ご心配は要りません。私もそこまで鬼ではありませんので、状況を鑑みて、今回の事でハイムを攻めるつもりはありませんので、どうかご安心を」
ウォーレンの言葉を聞き、安堵のため息をつく。
「すまない。重ねて感謝する」
すると、すぐに謝辞を述べたティグルにウォーレンが驚いた。
「ふむ……。ティグル王子は、エウロでお会いした日や先日の会談と比べれば、少し覇気が無いように見えますな」
いっそのこと、直接訪ねてみることにしたのだ。
回りくどい言い方をしても構わないのだが、もうすぐ城に到着する。
それを考えたウォーレンが、少し言葉を選びながらこれを尋ねたのだった。
「ははっ……中々に率直な尋ね方だな」
「その方が、きっとティグル王子にとってもいい事かと思いまして」
「まぁ、いい。……助けてもらった礼に、これぐらいなら語っても構わないか」
観念した様子で手を上げると、ティグルがウォーレンの目を見て口を開いた。
「私は最近、いくつかの時に恐怖する機会があった。先日の会談もそうだが、特に大きな事は、今朝の……いや、昨日の朝の件だな」
「それは先ほど伺った、敵味方が判別できていない状況の件ですかな?」
「あぁ。それに父上も混じっていると聞き、私は多くの感情を抱いた。……その時には、兄上の死を忘れ、自分が生き残るために必死になっていたのだ」
自己嫌悪するようにこれを語ると、目を覆うように手を押し当てる。
「今まで住んでいた自室すらも、まるで別世界に感じてしまった。すると不思議な事に、なぜか物事を落ち着いて考えられたのだ。死の可能性を考えた事で、全身が必死になっていたのかもしれぬ」
「ふむ……」
「頭の中に残ったのは、どうすれば安全なのだろうかという意識だけ。もはや、恥や自尊心なんてものは無くなってしまったのか、逃げるようにエウロを目指したのだからな」
それは生存本能かもしれない。
だが内容はどうあれ、ティグルはこうして、行動した結果が繋がったという事実を証明できた。
「矜持を守るために言葉を選ぼう。そう思ったが、今の私には無理なようだ。――……きっと私は、ハイムに残るのが怖くなったのだろう」
きっと、物凄い恐怖なのかもしれない。
兄の死をきっかけに、グリントやその周辺の貴族も関り、更には父もそれに関与しているかもしれないという事実。
今までの常識が一気に崩れ去り、世界が変わったように感じるのも無理はないだろう。
次は我が身という気持ちも、徐々に募っていったに違いない。
「こんなことは正直にいうべきではないと思うが、恐らく私は、エレナの縁にも期待していたのかもしれぬ」
「……エレナ殿の縁とは、もしやクローネ殿たちのことでしょうか?」
「あぁ、そうだ。……暗闇の中にあっても、イシュタリカという国の強大さが揺るがなかった。もしかすると、その縁を頼って助けてもらえるかもしれない。こんな馬鹿げた感情を抱いていたのだろう」
目を覆っていたティグルの手の端から、一筋の雫が流れていく。
素直に心のうちに秘めていたことを口にするうちに、自分の情けなさに涙してしまった。
「さ……散々な事をしたあげく、その相手を頼り、部下の縁を頼るっ。――こんな情けない話は他にはないだろう?都合のいい事だけを信じ……っ自分はきっと救われる!そんな薄っぺらい感情だけを私は感じていた……っ!」
毅然とした態度を保とうとしていたが、それは徐々に崩壊していく。
幼子が泣きながら声を震わせるようにして、ティグルは声色を弱弱しく変化させていった。
「……なんとも、人間らしさを感じさせる言葉ですな」
ウォーレンが感じたのは、ティグルという男の人間らしさだ。
生き残るために頭脳を働かせ、そのために苦渋を飲み、最後には自己嫌悪するという複雑な感情。
ある種、ティグルの未熟といえる人間性が現れている言葉だった。
「っ……私は王族でありながら、国を捨てたようなものだ。父を糾弾するような事をエレナに言っておきながら、私のしてることは更に酷い。なんと浅ましい事だろうか……。国よりも自分を守り、部下の縁を頼り海を渡ったのだからなっ……」
「――ですが、ティグル王子。ならばこそ、私は一言尋ねたい」
「……あぁ、なんだ」
若干鼻声になりながら、ティグルが目を隠したまま答える。
「部下を利用し、王族の務めを放棄する。そして敵国に希望を見出すような恥を重ねながらも、貴方は生きたいと願った。つまり、こういうことですね?」
なんとも最低な人物評だったが、ウォーレンが口にしたことは事実だ。
ティグルはその言葉を聞くと、一瞬体を大きく震わせたが、震える口元で、ふぅ、ふぅ、と息を整えると、その感情を口にした。
「あぁ……!そんな浅ましい人間ながらも、私は恐怖から逃れ、生きたいと願った!」
ハイムからエウロに向かった時、その時から身に秘めていた感情なのだろう。
ティグルはこのすべてを吐露すると、小さく嗚咽を漏らし、更に涙を流してしまう。
「未熟な器に、ほんの一つまみの勇気……ですな」
こう評したウォーレンの心は、ティグルのバランスの悪さにあった。
酷く脆く、成長が止まっていた器の持ち主のティグルが、こうして多くの感情を口にして、エウロに向かう勇気を見せた。
……複雑で見栄えの悪い、臆病なティグルという存在自身が、何処か可哀そうに見えてしまったのだ。
時代と親、そして環境さえ違えば、もしかすると名君になったかもしれない。
ウォーレンにこんな事を考えさせた。
――だからこそ、ウォーレンは素直にこれからの事を教えることにする。
「ティグル王子。ご存知の通りかと思いますが、我々にとってのハイム王家と言うのは、それこそ首を取りたいほど憎いと考える者がいるのです」
これを聞くと、ティグルは目に見えるように太ももを震わせた。エレナも何かを口にしようと乗り出すが、ウォーレンの手でそれを制されてしまう。
すると、気の毒に思ってしまったウォーレンは、すぐに続きを口にする。
「――……ですが、我々は文明国だ。ティグル王子が我らにこれ以上の害をもたらさないのであれば、我々もティグル王子に害を与える事はございません。普通にしていてくだされば、身の安全は保障するという事ですよ」
甘いと思う人間も、イシュタリカには多く存在することだろう。
だが、現状では、ウォーレンも何か危害を加える気にはならなかった。
なぜなら、過去のティグルの発言には、何一つ信じられる要素が無かったが、たった今語った彼の言葉には、ウォーレンも信じる気にさせられる、必死な感情が入り混じっていたからだ。
……もしかすると、こうして自尊心も矜持も全て捨て、涙した姿を見せたことが、今までのティグルにとって一番の罰となったのかもしれない。
なにせ、ここにいるのは王子としてのティグルではなく、まだ大人になり切れていない一人の青年だったのだから。
*
「ほらほら、貴方はこっちですよー。泣き虫王子様ー」
「なっ……き、貴様!昨晩から言いたい放題過ぎるのではないか!おい、待てッ!」
目が腫れぼったく、若干赤らんでいるのが見えるが、ティグルは多少元気を取り戻した様子を見せる。
――城に着いた一同は、一度別れることになった。
ティグルは書類に署名をすることになり、エレナと一度別れることになる。
そのティグルを案内するのは、リリに命じられることとなり、リリはティグルをからかいながら先を進んでいき、ティグルはリリの後を追っていった。
「ウォーレン殿。リリをあてがってくださったのは、殿下へのお気遣いでしょうか?」
「おや。お分かりになりましたか」
「……殿下が不安にならないようにする、そのために情けをかけてくださったのでしょう?」
「はっはっは……。この老躯も、それぐらいの優しさは持ち合わせておりますのでな」
リリもその意図を汲んでいたのだろう。
王子相手に先ほどの言葉は無礼な事この上ないが、今のティグルは、それを気楽に感じている節があった。
むしろ、リリだからこそできた姿なのかもしれないが。
「――無知と育ちの悪さは、時に罪となりましょう。今回ばかりは、我々イシュタリカには……いえ、王太子殿下には、慈悲を掛ける余裕があったという事にしておいてください。更にいえば、暗殺の件などの事情もありますので」
ハイム王家での生活を、ウォーレンは育ちの悪さと形容した。
思い当たる節があるのだろう、エレナはその事を特に追及はしない。
「……イシュタリカの。そして、王太子殿下の慈悲に感謝致します」
何度目の最後だ。
ウォーレンはそれが分からなくなるほど、自分の甘さに呆れてしまう。
だが言い訳をするならば、シルヴァード達も似たような性格をしているのだから、自分ばかり……とは言えないような気がしてならない。
「それに、いい情報なのは事実なのですよ。――……我々の因縁の相手も追えそうですからな」
「因縁……?」
考えてみれば、イシュタリカがここまで興味を示している理由をエレナは知らない。
だが、因縁と聞いては、気軽に尋ねていいものかと考えさせる。
……こうして迷っているうちに、ウォーレンが新たな事を口にした。
「さて、私も支度をしてきませんと。ティグル王子を待たせるのも悪いですしね」
「――わかりました。では、私は何処で待っていればよろしいでしょうか」
「そうですな……。ここで少しお待ちを。すぐに案内する者を連れて参りますので」
こう答えると、ウォーレンはゆっくりと何処かに進んでいった。
まさか、こうして一人置いていかれるとは思わなかったので、随分と呆気にとられてしまう。
……だが、少し経つと、一人の小柄な女性がエレナに近づいてきた。
「お待たせ致しました。城内にて一等給仕を務めます。マーサと申します」
マーサは軽く自己紹介をすると、体の向きを変える。
「どうぞ、こちらへ。エレナ様を、ご休憩ができるお部屋にご案内いたします」
「え、えぇ。ありがとう……」
小柄な女性は、一等給仕と自らの名を名乗った。
つまり彼女も一角の人物という事だろう。
エレナはそれを考えながら、歩き出したマーサの後ろを歩いていくのだった。
*
「では、こちらのお部屋でしばしお待ちくださいませ」
辿り着いた部屋の前で、マーサはこう口にしてその場を後にする。
中まで案内してもらえるのかと思ったが、まさかここで放置されるとは思わなかったエレナ。
勝手に扉を開けていいのかと迷ってしまうが、彼女がこの部屋で待てと言ったのだ、だから素直に中に入ろう。
一応心を落ち着かせてから、エレナは扉に手を掛ける。
「……うん」
何か変な物もなく、中は普通の部屋だった。普通と言っても、仕掛けが無いという意味での普通だ。
昇りかけた朝日の光が差し込むが、まだ薄っすらと暗がりに覆われる室内。
だが、奥には大きな机と、書類の束や本が整然と並べられているあたり、ここが執務室で、使う人の性格が良く分かる内装をしていた。
「とりあえず、腰掛けてようかしら」
中央にあるソファを目掛け、エレナはゆっくりと足を進める。
しかし、どこを見ても惚れ惚れとするような調度品ばかりだった。
絨毯は踏みしめるごとに、経験したことが無いような独特の幸福感をもたらし、壁や床、それどころか窓ガラス一枚とっても、大きな文明の違いを感じさせる。
「まさか、たった一日で、イシュタリカの城に来てしまうだなんてね……」
昨日のこの時間。
エレナはハイム城内で仕事に追われていたのを思い出す。
それがまさか、敵の本国どころか、王が住まう城に到着してしまったのだ。
……本当に人生なんて、なにがあるのか分からないものだ。
「スー……スー……」
――と、その時だ。
ソファに近づいたエレナの耳元に、規則正しい寝息が届いたのだった。
ウォーレン達は知らなかったようだが、もしかすると先客がいたのだろうか?
そう考えると、部屋を出ようとしたのだが、どうにも雰囲気に心当たりがあった。
「……この部屋って、まさか」
恐る恐る寝息の主の姿を覗いたエレナ。
すると、彼女の予想は的中したのだ。
「ん……ぅ……」
ソファに横になり、仮眠をとっていた女性。
エレナはその女性に見覚えがあるどころか、多くの縁を持っている。
「はぁ。ウォーレン殿、まさかこうした悪戯を仕掛けて来るだなんて」
緊張して損した。
軽くため息を吐くと、エレナはその女性のすぐ隣に腰かける。
彼女が起きないようにと、ゆっくりと腰を下ろした。
「ほら、風邪引くでしょ」
羽織っていた外套を脱ぐと、それを寝ている彼女の背中に掛ける。
「仕事の後の仮眠かしらね。もう、こんなところまで母娘だったなんて」
寝ていたのはクローネ。
つまりここは、王太子補佐官クローネの執務室という話だった。
なるほど、自分の緊張を削ぐには最高の場所だ。
ウォーレンに悪戯心があるのは否定できないが、それでも、この気遣いには感謝した。
すると、自分の腕を枕にしていたクローネが、寝づらそうに体を動かす。
「……はいはい。こっちに来なさい」
呆れたように声を漏らすと、クローネの頭を自分の膝の上に乗せた。
ソファの沈み具合と、エレナの太ももの高さが気に入ったのか、クローネは大人しくその場に寝かされる。
「昔もこんなことしてたものね」
昔といっても、もう十年近くも前の事になる。
アウグスト邸にクローネが住んでいた頃で、おそらく六歳か七歳程度の時の話だ。
勉強で疲れていた時や、夜に急に眠くなってしまった時。こうして膝を貸していたことがあった。
――だが、クローネは今年で十八歳のため、その時と比べれば、身体や容姿は多くの成長を遂げている。
身体つきは女性らしく成長し、顔つきも大人の魅力を身に着けてた。
自分の娘ながら、この容姿と身体つきであれば、アインといえども興味を持たないはずがない。その自信があった。
絹糸のような髪の毛と、滑らかな肌にはエレナも嫉妬してしまうが、きっとイシュタリカの技術力も影響しているのだろう。
……こう考えて、この嫉妬感を誤魔化すことにしたのだ。
「成長を近くで見られなかったのは残念だけど、貴女が幸せなら、それが一番よね……きっと」
それを思えば、孫馬鹿だったグラーフには感謝しかない。
あんなにも大胆な行動をとり、多くの事を賭けてエウロ経由でイシュタリカに渡ったのだ。
グラーフが去った事で、ハイムに多くの打撃があったのは否定できないが、娘の幸福のためと思えば、多少は妥協できる節がある。
――トン、トン。
膝上にいるクローネを見ていたら、扉が静かにノックされる。
返事していいものかと迷ったが、エレナは小さな声で『はい』と答えた。
「失礼致します」
そうして入ってきたのはマーサ。
茶の用意をしてきたらしく、ソファに進むと、暖かな紅茶を淹れ始める。
「……失礼ですが、もう一つの分はクローネのですか?」
不思議に思ったのは、カップが二つあるということ。
だが、ここはクローネの執務室と思えば、特に変な話じゃない。
「いえ。クローネ様はお休みなさっているようですので、こちらは別のお方の使われる物となります」
「別の……お方……?」
誰の事だろう。
エレナがそう思った矢先、もう一度部屋がノックされた。
「あっ……えっと」
――よろしいですか?
マーサが静かにこう口にすると、エレナは自然と首を縦に振る。
なんて答えればいいのか分からなかったが、マーサが代わりに声を上げた。
「どうぞ」
一体誰がやってくるのか。
緊張した面持ちでそれを待ったが、やってきた人物は、随分と優し気な空気を纏っていた。
「こんばんは。……あれ、もうおはようございますかな?――こうして会話をするのは久しぶりですね。エレナさん」
「お、王太子殿ッ――」
慌てふためき起き上がりそうになったが、アインがそれを手で制する。
「大丈夫。クローネが起きちゃうんで、そのまま座っててください」
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