未だ暗闇にあって。
それからの行動は、エレナとティグルの両者ともに大急ぎで取り組んだ。
幸いなことに、怪しまれずに行動できたのには理由がある。
まず一つは、ティグルの持つ、クローネやイシュタリカへの執着心だ。
今までの行動が、今回ばかりは有利に働く。
エウロに書状を届けるということで、イシュタリカに強く詰問するという意味も込めて、ティグルがこうした行動をとる事を、城の者達も不審に思うことは無かった。
また、二つ目の理由は、御目付役という事。
エレナがその役割を担うという形になれば、立場を考えてもおかしな事じゃない。
ハイムの立場を明確に示すという意味も込めれば、周囲の人間はそれを当然のように認識するのだった。
――夫と息子を残してエウロに向かうのは、エレナとしても不安な気分になる。
しかし、アウグスト家が総出で向かうとなれば、それは騒動になるのが当然の事。
ハイムに残る側と、エウロに向かう側。そのどちらが危険かはエレナにわからなかったが、出来る限りの事はしようと考え、アウグスト邸の警備を更に厳しいものにしていった。
――そして、ハイムを出発してから数時間後。悩み続けていたティグルだったが、ようやくになって口を開いたのだった。
「……エレナ」
エレナとティグルが乗るのは、ティグル専用の、いわゆる王族向けの馬車。
この馬車とは別に、私兵や数人の給仕が乗った馬車があるため、二つの馬車でエウロを目指していた。
ティグルは席に腰を掛け、腕を組みながらエレナに言葉を投げかける。
「意見というか、どう考えるかを尋ねたい」
「意見……ですか?」
「あぁ。現状の、敵味方の区別がつかない状況についてだ」
その言葉を聞くと、エレナは真剣な様子でティグルを見た。
「何度も言ってるが、完全に状況が分からん。ブルーノ家……そしてアノンとエドの関係もそうだが、それこそ、父上の言葉にも不気味な感情が残ったままだ」
「……仰る通りです」
「だが、ここで分からないのがもう一つある。それは、仮に父上がブルーノ家と何かを企んでいたとしても、兄上を暗殺する必要が分からんという事だ」
昨晩からのラルフの様子は、決して演技のようには思えなかった。
そして、暗殺をする必要性が分からないのは、エレナも同じことだ。
「私から見て、父上は演技をしているようには思えんのだ。……だが、アノンの件を、偶然や言葉選びの間違いと片付けるには、あまりにも話が奇妙過ぎることも事実」
「――その件ですが、私に一つ考えがあります」
「聞こう」
「仮に陛下が、ブルーノ家と何かを共謀していたとしましょう。それと同時に、陛下が演技をしてなかったと断定する場合の話です。……そうすると、王子の暗殺事件の後、陛下はすぐにブルーノ家を呼び出すはずです。ですが、それをする気配がありませんでした」
あくまでも客観的な意見に過ぎなかったが、仮にラルフの様子が演技でなかったとすれば、第二王子が死んだのは予定されてなかったという事だ。
しかし、そうすると矛盾が生じる。
「……明らかな矛盾ではないか」
「はい。陛下は、アノン嬢に、わざわざ"殿"と敬称を付けるという関係にあるのに、ここで矛盾が生じています。……こうなれば、考えられることは一つかと」
この話では、立場がブルーノ家の方が上に感じられる。
こうなってしまえば、予想される話は一つだ。
「エレナ。お前まさか、父上が駒のように利用されていたとでも……?」
「はい。実情は違うかと思いますが、似たような状況にあるのではないかと」
「馬鹿を言うなっ……!と、怒鳴り付けたいところだが、現状ではそうも言えないのが歯がゆいな……」
兄の死に重ねて、エレナが語る話。
気丈に振舞っているつもりでも、ティグルの精神はかなり摩耗している。
誰が見ても一目でわかる、そんな疲れ切った表情を見せる。
「考えれば考える程、我々の味方が誰なのか分からなくなってきたな、エレナ」
「……少なくとも、この馬車の中はそうした心配がございませんよ」
「ははは!何を言うかと思えば、ここには私とエレナしかおらぬではないか」
王位継承権第三位の男と、大公家の夫人でハイムの重鎮。
発言力や資金面を考えれば、最高と言ってもいい組み合わせだが、今ではまるで、裸の王様のような気分だった。
……一瞬、ティグルはこうして、自虐的な笑い声をあげた。
それが数秒続いたと思えば、彼はそっと静かになる。
――やっぱり、大変よね。
エレナがティグルを労わろうと思った矢先、ティグルは小さく声を漏らし始めた。
「……仮に父上がブルーノ家と共謀していたとすれば、結果はどうあれ、父上はハイム王失格だ」
「それはっ……!」
そんなことは無い。
こう答えようすると、ティグルが手を向けてそれを制する。
「言わずともよいのだ。まぁ、こんなことを言ってしまえば、私も王族失格であったなと、そう考えてしまうのだがな」
しばらくの間話し合っていたせいか、口が渇いていたティグル。
茶を口に含むと、ふぅ、と息を吐いて言葉を続ける。
「クローネに惚れたのも、一目ぼれというよりは、あの気概に惚れていたのだと思う」
「……」
「初めてあった時から、物おじせず堂々と話す女性だった。私の前であっても、媚びるような態度じゃないのが好印象だったのだ」
こんな感情は、ティグルも初めて口にする。
精神的に弱っているせいか、こうして過去の思い出に浸りたくもなったのだろう。
「当たり前だが、容姿も美しいのは事実。……だが、もう一つのきっかけとなったのは、私の誘いを袖にしたときだったな」
「……その、その節はうちの娘が失礼を」
「気にするな、過去の話だ。――……思い通りに上手くいかないのが初めてだったと思う。するとな、不思議と彼女の後を追いたくなったのだ」
自分を卑下するように小さく笑うティグル。
窓の外に目を向け、儚げな瞳で遠くを見つめる。
「すると、独占欲も沸いてくるもので、なんとしても私の妻にしたいと思ったのだ。……その後、バードランドでも調査をし、エウロが手がかりとという事を掴み、エウロに向かってあの王太子と出会ったという訳だな」
「――こんなにも想っていただき、クローネも幸せです」
「そう煽(おだ)てる必要はない。……つまり、国庫を使い好き勝手していた私も、同じく王族失格という話だ。ウォーレンにも指摘されただろう」
いつものティグルらしくない。
エレナはそう感じ、ティグルの事を考える。
……ティグルという王子は、もしかすると不器用なだけなのかもしれない。
初恋を成就させるために暴走したこともあるが、こうして冷静になっている一面もある。
既婚者のエレナからしてみれば、恋愛面に純朴過ぎたと見受けられた。
内容と結果を抜かせば、過去にも自らエウロに向かったという行動力もある。
なんとなく、今までのティグルへの印象が変わってきたように思えたのだった。
「……忘れてくれ。今は後悔している時じゃないな」
ティグルはそうして、エレナの方に顔を向けた。
「エレナ。エウロに着いてからの状況によっては、エレナとはそこでお別れだ」
すると、突拍子もないことを口にして、エレナを大いに驚かせた。
「っ……殿下!?エウロで別れることになるとは、一体どうしてですか……?」
「情勢を鑑みて、危険すぎると判断したときには、私が頭を下げる。だからエレナは、そのままイシュタリカに渡り、クローネと暮らすことを考えろ」
ティグルが頭を下げる?
まさか、ティグル本人からこうした言葉が出るとは、エレナは夢にも思わなかった。
しかもその相手がイシュタリカでは、より一層の驚きだ。
「――なりませんっ!どうして、どうして私だけが安全な場所に逃がされるなんて……」
「敵味方の区別がつかんからだ。現状では、王である父上ですら、何をしているのか分からない。考えたくもないが、ブルーノ家と親交のあるラウンドハート家にも共謀の疑いがあるのだぞ」
「で、では!むしろ殿下が安全な場所に向かうべきでは……っ!」
王族の方を優先したい。
エレナのこんな感情を、ティグルは呆れた様子で笑いかける。
「馬鹿を言うな。今までの事を考えてみろ。私が保護してもらえるわけがないだろう?……それに、私は王族だからな。ハイムに戻る義務がある」
幾度となく、イシュタリカとぶつかってきた。
ラウンドハート家とオリビアの件には関与していないが、アインとは確執があるのを否定できない。
もう一度言うが、ティグルはきっと不器用なのだろう。
何をするにも一本気なことは、王族としては向いていない性質かもしれない。
だが、資質が無いということはなく、強い責任感は好印象だった。
つまり、クローネの件を抜かせば悪くない王子であったと言えよう。
……ただ、クローネの件で暴走し過ぎたことが致命傷なのだが。
なんだかんだと、大陸で覇を唱える国の次期国王を言われるだけのことはある。
「少し、疲れたみたいだ。悪いがエレナ、あまり寝て無くてな……私はもう一度休ませてもらうぞ」
外を見れば、徐々に陽が沈みかけてきており、もうすぐ夕方に差し掛かる。
エレナも同じく寝ずに仕事をしていたが、ティグルは家族の死の影響もあってか、エレナよりも消耗しているように見えた。
そのため、エレナはティグルに言葉にすぐに答える。
「わかりました。では、私も一度休むことにします。エウロへの到着は、おそらく深夜から早朝の間になるかと」
「……わかった。何かあったら起こしてくれ、緊急なのだから、遠慮はしなくていい」
ティグルはこう口にすると、足取り重く立ち上がる。
馬車の奥に進み、陰になった部分に置かれたベッドに向かって行った。
その姿を見た後のエレナは、給仕用に設けられた休憩所に向かい、ティグルと同じく横になる。
「……どうなるのかしら」
不気味な状況な事は理解していたが、これからどうなるのかなんてエレナにも分からない。
というよりも、分からないことだらけで、どうしたらいいのかも考えられない状況だ。
「とりあえず……私も休みましょう」
何を考えるにしても体力があることに越したことは無い。
……いつもより早い脈拍と、落ち着かない感情を無視しながら、エレナは必死になって寝付く努力をした。
*
ハイム王国の馬車の中でも、やはり王族の使う馬車は頭一つ抜けていた。
造りに違いあるのも理由の一つだったが、他にも、どこよりも選別された馬を使っているという事も影響している。
そのため、グリントが使った馬車よりも早く到着できるのだ。
また、給仕たちが乗ってきた馬車も、同じく特別な馬車。
なにせ王族の馬車だけが早くとも、給仕たちが追い付けなければ意味が無いからだ。
「エレナ様。到着致しました」
「……ん」
付いてきた給仕が、エレナに到着を告げる。
「今、何時?」
「ついさっき、深夜の三時を回ったところです」
「ありがと。うん、悪くない時間ね」
道中の危険を考えれば、早く到着することに越したことは無い。
しかし、こんな時間にアムール公やイシュタリカの船を尋ねるのは失礼にあたる。
そのためエレナは、到着してからは朝になるまで、馬車の中で過ごす予定だった。
「少し外の空気を吸ってくるわ」
エレナの言葉を聞くと、給仕は私兵たちが乗ってきた馬車に戻っていく。
するとエレナは立ち上がり、強張った体を伸ばしながら、馬車の扉に手を掛けた。
「はぁ……本当にエウロだわ」
馬車が止まったのはエウロの城下町の手前であり、まだ町中には入っていない。
それでも、ハイムと違った雰囲気をエレナは感じ取った。
ついさっきまで、ハイム王都にいたというのに、突如としてエウロを尋ねているのだから、どことなく新鮮な気分に浸れる。
エウロは岬に囲まれた国で、風がハイムよりも強く吹く地域だ。
だが、少なくとも、今のように火照った頭脳を冷やすのには、これほど身に染みる風は存在しない。
風を全身に浴びると、天を仰ぎ深く深呼吸をした。
「すぅ……っ。はぁ……――」
夜の涼しげな風に、エウロの海の香りが混じっている。
喉から肺に、そして全身に清々しい空気が伝わっていく。
――アムール公には、なんて声を掛けるべきだろう。
一応の手紙は認めたが、ティグルとエレナが来ているのだから、手紙の意味はあまり残っていない。
だからこそ、アムール公になんて話しかけるのかが重要に思えたのだ。
――エド殿は、今どこにいますか?
違う。これでは言葉が足りな過ぎる。
――ところで、先日、エド殿をハイムで見かけたのですが。
……少し考えたくなる言葉だ。
仮にアムール公が関係していた時には、間違いなくその場で拘束、あるいは二人がエウロに"来なかった"という事にされてしまいそうである。
重要な言葉選びとあって、エレナは苦悩していた。
「……こんな時、ウォーレン殿のような強さがほしかったわね」
イシュタリカの人間も、ウォーレンという男の頼もしさは誰よりも信じているだろう。
エレナもそれなりの自信はったが、あの男を相手にすると、その自信もただの過信に思えてならない。
こういう時、彼ならばなんて考えるだろうか、と。
会談の時に思い知らされた、ウォーレンという男の事を考える。
――エド殿に、調査の協力を求めたい。
あぁ、これだ。
これならば、エウロにエドがいるのかも調べることができ、曖昧な線を歩いていける。
今の考え主軸に、どう話をしていくのかを考えよう。やっと決まった一つの事に、エレナは小さく笑みを浮かべ、もう一度深呼吸をする。
「……あら?何か、焦げ臭い?」
ほんの少しだけ、木が燃えるような匂いを感じた。
どこかで焚き火でもしてるのだろうか。エレナはあまり気にしていなかったが、エウロの城下町に目を向けた。
「――煙、よね」
深夜という事もあり、城下町を見ても明りが見えない。
だが、そんな暗闇にあっても、月明かりに照らされて、煙が空に昇っていくのが目に映る。
しかしそれが、両手で数えきれないような箇所で登っていたのだ。
「殿下を起こさないと……っ」
エウロに向かった理由を思えば、小さなことでも警戒しておきたい。
こう呟いて振り返ると、急ぎ足でティグルを起こしに行った。
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