会談の終わりと、許婚の現在。

 島に到着してから四日目。

 普通ならば、会談をしたもの同士、最後は挨拶を交わすものかもしれないが、この両国にはそれがなかった。

 イシュタリカとハイムは、約束事によって、この島を離れることで国交が断絶されることとなる。



 それを思えば、最後の挨拶なんて必要ないのかもしれないが……。



「では、ご連絡をお待ちしております」


「畏まりました。ところで……――」



 挨拶とはまた違う話になるが、エレナがウォーレンと最後の確認を行っている。

 他のハイムの者達はすでに船に乗り込んでいるため、エレナには、数人の護衛が距離を空けて立っているのみだった。

 ウォーレンの背後には、同じく距離を空けてロイドが立っている。



 エレナが確認していたのは、エウロ経由でのイシュタリカの連絡について。

 念のためにという事で、最後にその確認をしていた。



 すると、話が終わる頃になって、ウォーレンが疑問を口にする。



「第一王子殿は、一度も姿を見せませんでしたが……来ていたのですか?」


「……はい。その、第一王子殿下は出不精でして、ずっと船の中で活動をされていたらしく……」



 それを聞き、ウォーレンは察する。

 どうせ女でも連れてきて、船の中でずっと盛っていたのだろう。

 ならば別に来る必要は無かったのではないか、そう考えさせられた。



「ははは。その言葉は、聞かなかったことにしておきましょう」



 仮にも仕える国の王子に対して、出不精はないだろう。

 エレナも物言いたくなっているのだろうが、ウォーレンは聞かなかったことにした。



「助かります。では、これで本当に最後ですね」


「えぇ。ですので、イシュタリカに来る際には、バードランド経由でエウロに渡り、我々の船に言伝をくださいませ」


「……はい?」


「はい?とはどういったことでしょうか」



 いや、呆気に取られても仕方がないだろう。

 イシュタリカに来るときには?バードランド経由でエウロに来い?

 こんなことを言われても慌てるのは当然の事だ。



「い、いえ。国交が断絶されるというのに、イシュタリカに来る際というのは一体……?」


「殿下と良くしてくれている方のご家族です。さすがに、今生の別れをさせる気はありませんよ」



 呆気にとられた顔のエレナに対して、ウォーレンは当然のように語る。



「……昨晩、クローネとは今生の別れのつもりで話をしてきたんですが」


「おや?クローネ殿も、このことは知っていたはずですが」


「……実の娘に担がれたようです。こう伝えてくださいませんか?今度会った時は、まず説教から始めると」



 本当に娘は、ウォーレンの影響を受けているらしい。

 どうにも、こうした嫌らしさを身に着けたようだ。



 ウォーレンは笑みを浮かべ、エレナの言葉を承諾する。



「承りました。その際には、グラーフ殿とも歓談を楽しまれると良いでしょう」


「……義父も格別の厚意をいただいたようで、本当に感謝しております」


「いえいえ。そんなことはございませんよ。あくまでもオーガスト商会の成長は、グラーフ殿によって支えられてきたのですから」



 会談の時は、憎んでも憎んでも足りない相手だったが、こうして話をしていると、ウォーレンは何とも気のいい人物だった。

 何もなくこうして仲良くできれば、とエレナは考えたが、それはもはや幻想に過ぎない話。

 将来的にもそんな可能性は残っていない。



 グラーフの話も少しばかり聞けて、エレナは柔らかな笑みを浮かべた。



「では、そろそろ私も戻ります。エウロからの連絡をお待ちしておりますね」


「お任せください。では、今度は我らが国でお会いしましょう」



 こうして、エレナは振り返りハイムの船に向かって行く。

 ウォーレンはしばらくの間その姿を見送ると、軽く息を吐いて、振り返りイシュタリカの船に向かって歩き始めた。



「……後は、エウロ経由での条約のみですな」


「えぇ、ここまで来れば楽なもんです」


「それにしても、なにやら第一王子がどうのと会話が聞こえましたが……」


「ふむ……。大したことではないのですが」



 護衛をしていたロイドが、会話の内容について尋ねた。

 特に、第一王子と聞いては興味が沸いてしょうがなかったのだ。



「第一王子が、デブ症らしいのです」


「……言い方も立派な話術ですな」



 こう口にすると、イシュタリカの宰相は、悪戯をする様に笑みを見せるのだった。




 *




 ウォーレンとロイドが戦艦に戻ってから数分後の話だ。



 エレナが船に戻ったのを確認して、ハイムの船はイシュタリカより早く出航する。

 特にラルフは、もうイシュタリカの顔なんて見たくない。そんな感情で出航を急かしたのだが、ティグルは心残りがあった。



 それは、最後にクローネの顔を見られなかった事。

 最後に彼女をハイムに連れ戻すため、多くの誘い文句を徹夜で考えたというのに、クローネは今日、一度もイシュタリカの戦艦から降りてくることが無かった。



 当然のようにウォーレンに尋ねたが、降りる必要が無いと断りを入れられた。



 徹夜をしたというのに、どうにも目が冴えてしょうがない。

 ティグルは気分を変えるためにも、海風にあたろうと甲板に姿を見せた。

 ……すると、そこには先客がいたようで、その先客もティグルに気が付いたのだった。



「……む。なんだ、ティグルではないか」


「父上。どうしたんですか、こんな所で?」



 甲板に居たのはラルフ。

 どうやらラルフは、徐々に小さくなっていく島を眺めていたらしい。



「少し風に当たりたくなっただけだ。ティグルこそ、どうしてここに来た」


「……似たようなものです。これがクローネとの最後と思えば、いろいろと思うこともありますので」


「あの女の事はもう忘れよ。ハイムには、もっといい女もいるはずだ」



 イシュタリカに対する苛立ち、そして息子を慰めようとした感情。

 そうしたものがいくつも入り混じった言葉だが、ティグルはその言葉に好意を持てなかった。



 結局は、ティグルにとっての、クローネという存在が大きすぎるのだ。

 憎き王太子の傍にいるのかと考えれば、気が気じゃない。

 二人が男女の仲にあるのかと想像すれば、嫉妬で心が割れそうにもなってしまう。



 彼女の美しい髪を撫で、唇に口づけをする。

 それが自分じゃないという事実に、何度吐き気を催したことか分からない。



「我が国にも、いい女はいるはずだ。エレナもいいが、ローガスの妻のアルマもそうだ。それに……おお!その息子、グリントの許婚もそうであろう?アノン殿も素晴らしい方だ」


「否定はしませんが、やはり私にとってはクローネが……」



 確かに、クローネは美しかった。

 ラルフも抱きたいと思うような女性で、ティグルがどうしても妻にしたかったのも理解できる。

 ティグルの手前、そんなことは口にしなかったが、そうした事実はある。



 だが、ラルフは思うのだ。

 自分の息子は、ここまで女に絆(ほだ)される男だったのかと。

 長男のレイフォン程、女にだらしなくなれとは言わないが、せめてもう少し気楽に構えてほしいとは思う。



「ハイムに戻ったら、女を抱け。多少は気分が良くなるだろう」


「……考えておきます」



 二人してだらしなくため息を吐く、その瞬間だった。



「陛下!殿下!お下がりください!う、海の魔物が……!」



 甲板で見張りをしていた騎士が、海中の魔物の接近を口にしたのだ。



「っ……何が現れたのだ!?」



 ラルフ達が乗る船が慌てた様子になったのを見て、周囲の船からも騎士達が現れ、弓などを構えた。

 その中には、もちろんローガス達が乗る船もある。



「あれは……クラーケンですッ!まだ子供のようですが、危険ですのでどうか船の中にッ――」



 クラーケンと聞き、ラルフだけでなくティグルも恐怖に顔を染めあげる。

 ハイムでも、クラーケンは時折出現する魔物だ。

 冒険者や漁師たちから恐れられる、海中の主。それが子供とはいえ現れたのだから、ハイムの一行が恐怖に怯えるのは当たり前の事。



 ……だったのだが、島の方からやってきた二つの影が、誰よりも早くそのクラーケンに近づいた。



「ち、父上!何か近づいて……」



 クラーケンほどに大きな体が、二つ近くにやってくる。

 その速度は尋常ではなく、回遊魚たちですら太刀打ちできない速度を見せた。

 騎士達は弓を構えそれを放ったが、素早く動くその陰には、弓が一本も当たる気配がない。



 魔物が三体。もう絶望的だ……。

 そう思った矢先。やってきた二つの影は、何も気にすることなくクラーケンの頭を貫いた。



「キュッ!!キュァッ!」



 一頭はそのクラーケンを見て喜ぶと。



「はぐはぐはぐはぐはぐっ!」



 もう一頭は喜ぶことを忘れ、ただひたすらにクラーケンに齧り付いた。



 その姿は異常の一言で、海の主と恐れられたクラーケンが、ものの数秒で事切れていたのだった。

 吸盤の付いた触手はまだ動いており、時折震えるのが、先ほどまで生きていたのを実感させる。



 クラーケンが現れたと思ったらこの始末だ。

 ティグルたちだけでなく、騎士達も同様に、この様子が理解できなかった。

 一同は、ただ茫然と眺めるだけだったのだ。



「な、なんなのだこいつはっ……!」



 すると、ラルフが一番に声を上げる。

 様子が全く理解できず、誰に尋ねるわけでもなかったが、こうして大声を上げたのだ。



 だがティグルは、落ち着いてくると同時にその姿を思い出す。

 この二体は、島に上陸したときに目にしていたじゃないか、と。



「父上ッ……!父上!この二体はイシュタリカの魔物です!あの王太子が飼っている魔物ですッ!」


「こ、この二体が……だと!?」



 島で見た時の印象は、ここまで獰猛な動きをする魔物には見えなかった。

 だが今見せた姿はどうだ、海の主と呼ばれるクラーケンを、二頭とはいえ一撃で餌にしてみせたのだ。

 これを見てしまえば、イシュタリカの艦隊よりも恐ろしく感じてしまうほどだ。



「はぐはぐはぐはぐっ!」


「はぐはぐはぐはぐっ!」



 ハイムの動揺を気にすることなく、双子は黙々と獲物を食べ続ける。

 周囲をハイムの船に囲まれていようとも、その仕草に変わりはなかった。



「ですがご安心ください、父上。なんでも、この二頭は人には手をださないらしいです」


「……ほ、本当だな?」


「はい。その証拠に、我々には手を出してこないじゃありませんか」



 ティグルの言葉を聞くと、ラルフはほっと一息つくと、手すりに近寄り双子を見る。



「ふむ。なかなか悪くない姿をした魔物だ。イシュタリカの者達と違い、我らを助けるのだから頭もいいのだろうな」



 先程とは打って変わって、自信に満ちた表情で語るラルフ。

 双子の本心は知らないがゆえに、こうして双子を褒めたたえた。



「ほらお前ら。褒美をやろう、顔をこちらに向けよ」



 ラルフが声を掛けると、姉のエルがその声に反応し、首を浮上させ顔を近づける。

 そのエルの顔は、巨体と同じく大きく、ラルフを一瞬戸惑わせた。



 だがラルフは部下の手前だ。

 弱弱しい姿を見せまいと考え、傍に置かれた樽を開けると、その中から塩漬けされた魚を手に取る。

 するとエルの方を見て、もう一度声を掛けた。



「褒美だ。受け取れ」



 偉そうに魚を放り投げると、エルは口を開けて受け取った。

 有害なものではないと確認してから口を動かし、その味を楽しもうとした。



「……」



 楽しもうとしたのだが、徐々にエルの顔つきが渋いものになっていく。

 すると、我慢ならなくなったのか、それをラルフの身体に吐きつけた。



「キュッ……ペッ!」



 双子は新鮮な海の幸を好む。

 普段から、狩りや餌として渡される魚介類は、全て新鮮なのが当たり前だからだ。

 付け加えるならば、塩漬けされた魚というのは、そうした料理ではあるものの、二人にとっての好みではない。

 そして何よりも、そのしょっぱさが気に入らなかったのだ。



「なっ……なななっ……!」



 クラーケンの残骸と、塩漬けされた魚。

 そしてエルの唾液やらなんやらが入り混じった液体を掛けられ、体中がドロドロになってしまう。



 ラルフは茹でたクラーケンのように、顔を赤く染め上げていく。



 海上で何か起こっているのだろうか。

 そう思って、アルも首から上を浮上させ、エルの横に並ぶ。



 目にしたのは、渋い顔をした姉の姿と、なにやら掛けられた老人の姿。



「……ギャァ?」



 ――何してんだコイツ等。



 一件すると、何があったのか全く理解できなかったアルの表情。

 ただ一つだけ分かったのは、姉が何かを吐いたという事だけ。



 ――何かの遊びかもしれない。



 そう考えて、両者の様子を伺った。



「へ……陛下から離れろおおおおおっ!」



 別の船に居た騎士が、ラルフの危機を感じて矢を放つ。



「ッ……キュ?」



 当然の事だが、ただの弓矢が貫通するはずもなく、エルの鱗には傷一つ付かない。



 つまり痛みも全くないのだが、残念なことに、エルは攻撃されたことはすぐに理解する。

 いつもはまったりとしている彼女も、海の王としての自覚があった。

 自分に命令できるのは家族たちアイン達と考えているのだ。だからこそ、切っ掛けはどうあれ、自分への攻撃は苛立ちを感じる。



「……」



 矢が当たった部分をポン、ポンと触り、確かに矢が当たったという事実を確認する。

 すると天を仰ぎ見て、矢を放った騎士の方を振り返り、大きな咆哮を上げた。



 アァアアアアアアアアアアッ――



 イシュタリカの騎士ならば、その声に聞き覚えがある者もいるだろう。

 特にアインとクリスに、ディルの三人は、その咆哮を特に近くで耳にしていたのだから。



 数年前の海龍騒動。

 その際に発生した海龍と、全く大差ない迫力で叫ぶと、エルは当時の海龍とは違う姿を見せたのだった。



「なっ……なん、だ……これはっ……!」


「う、海の、海の壁だあああああっ!」



 騎士達が慌てふためく中、腰を抜かしたラルフは甲板に倒れる。

 そんな中、エルが見せたのは海の壁。



 ハイムの船団を囲むように、円状に海水の壁が出来上がったのだ。

 押し寄せる様子はなかったものの、それは檻のようにハイムの一行を威圧する。

 その壁も、海上に発生する波同様に、表面がいくつも荒々しい波で覆われていた。



「こ、こんな光景……見たことが無い……」



 大将軍ローガスも、この光景にただ茫然とするばかり。

 口には出せなかったが、こんな状況では、いくらローガスでも何もできなかったのだ。



 これからどうなってしまうのか。

 ラルフ達だけでなく、騎士達も不安に思った矢先の事。

 それまで黙っていたアルが、エルの身体をヒレで叩く。



「ギャウ」


「ッ……キュア!!」



 邪魔するな。

 そう話していそうな姿だったが、アルが指さしたものを見て態度を変えた。



「キュアアアアッ!?」


「ギャウ、ギャウ」



 指さしたものとは、食べかけのクラーケンの姿。

 まだまだ残っているクラーケンは、双子の大好物の一品。

 前回食べたのはセージ子爵の時、それ以降味わえてないのだから、むしろこんなことをしている場合じゃなかった。



「フンッ……キュルン!」



 ――命拾いしたな。



 明らかにそう言ったかのように思わせる態度で、エルは海の壁をただの海面に戻した。

 すると、アルと協力して、海流を使ってクラーケンを運搬していくのだった。

 恐らくこの後は、イシュタリカの艦隊の近くでそれを味わうのだろう。



「助かった、のか……?」


「ど……どうやら、助かったようです」



 ラルフの声に、ティグルが答えた。

 やって来た時とは対照的に、ゆっくりと戻っていく姿を見せるが、ハイムの近くを離れていくのが分かる。



「い、一体何なのだあの魔物は……!」



 腰が抜けて立てないラルフは、横たわったまま甲板を叩く。

 無様な姿を晒してしまっているが、それどころじゃなかったのだ。



「もう……もう、イシュタリカなんて関わりたくもないわっ!くそっ!」



 静かなここら一体の海域に、ラルフの悲しい叫びが響き渡るのだった。




 *




 その日の晩。

 静けさに包まれたハイム王都。

 そしてその王都の川岸で、一人の少女がたった一人で腰かけていた。



「……おや、こんなところに居たのですか」



 声を掛けた男は、彼女の姿を見て嬉しそうな笑みを浮かべた。



「エド。久しぶりね」


「お久しぶりでございます。貴方様も、相変わらずお美しい」


「前に名前は教えたでしょ?今の名前はアノンって言うの。それで呼んでもらえる?」


「おっと、失礼」



 そう答えると、エドは隣に腰かけた。

 エドは大きな革袋を持ってきており、それをアノンの手前に置く。

 革袋が置かれると、中で何かがゴロンと転がる



「お望みのものはこれでしたか?」


「……見たくないから、中身だけ教えてもらえる?」


「この中にあるのは、第二王子と、ローガス殿の御母上。あとは、丁度良さそうな貴族を少しです」



 エドが自信満々に答えると、アノンはそっけなく返事を口にする。



「ふぅん。そう」


「……あまり、お気に召しませんでしたか?」



 そっけない返事を聞くと、エドは初恋の人相手に話すかのように、緊張した様子で問い質す。



「別に。悪くはないけど、その手段を最初にするのって、あまり好みじゃないの」



 アノンの様子を見ると、エドは慌てて言い訳を並び立てた。



「ち、違うのです!どうせなら、貴方様のためにも派手にしたい!そうすることで、貴方様はもっと輝ける……そう思って――」


「アノンって言ったでしょ?聞き分け悪い子って嫌いなの」


「……申し訳ありません。アノン様」


「――はぁ。別にいいわよ、もう」



 面倒くさくなったのか、この話を終えたアノン。

 つまらなそうに頬杖をつくと、川を見ながら語り始めた。



「本当に、武の腕前はいいのよね」


「お、お褒めに預かり光栄で……――」


「そういえば、貴方が前に負けてたのって何時だったかしら?」



 褒められたことに喜ぼうとしたのだが、アノンの言葉でそれは遮られる。

 負けた事、そんなことを言われても喜べるはずが無かった。



「そういえば私が知ってる最後は……。黒騎士の副団長に負けた貴方が、まんまと逃げ帰ってきた時かしらね」


「ははは……なんとも、痛い所を突かれてしまった」



 頬をひくつかせながらも、エドは苦笑いを浮かべるだけで抑えた。



「いいのよ。純粋な戦闘特化の魔物相手だもの。時間稼ぎできただけでも上等だわ」


「……次回は、必ずあの鎧野郎を殺します」


「無理でしょ。彼も私の影響を受けてるわ。だからもう死んでると思う」



 アノンは笑いながら語るが、対照的にエドは歯ぎしりを起こす程、苛立ちを募らせる。

 エドにとっての、忘れたい話。

 それをアノンに語られたことで、アノンに苛立ちを向けられないことが、より一層気分を悪化させた。



「大体ね、今やりあっても勝てるに決まってるでしょ?仮に生きていても、どれぐらい弱体化してると思うの?」


「……アノン様の影響を受けているならば、全盛期の数割程度でしょうか?」


「そうね。そんな相手に勝ってスッキリするなら、貴方の好きにしていいわよ」


「――そうですね、もう忘れることにするべきでしょうか」


 諦めたようにエドが答えた。



「それが正解ね」



 正解と口にすると、アノンが気怠そうに立ち上がる。

 エドはそのアノンを支えようとしたが、アノンに手の甲で払われた。



「ごめんなさい。今の私って許婚が居るの。だから、他の男に体触らせるのもちょっとね」


「……つまり、以前のようにさせてくれないのですか?」



 悲しげな表情を浮かべ、振られたような感覚でアノンを見る。



「えぇ、そう。いい子なのよ?可愛くて、私もつい、今何をしてるのかなって考えちゃうの」


「……嫉妬してしまいますね」


「手を出したら、もう貴方の事は知らないわよ」


「っ……勿論。アノン様が悲しまれるようなことは致しません」


「ちょっかいも駄目よ。いい?」



 アノンに命令を繰り返され、エドは悔しそうな、それでいて屈辱を味わったかのような表情で頷く。



「でも大丈夫だったの?貴族の家なんて、小さな子供もいたでしょう?貴方って子供嫌いじゃなかった?」


「えぇ、嫌いです。ですが耐性はついたんですよ」



 嬉しそうに語ると、アノンはそのことに興味を抱く。



「耐性?子供に対する耐性なんて、どこで身に着けてたのよ」



 するとエドは、興味を抱かれたことが嬉しくて、上機嫌な声でそれに答えた。



「冒険者としてエウロを離れていた時代には、イシュタリカに戻って生活したこともございます。その際に、イストという都市で、二人の子を儲けたことがありまして」


「へぇ……男の子?」


「いえ、どちらも女の子でした。その生活にも飽きが来たのでエウロに戻り、今に至るといった感じですね」


「あらひどい。その子達は連れて来ないの?」



 ひどいと言いながらも、アノンは口に手を当てて微笑む。



「もう、あの役は終わったのです。ですので、別に家族でもなんでもありませんから、好きに生きる事でしょう」


「……ほんと、演じるためには何でも犠牲にするのね」



 どうしてこんな人格に育ったのはアノンも分からない。

 しかしながら、彼はそれでも仕事はしっかりと達成するのだから、それにはアノンも文句が無かった。



「お褒めに預かり光栄です。それで、私はこれからどうすればいいでしょうか?」


「そうね……。しばらくの間、どこかでゆっくりしてていいわ。私の用事があるときはすぐ来てもらうけど」


「えぇ。承知致しました。では今日はこれで……」



 エドは最後にそう呟くと、夜の暗闇に姿を晦(くら)ました。

 手段は気に入らないが、仕事をこなしたことは好ましい。

 アノンは楽しそうに鼻歌を歌う。



「あ、そういえば、昼前にはあの子グリントが帰ってくるのよね。お出迎えしてあげなきゃ」



 今日は良い日だ。

 部下が仕事をしっかりと終えて、明日には許婚が帰ってくる。

 それを思えば、アノンが高揚するのも当然の事だった。



「コンコンって甘えてあげれば、喜んでくれるかしら?」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る