十章 ―何色が好きですか?―
愛してくれますか?
春を過ぎて、初夏に差しかかったハイムでのある日の夜のことだった。
ハイム王都にあるラウンドハート邸に、グリントの許婚が足を運んでいたのである。
「お忙しいというのに、私との時間を作ってくださって……本当にありがとうございます」
憂いを帯びた表情で語られてしまうと、グリントは狼狽えるように否定を繰り返す。
「ち……違う!俺がアノンと共に居たかっただけだ!そんな無駄な気遣いはいらないからな!」
ベッドの端に腰かけたグリントが、慌てた様子で声を上げる。
「ふふ。私は幸せ者ですね」
すると、喜んでくれるアノンの姿。
グリントはそれだけで十分だった。
「……だが、悪い。朝はすぐにお別れだな」
「そう……ですね。わかっております。なにせ、大切なお仕事ですもの」
翌朝のグリントは、ティグルが認(したた)めた書状を、エウロに届けなければならない。
その後、その手紙はイシュタリカに届くことだろう。
「あぁそうだ。会談前の、イシュタリカとの最後のやり取りだからな」
面倒くさそうに語るグリントを見て、アノンが続けて尋ねた。
「やはり、アウグスト家の件も関係しておりますか?」
「む……。あぁ。大きな声では言えないが、エレナ殿の件は、やはり影響が大きいな」
「まるで人が変わったかのように、穏健に事を進めようとしたとか……」
グリントの様子を窺うように、慎重に言葉を続ける。
「さすがはアノンだ。よく知っているな」
グリントはそう言うと、ベッドに入りアノンの隣に行く。
「あれでは、殿下も気を悪くするに決まってるというのに……」
「……エレナ様のお言葉であれば、他の者達にも動揺が出て来たのでは?」
「痛い所を突くじゃないか、アノンは」
「も、申し訳ありません……」
グリントは謝るアノンを抱き寄せて、大丈夫だと口を開いた。
「別にいいんだ。事実だからな。……これは他でもない、エレナ殿が口にしたことが問題なんだ」
イシュタリカから戻ったエレナ。
彼女の行動はイシュタリカにバレてしまい、帰りはわざわざイシュタリカの船での送迎だ。
更に、軍港などの施設を見せつけられて帰ってきたのだ。
ここまでならよかったのだが、エレナはこれまで以上に慎重な姿勢となる。
それどころか、ハイムから低姿勢になるべき……などと口にする程だったのだ。
「そのお陰もあってか、エレナ殿に振られる仕事は激減。その分は俺に来たという事だな」
「……そして、私との時間も減る。ですか?」
不貞腐れるアノンを見て、苦笑いを浮かべるグリント。
「……もうすぐ落ち着くさ。今回の会談が終われば、しばらくはゆっくりできるはずだ」
「そうなることをお祈りいたしますね」
「あぁ、頼む。全く……本当に面倒な国だ」
気怠そうなグリントは、イシュタリカの事を考えると気分が悪い。
兄のことだけでなく、前回の醜態を思い出すからだ。
「とりあえず、あんな国の話はもうやめよう。……せっかくだ、エウロからも何か土産を買ってくる。何か欲しい物はないか?」
表情を一変させて、笑顔をアノンに向ける
「お土産……ですか?」
「あぁ。何か気になる物があるなら買ってくるぞ」
「——でしたら、一つ伝言を頼んでもよろしいでしょうか?」
「……ん?誰にだ?」
エウロに居る者に伝言と聞いて、グリントは不思議そうにアノンを見つめる。
「昔からの知り合いがいるんです。私の家が、何度か依頼をしたことがある方でして、久しぶりに連絡を取ろうかと……」
「なんだ、そういうことか。それなら任せておけ」
「まぁ、ありがとうございます。グリント様」
嬉しそうにするアノンを見て、グリントはそれだけで満足そうにしていた。
「それで?なんという者に伝言をしてくればいいのだ?」
「……それはですね、グリント様も良く知っている方ですよ」
「俺も知ってる人……?」
額に手を当てて考えるとグリントを見て、アノンは小さく微笑む。
「さぁ、誰の事でしょう?」
一体誰の事が気になってしょうがないグリントは、アノンの悪戯っ子のような笑みを見て、更に深く考える。だがそれでも、誰のことを言ってるのか分からない。
「誰の事かさっぱり分からないな」
「——……では、もう一度愛していただいた後に、お教え致しますね」
アノンはこう口にすると、グリントに向かって、しな垂れるように身体を許すのだった。
*
グリントがエウロに出発した朝。
港町ラウンドハートには、多くの船が押し寄せていた。
この中にはハイムの船だけでなく、貿易都市バードランド所有の船や、冒険者たちの乗る船もある。
それらの多くは、ハイムの船の護衛として雇われたのだった。
「殿下。状況は如何ですかな?」
「……おぉ!ローガスではないか!」
港で様子を見ていたティグルに、ローガスが近寄ってくる。
「殿下に足を運んでいただき、申し訳ない気持ちが募るばかりです」
「そう言うな。これは私が望んだことだ、気にすることではない」
機嫌よく笑うティグルが、ローガスの肩を叩く。
「……海鳥の鳴き声が心地いいですな」
「あぁ。今はこの声に癒されておくとしよう。間も無く始まる、イシュタリカとの会談に向けてな」
この港からは見えないが、地平線の彼方には、イシュタリカとの会談に使われる島があるはずだ。
その方向をじっと見つめるティグル。
「ようやく一歩進むのだ。本当に、長い道のりだったな……」
腰に手を当て、海風を感じるティグルは、これまでの長い調査を思い返す。
「エレナの件は残念だった。臆病風に吹かれたのかもしれんが、今はエレナに仕事を任せるわけにもいかない」
「……はっ」
「私としても、信じたい気持ちはあるのだ。だがな、ここまで来て引き下がれる訳もない」
愚痴を口にするかのように、ティグルはローガスに語り掛ける。
だがその言葉の中には、ハイムに対する思いは感じられなかった。
ローガスは感じ取った。
もはや意地や、自らの恋心を優先しているのではないか、と。
「……えぇ、そうですな」
だがローガスは、それを指摘するつもりはない。
ハイムの大将軍である自分が、王族に異を唱えることは合ってはならない。
今までもそうしてきたのだから、これからもそうするつもりだった。
「時にローガス。聞くところによると、お前の息子と妻も来ると思うが……」
「元、をつけ忘れておりますな」
「まぁ、お前の言う通りだ。だがそれでも、オリビアは体を重ねた女であり、そしてあの男は、その結果生まれた子だ」
「——……ですが」
「すまん。忘れてくれ、意地の悪い質問をした」
ティグルの言葉を聞き、ローガスは口を開くのをやめた。
如何(いかん)ともし難(しがた)い、郷愁のような、怒りのような気持ちに襲われたからだ。
「グリントはもう行ったか?」
「はっ。朝起きてすぐに、エウロへと馬を走らせて行きました」
「無理をさせてしまい、申し訳ないな」
「……いえ。グリントも本望でありましょう」
最終確認の意思を込めた手紙。
それを、エウロ経由でイシュタリカに送るのだ。
その手紙は、会談前の最後のやり取りとなるだろう。
「アノンとも仲良くしているようで、私も嬉しく思う。我らが聖騎士も、そのお陰か幸せにしてくれてるようだからな」
二人の仲睦まじさは評判だった。
第二夫人の希望は殺到していたものの、グリントは頑なにそれを断っていたのだから。
「そういえば、そのアノン嬢から何か頼まれごとをしたようですな」
「む?エウロに行くのと関係があるのか?」
「えぇ。なんでも、エド殿に伝言を頼まれたとか……」
ローガスの言葉を聞いて、ティグルは興味を抱く。
「ブルーノ家が、エドと繋がりがあったと?」
「なんでも、エド殿が冒険者だった頃、依頼を頼んだことがあるらしく……」
「ふむ。なら納得だ。それで?どんな伝言だったのだ?」
納得したティグルの返事に、ローガスはその伝言を思い出す。
「……確か。『新しい舞台の支度をしましょう』と、伝えてくれと頼まれたそうです」
「な、なんだそれは?劇でも共にするのか?」
「実は私も良く分かっておりません。ですが、殿下のお考えの事が近いのではないかと」
まぁいいか、と口にして、あまり気にするつもりがないティグル。
「なんでもいいが、今は我らが聖騎士の帰還を待ち望むとでもするか」
「……えぇ、そうですな」
こうしている内にも、徐々に増えてくる船の数。
ローガスも、港町ラウンドハートが、ここまで賑わうのは初めて見た。
「随分と、大所帯となりそうで」
「あぁ。冒険者も多く雇ったからな。これだから、海路は金がかさんで困る」
「騎士も多く向かいますからな。……王族からは、陛下にティグル殿下。それに、第一王子殿下でしたか?」
「そうだ。有力な貴族の名を出せば、ラウンドハート家に、ブルーノ家の数人……それに、ランス家。最後に、アウグスト家からはエレナを連れて行く」
有力な人物が多く出席する会談となる。
それを見れば、ハイムの力の入れようも分かるといったものだ。
「我らが主力が勢ぞろいですな」
「うむ。さすがのイシュタリカ相手といえども、引けを取ることは無いだろう」
ローガスも頷いた。
これほどまでの人材をそろえたのだから、イシュタリカにも対抗できる。
それどころか、あわよくば、有利に会談を勧められるかもしれない、と。
「最後にお聞きしたい。殿下は、もしクローネ嬢たちの情報を得られたら……」
「決まった事だ。どんな対価を払ってでも、クローネを連れ帰る!」
——……想像通りの答えだった。
国交断絶を行っている今、やり取りをするにも第三国のエウロを通しているのだ。
少ない機会をモノにしたい、そのティグルの気持ちが伝わってくる。
——グラーフ殿の名は出さないのだな。
と、ローガスは心の中で苦笑してしまった。
「父上も、クローネの事は太鼓判を押していたからな」
「ほう?その件は、私は聞いた事がありませんでしたが……どのようにですか?」
ローガスの返事を聞き、ティグルは気分を良くして口を開く。
「あぁ!なんでも、『紅狐という"素晴らしい方々"が、二人の仲を祝福してくれるだろう!』……と、近ごろは、今まで以上に応援してくださるのだ」
「ほう……。守り神の祝福を期待できるなら、それ以上の事はありませんな」
ティグルの嬉しそうな言葉を耳にして、ローガスも笑みを浮かべた。
「そうなれば、会談は本当に正念場ですな」
「あぁ!だから頼むぞ。ローガス!」
*
グリントがエウロに向かってから三日後。
予定通り、グリントがハイムに帰還した。
道中大きな問題もなく、順調に帰ってこられたことにグリントは喜ぶ。
「殿下。ただいま戻りました」
帰国早々、一番にやってきたのはティグルの部屋。
到着したのは夜遅くながらも、ティグルはグリントの帰還を待っていた。
「おぉっ……!戻ったか、グリント!」
帰ってきたグリントに近寄ると、ティグルは強くグリントを抱き寄せる。
「で、殿下っ!?」
「はっはっは!気にするな!大儀だったな、グリント!」
一頻(ひとしき)り喜びを表現すると、グリントの背中を叩いて席に座る。
するとグリントを手招きしたため、グリントは正面の席に腰かけた。
「それで、どうだった?」
「はっ。間違いなく、イシュタリカの者へと手渡して参りました。ですが、相変わらず態度の悪いというか……どうにも、礼儀がなっておりませんでしたね」
「……そうか。イシュタリカのそれは今更だ。私も気にしていないが、いい気分となる事ではないな」
「はい。なので、会談で我々の存在感を見せつけねばなりませんね」
それを聞いたティグルは、深く頷く。
「グリントの言う通りだ。……しかし、もう数日後にはイシュタリカとの会談に向かうのだな」
しみじみと口にするティグル。
「そうですね。長かったように思えますが、やっとです」
イシュタリカからの返事を受け取ってから、早数年が経った。
国家間のやり取りは時間が掛かるが、更に別の大陸の国が相手であり、そして国交は断絶状態。
そうなれば、ここまで時間が掛かるのも諦めがつく。
「あぁ。……一応伝えておこう。予定に変更はない、我々ハイムは予定通り、用意された島に向かうこととなる」
「それは何よりです」
「うむ。冒険者を雇うのも、船を用意するのも痛い出費だ。しかし、それが必要な事態なことは事実。確かな結果を持ち帰りたいものだな」
グリントは深く頷く。
多くの税も投入されてるのだから、結果が無しというのは避けたいところだ。
「……ところで、なにやらエドに伝言をしてきたとか?」
「え、えぇ。アノンが親交があるらしく、一言ですが、伝えて参りました」
「それで。エドはなんと言っていたのだ?」
あまり気にしていたつもりはないのだが、エドはローガスを倒す程の男。
そんな彼が、どんな返答をしたのか気になったのだ。
「『役作り』をして参ります。とのことでしたが、どうにも意味が分からなくてですね……」
「……あぁ、それは私も分からないな。だがまぁ、劇でも見に行くのだろうさ」
「えぇ。私もそう思います」
グリントが同意したのをみて、ティグルは話題を変える。
「どうだ、グリント。私たちも色々と落ち着いたら、バードランドにでも行って、休暇を取るというのは」
バードランドには、贅を凝らした宿が多く存在する。
そこで余暇を過ごすことは、貴族にとっての一種のステータスだ。
「それは素晴らしいかと。では、バードランドに行くのを楽しみに待っております」
ティグルの言葉を聞いて、グリントは笑みを浮かべる。
こうして気を使ってくれるのだから、グリントにとってはいい王子だった。
それから少しの間、ティグルの部屋で談笑を楽しんだ二人。
グリントは途中、ローガスにも報告しなければならない為、ティグルの部屋を立ち去った。
一人残ったティグルだったが、グリントが立ち去ってからも、会談のことを思って、気分を高揚させるのだった。
*
グリントがハイムに戻ってから数日。
ついに、イシュタリカとの会談に向けて、出発する日がやってきた。
港町ラウンドハートに並ぶ多くの船を見ようと、ハイムの民が押し寄せていた。
それをみてグリントは、隣に立つエレナに声を掛けた。
「これまた。すごい人だかりですね……エレナ殿」
「……そうですね」
近ごろは、仕事を与えられなくなったエレナ。
だがそれでも、この会談には連れて行く必要がある。
エレナも心の中では、自分が行かなければならないと考えていたため、自分も付いていけることに安堵していた。
「……さすがにこれ程の賑わいは、イシュタリカでは見られなかったのでは?」
自信ありげに語るグリントだが、エレナの表情は対照的に暗い。
「え、えぇ。今日の賑わいは素晴らしいと思いますわ」
本心では、比べ物にならなかった……そう口にしたかったのだが、ティグルの自分への対応を思い出す。
グリントまで気分を悪くしてしまっては、土壇場で置いていかれるのではないかと、それを危惧したのだ。
「思うところがあるかもしれません。ですが、我々にはエレナ殿のお力が必要です」
グリントは分かっていた。
この会談には、エレナの力が必要不可欠だという事を。
「わかってます。私の全力で、会談に臨むつもりですから」
——いざとなったら、自分が止める必要がある。
エレナはその覚悟をして、この会談に向かうのだ。
そうして気持ちを強く持ったところで、一人の女性が近づいてきた。
「……あら。どうやらお客様のようですので、私は一足先に船に向かいますね」
すると、その女性に気が付いたエレナが、足早にその場と立ち去り、船に向かう。
どうしたのだろう、とグリントが不思議に思ったが、やってきた女性を見て理由が分かった。
「グリント様。お見送りに参りました」
「っアノン!来てくれたのか!」
一目も気にせず、やってきたアノンを抱き寄せるグリント。
そうされたアノンも、恥ずかしがる様子を見せず、ただ嬉しそうにするばかり。
「えぇ、勿論です。なにせグリント様がご出立なされるのですから」
人混みに疲れていたグリントも、アノンの言葉に癒しを感じる。
「……悪いな。あまり二人の時間を取れなくて」
「本当です。……まさか、私の事をお嫌いにでもなってしまいましたか?」
「馬鹿を言うな!今まで抱いてきた気持ちに変わりはない!」
正面を見てこう口走ったグリントを見て、アノンは驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になって口を開く。
「……私は幸せ者ですね。そう言ってもらえて、嬉しいです」
アノンが安心した様子だったので、グリントも同じく安堵する。
「これから少しの間、ハイムを離れる。でも、アノンから気持ちが離れるわけじゃない」
「はい。わかりました。……私は、グリント様を信じておりますから」
「ああ!大船に乗った気分で待っていてくれ!」
「あら可笑しい。これから大船に乗るのは、グリント様じゃありませんか」
くすくすと、笑みを零しながら語るアノン。
グリントはそれを聞いて、『その通りだ』と笑い声をあげた。
それから少しの時間が経った頃、ハイムの一行は会談に臨むため、港を出航していったのだった。
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