入浴と大樹。

 オリビアが言うように、この宿の風呂は絶景の様子。

 少しばかり時間が遅くなったが、それでも景色は美しい。

 徐々に消えていく茜色を眺めながら、アインは心の中でとある人物を思い浮かべる。



『ニャハハー!今日も毛並みが……ゲッホ!ウェッホッ……!け、毛玉が……毛玉が喉に絡むのニャ……!』



 いつもの事ながら、困った時のカティマ頼み。

 先日、彼女が毛玉を喉に詰まらせていた姿を思い出す。

 アインは指を指して笑っていただけだが、こんな時に役に立つのだから、もっと毛玉を詰まらせてほしいものだ。



「いや、むしろ毛玉を飲み込ませよう。どう転んでも、ぱっと見は面白いはず」


「アイン?毛玉がどうしたの?」


「お母様……いえ、こないだカティマさんが、毛玉を詰まらせてたのを思い出し……て……」



 水着姿とはいっても、それがオリビアなら話は別だ。



 そのオリビアが、とうとう浴室へとやってきた。

 咄嗟の事で、アインはオリビアへと視線を向けた。すると目に映るのは、眼福ながらも今ばかりは目に毒な、オリビアの水着姿。



 アインが産まれた時から、彼女の姿は全くといっていい程変わっていない。それは恐らく、ドライアドという種族が関係しているのだろう。

 ……面積だけならば、下着とそう変わらない姿に、アインはもう一度カティマの事を思い出す。



「大丈夫。俺ならいける……頼む、カティマさん」



 彫刻のように固まった笑顔を浮かべながらも、頭の中では駄猫(カティマ)を自由に振舞わせる。

 そうして、下半身に血液が向かうのをなんとかして阻止していた。



「ふふ……どうしたんですか、一人で何か呟いちゃって」



 アインが考えていた常識ならば、肉親にこうした感情を抱くのはおかしい。

 だが自分の産まれ方や、ほとんど覚えていない前世の件。それらを総合して考えてみると、これは自分の精神的な欠陥じゃない……そう思うことができなくもない。



「い、いえ。水着が似合っていますね、と言ってたんです!」



 実際のところ、似合いすぎて困っていたので嘘じゃない。



「あら、ありがとうアイン。さてと……それじゃ、隣いいですか?」


「……勿論です」



 オリビアが来ると聞いて、アインはもう一度外の景色に目を向ける。



 ——うん。穏やかな海だ。



 今日のマグナは、一日中穏やかな海模様。

 対照的に、アインの精神状況は穏やかではないのだが……。



 そうこうしている間に、オリビアが湯船に片足を入れる。

 アインの視界の端の方で、その艶めかしい脚が姿を見せた。



「……いいお湯ですね」



 続けてゆっくりと、オリビアは身体を湯船に潜らせる。

 自分だけこうして慌ててるのかと思うと、若干の悔しさすら覚えてしまう。



「やっぱり、さっきの方がいい景色でしたか?」


「夕焼けを見るなら、さっきの方が綺麗でいたね。でも今の方が、私は好きですよ」


「あれ?どちらかというと夜景の方が良かったんですか?」



 さっきは夕焼けをべた褒めしていたので、アインとしても当てが外れたみたいに思えて、きょとんとした顔を浮かべてしまう。



「ううん、違うの。だって今は、久しぶりにアインとお風呂に入れてるんですもの。だから私は、今の方が好きですよ」



 ——俺もお母様の方が好きです!



 おっと、幼いころのように、ついお母様愛を表に出してしまった。

 久しぶりに直球に考えてしまったので、照れ隠しに海をじっと見つめる。



「少し、照れますね」


「ふふ……可愛い。やっぱりアインは、アインだものね」



 そうしてオリビアが近づき、アインの頭を優しく撫でる。



「……お母様には勝てないですね」


「ふふ……いい子いい子」



 照れくさい部分があるのは否定できないが、それでも黙って撫でられるアイン。

 こうしてもらえると、心の中が落ち着いてくるのを感じる。



「一緒に入浴した事がマーサさんにバレたら、何か言われないでしょうか?」



 バレる要素はないが、それでもどうなるかは気になってしまう。



「小言は言われるかもしれないわ。でも別に気にしなくていいと思うの。何かうるさく文句いわれたら、あの子の黒歴史でも盾にして静かにさせますね。……だからアインは、何も心配しなくていいのよ」



 ——なにそれ、凄い気になる。



 マーサの黒歴史って一体なんだろう……。

 是非とも聞きたい気持ちでいっぱいだが、聞いたらまずいような気もする。



「お母様相手なら、マーサさんも形無しですね」


「まぁ、アインったらひどいのね」



 始めはもう少し緊張するかと思ったが、意外とリラックスした時間になって安堵する。

 こうなると分かっていたなら、最初からオリビアに『うん』と返事をしておけばよかった、そう後悔した。



「そういえばアイン。さっきマーサから聞いたのだけど、1つだけ予定が増えちゃったの」


「予定ですか?急ですね」



 浴槽の縁(ふち)に両肘を乗せて寛(くつろ)ぐオリビア。片側の頬を下にしながら、アインに向かってそう告げた。



「えぇ、そうなの。なんでも……記念植樹?をしたいらしいの」


「記念植樹っていえば、俺たちが、何か苗を植えるってことでしょうか?


「そうみたいですね。アインと私がマグナに来た記念、っていう名目だと聞きましたよ」



 急な話ではあるが、特別忙しそうな内容じゃないのでいいだろう。

 そして考えてみると、記念植樹なんてやったことがないので、案外悪い気がしない。



「わかりました。予定としても大丈夫そうなので、俺も構いませんよ」


「はい、わかりました。……でも、もしクローネさんが居たら、この話は断ってたかもしれないわね」



 アインとオリビアは二人して、軽く苦笑いを浮かべる。

 もしかするとクローネなら、こうした急な用事だと難色を示すかもしれない。



「あー……そうですね。急な話だと、確かにクローネも微妙な反応しそう」



 王都で療養中のクローネとクリスの事を思い出し、どうしているだろうかと気になった。



「ちなみに、マーサに聞いた話だと、クリスとクローネさんの状態は良好だそうですよ。……心配になっちゃったのよね?」


「さ、さすがお母様。……ですが、それなら安心です」



 アインの表情を見て、アインが何を考えてるのかを察したオリビア。

 こうしたことに関しては、オリビアに勝る人物なんて存在しない。



「さてと。アイン?久しぶりに頭を洗ってあげますね」



 水を滴らせて立ち上がり、アインの手を引くオリビア。

 真正面にオリビアの肢体が浮かび、アインは咄嗟の事で目を離せなくなった。



「え、あ、ちょ……お母様?」



 ゆっくりと歩き始めたので、アインもそれに倣って歩き始める。そしてすぐに椅子に座らされ、オリビアがアインの背後に回る。



「……もう、駄目でしょアイン。がしがしっ!て強く洗ったら、こうして頭皮が赤くなっちゃうんですよ?」



 まさかのダメ出しを受けて、アインの精神状況が落ち着きに向かう。



「いつも同じように洗ってたんですが、赤くなってますか?」


「えぇ、赤くなっちゃってるわ。……洗い方も教えてあげますから、ちゃんと優しく洗ってあげてね?」


「はい。面目ないです……」



 入浴を終えると、前と比べて長い髪を乾かす時間が必要だ。

 そのためアインからすれば、早く洗浄を終えて乾かしたい。そうしてバランスをとっていたため、依然と比べれば力を入れて洗うことが多い。



 ——ふにゅ。



「——!?」



 シャンプーを始めたオリビアは、時折アインに体を近づける。



「お母様?その、身体近くないでしょうか」


「……?だって頭を洗ってるんだもの、近くて当たり前ですよ?」



 当然のことのように口にするオリビアへは、アインの苦悩は届かず……。



「こうやって、優しく丁寧に洗ってあげるの。……いい?」



 熱心な態度のオリビアは、時折耳元でささやきながら、アインに指導を続けるのだった。



 その後アインは、結局、駄猫戦法でこの場を乗り切る。

 刺激的な入浴を終えたアインは、それからすぐにベッドに倒れ、一日の疲れを癒すことに努めた。




 *




 翌朝。

 アインはオリビアとの会話通りに、記念植樹をするために宿を出る。



 昨晩の事が嘘のように、朝の目覚めはあっさりとした感覚だった。

 天高く上り続ける陽の光が差し込み、アインは眩しそうに目を覚ます。



 小さく声を漏らしながら背伸びをして、枕元に置いた水を一気に飲み干す。

 着替えてからリビングに向かうと、先に起きていたオリビアとマーサが待っていたので、一緒に朝食をとった。



 それからは少し休憩をして、ディルも連れて、記念植樹の会場に向かって来たのだった。



「んー……いい天気ね、アイン」


「雲一つないですからね」



 空は快晴。

 気温も海沿いの風が涼しくて、ただ黙っているだけでも心地いい。



「ディル護衛官。近衛騎士、異常ありません」


「同じく。マグナ警備隊の配置にも問題ありません」



 いつもながら厳重な警備だと思うが、今日も多くの騎士が、ディルに報告に来ていた。

 ディルは報告を受けるため、アイン達の側から少し離れている。



「あぁ、承知した。では引き続き任務に移ってくれ」


「はっ!」


「畏まりました!」



 命令するのも手慣れたもので、ディルはスムーズに指示を出す。



「マーサさん。ディルも、なんか貫禄でてきましたね」


「……それぐらい、持っていただかなくては困ります。なにせアイン様の護衛をしているのですから」



 そう口にするものの、マーサの口角が上向いているのに気が付く。

 気が付いたアインとオリビアは、顔を合わせて小さく微笑んだ。



「それに、それを言うならアイン様ですよ」


「ん?俺?」


「えぇ、貴方様です。……アイン様は本当にご立派になられました。城の者達も、アイン様の治世も心待ちにしている者ばかりです」



 急に話題が変わり、その方向がアインに向かった。



「そういってもらえるのは嬉しいけど、お爺様がいるのに、そんなこと言ったら怒られちゃうよ?」



 現・国王がいるというのに、王太子に期待をする。

 聞きようによっては、不敬罪に一直線だ。



「大丈夫よ、アイン。そのお父様だって、アインの成長を喜んでるもの。それにマーサは、アインの治世"も"って言ったでしょう?お父様の治世と同様に、期待してるってことですよ」


「……お爺様が喜んでるというのは、正直初耳なんですが」


「陛下は、あまり面と向かって褒める方ではございませんので……」



 困ったように笑みを浮かべるマーサ。



「それに、私のアインですもの。立派になって当然よ、マーサ」



 アインを後ろから抱きしめるオリビアを見て、マーサはもう一度苦笑いを浮かべた。



「はいはい。わかりましたから、オリビア様。ですから、あまり公衆の面前でそのような事は——」



 最近のオリビアは、アインに対してのスキンシップが激しいように思える。だがマーサとしては、それを止める権利がなければ、止めても止まらないのは分かっている事。

 そのため、小言を言うあたりで止めていた。



「はーい。わかってます」



 するとオリビアは、名残惜しそうにアインの背中から離れていく。



「お待たせいたしました。……っと、なにか賑やかだったようですが。どうかなさいましたか?」



 爽やかな表情を浮かべて、ディルがアインの下へと戻ってくる。



「……ディルが貫禄出てきたなって話だよ」



 自分の事は口に出さず、ディルの事だけを口にする。



「そ、それは光栄です。ですが、どうして急にそんな話を……」



 ディルはアインの言葉を聞いて、きょとん、とした顔を浮かべた。

 一方オリビアとマーサは、自分の事を口にしないアインを見て、くすくすと笑みを零すのだった。




 *




 その後。ちょっとしたセレモニーが催され、アインは少しばかりの演説を行った。

 アインの言葉が終わると、多くの拍手が送られ、その後は植樹のために人々が散らばっていく。



 記念植樹は、マグナにおける発言権……それが高い者たちが招待された。

 当然のように貴族達もいたのだが、王太子や第二王女を前にして、直接口を聞けるような者は居ない。



 近衛騎士達ならば、任務上必要な事のため会話をする機会もあるが、普通ならば、そう簡単に許されることじゃない。



「俺は軽すぎることもあったけど……っと」



 アインに関して言えば、イシュタリカの民と距離が近すぎる……そう思うこともあるが、アインに話しかけるのと、アインから話しかけられるのは意味が違う。



「そういえばディル。結構植えるんだね」



 アインは、参加者たちに目を向ける。皆が麻袋にしまわれた苗を手に持って、掘られた穴に苗を植えている。



「そうみたいですね。名目としては、マグナの英雄と、その聖母様が来た記念……と聞きましたので、やはり規模は大きめに設定したのではないかと」



 英雄と言われれば、背筋が少しばかりこそばゆい。

 だが、オリビアが聖母と呼ばれることに関しては、諸手を挙げて同意した。


「お母様が聖母ってのは当然だけど。俺が英雄っていわれるのは、やっぱりまだ慣れないね」


「ですが、アイン様が英雄なのは、ここマグナだけでなく王都でも同じことです」


「うん。まぁ派手な事はやったけどね……」



 マグナに来ると、海龍討伐のためにやってきたことを思い出す。



「えぇ……。王家専用列車を動かしたり、船で突進したり……しまいには、海龍の額に引っ付いたぐらいですから」



 魔石を吸い殺す。なんていう新しい倒し方を確立し、アインは巨大な海龍を討伐した。

 結局はエルダーリッチの短剣に、大地の紅玉。その二つが無ければ、海龍と共に海の藻屑だったわけだが。



「思えば、結構危ないことしてたよね?」


「いえ。結構どころじゃないですが」



 真顔でそんなことを言われ、ばつの悪い表情を浮かべるアイン。



「……」


「……」



 二人してじっと見つめ合って、二人の間に静寂が流れていく。



「……次は、もっとうまくやるよ」


「お願いですから。次は無いようにしてください……」



 ディルの、心の奥底からの願いだった。



「アイン様?そろそろご準備を」



 ——二人で何してるんだろうか。



 様子を窺っていたマーサが、頃合いを見計らって声を掛ける。



「準備?」


「はい。他の招待客の方達は、ほとんど植樹を終えております。なので最後は、アイン様とオリビア様ですので」



 つまりは大トリをするという事。



 マーサの言葉を聞いたアインは、オリビアの隣に向かった。



「そろそろですか?」


「えぇ、そうですね。穴はもう用意されてるから、私たちで苗を置いて、土を掛けてあげるだけよ」



 アイン達の植える苗は、他の参加者と比べて若干大きめ。

 それに合わせて、穴の大きさも広く深く掘られている。



 オリビアを会話を始めると、遠巻きにアイン達を眺める者達が増える。

 どうやら、本当にアイン達が最後となった様子。



「失礼致します。ディル護衛官殿。……是非、王太子殿下に第二王女殿下のお二人に、最後の植樹をお願いしたいのですが」



 開催した者の一人がやってきて、ディルに対してそう告げる。



「承知しました。ではそのようにお伝えいたします」



 すぐそばにいるのだから、直接話せば早いのに。

 アインはそう思ったが、こればかりはどうしようもない。



「アイン様。オリビア様。……それでは早速、最後の植樹を致しましょう」



 ディルは振り返って数歩進み、アインとオリビアに向かってこう語る。



「うん。わかった」



 アインは両手に苗を持ち、オリビアと共に穴の前に進む。



「ありがとう。アイン」


「お母様に持たせるわけにはいきませんよ」



 二人の会話を聞いて、アインにだって持たせるべきじゃない……ディルは、ため息をついた。



「では、アイン様。まずは穴の上に苗木を置いていただけますか?」



 マーサの言葉を聞いて、アインは片方の苗を地面に置き、もう一方を穴の方に持っていく。



「よいしょ……っと。これでいいかな?」



 斜めにならないように、丁寧に真っすぐと配置する。



「はい。それで結構です。……では次に、ディル。土を」


「承知しました」



 鉄製のシャベルを手に持って、ディルが少しずつ土をかぶせていく。

 それを数回に渡って繰り返した後、土が十分な量に達する。



「これぐらいでしょうか?」


「……うん、大丈夫。では最後に、オリビア様に水を掛けていただきますね」



 土の具合を確認し、最後の仕上げとしてオリビアにジョウロを手渡す。

 オリビアだけで植えたとは言えないが、そこは王女ということで、最後の仕上げを担当することになった。



「中のお水は、全部掛けていいの?」


「大丈夫です。ですので、たくさん水を吸わせてあげてくださいね」



 そしてオリビアはジョウロを傾けて、中にたまった水を少しずつ撒いていく。

 渇いた土が水を吸って、徐々に濃い色に変わっていった。すると同時に、土の香りが舞い上がる。



「……いい土みたいですね」


「あら、アインもそう思ったの?」



 若干驚いた表情で、オリビアがアインの方を向く。



「なんとなくですけど、栄養がありそうだなって思いました」


「実は私もなの。もしかすると、ドライアドの血が、それを感じさせてるのかもしれないですね」



 アインだけでなく、側で聞いていたマーサとディルも、その言葉の説得力に納得する。



「なるほど。言われてみれば確かに。それなら俺とお母様なら、土の良さが分かっても不思議じゃないですね」


「……ですが、アイン様。さすがに土は召し上がらないでくださいね?」


「いやいやいや。ディル、それはさすがに……って、その顔ひどくない?」



 何を馬鹿な冗談を。そう思ってディルの顔を見ると、ディルは冗談のような表情ではなかった。

 本気で心配しているような、深刻そうな表情をしていたのだから。



「どうしてもというならば、どうか城に戻ってからお願いしますので……何卒……」


「だからね、ディル?俺も土は食べる気にならないってば……」



 良い土なのはわかるのだが、決して食べる気にはならなかった。

 今までの行いが影響してるのはわかっているので、アインとしても、あまり強く文句を言えない。



「ふふ、楽しそうねアイン。——マーサ、水撒き終わったわよ?」



 アインがディルと話しているうちに、順調に水をまき終えた。

 となれば、次はアインの番だ。



「畏まりました。では続いて、アイン様の分を植樹いたしましょうか」


「ん。りょーかい」



 ディルとのじゃれ合いを一旦終えて、地面に置いた苗木を手に持った。



「さっきと同じ感じでいいんだよね?」


「左様でございます。アイン様が植えた後、ディルが土を被せます。なので最後は、アイン様が水をかけてあげてくださいませ」



 念のために確認を取った後、アインは先ほどと同じく、穴の中に苗木を置いた。



 斜めにならないようにと修正を加え、納得がいった時点で、ディルに声を掛ける。



「ディル。土かけてもらっていい?」


「はい。承知致しました」



 シャベルを手に取って、土を少しずつ被せていく。

 していることは先ほどと同様の事。

 アインとオリビアからしてみれば、栄養のあるいい土。それがディルの手によって、徐々に苗木の根元に掛けられていく。



「……そろそろ、いいですね」



 多めにかけられた土を見て、ディルが手の動きを止める。



「では、アイン様。最後にお水を掛けてあげてください」



 オリビアのとは別のジョウロを手渡され、アインはそれを手に取る。



「……"大きくなれ"よー、と」



 根元を優しく叩き、アインは少しずつ水を撒いていく。



 ——ゴク。



「あれ?ディル、今なにか飲み込んだ?」


「の、飲み込むですか?いえ、別に何も飲み込んでませんが……」



 一瞬だが、何かを喉が通るような……そんな音がアインの耳に聞こえた。

 隣にいたディルは違うと言ったので、アインは気のせいかと思い、水やりを続ける。



 ——ゴク。



「ねぇ、本当に何も飲んでない?音が聞こえるんだけど……」


「失礼ですが、アイン様。実は私も何かを飲み込むような音が聞こえまして……」


「……もしかして下から聞こえてるのか、これ?」



 しゃがんで地面に耳を近づける。すると予想通り、地面からその音が聞こえてきた。

 それからすぐに、地中から土をかき分けるような音が生じ始める。



「……ね、ねぇ。なんか土の中から音が聞こえてきて——」



 どうしたもんかと振り返り、ディルの顔色を窺う。



「っ!?アイン様、お下がりくださいっ!」


「え、ちょ……!」



 突如ディルに手を引かれ、アインは強く引っ張られる。

 その勢いは強く、アインは転がりそうになってしまうが、ディルが寸での所で受け止める。



「どうしたのさ急に……」



 自分を支えてくれたディルを見ると、アインの方を見ずに、苗木の方向を見つめている。

 印象的だったのは、信じられないものをみるような、驚きに染まったディルの表情。



「これは……一体何が起きてっ」



 焦って走り寄ってきたマーサ。

 アインの様子を確認したものの、ディル同様に苗木のことが気になってしょうがない。



「二人して何を驚いて」



 いいだろう。

 そんな表情をするのなら、俺も苗木を見てやる。



 そう考えて、アインは立ち上がって苗木に向かって振り向いた。



「……あれ?苗木はどこ?」



 さっき植えたはずの苗木、その姿が見えなくなった。

 ただしその代わりに、通常のものよりも巨大なリプルの木が、強く存在を主張している。

 青々しい葉の一枚一枚に、太く立派に育った幹。それがアインの瞳に映った。



「その、アイン……?そのリプルの木が、アインの植えた苗木……ですよ」



 近づいてきたオリビアが、心配そうにアインの服の袖を握る。



「……そんな馬鹿な」



 だがアインは、はっとする。

『大きくなれよ』といった言葉と、更に自分の存在だ。

 魔王となってしまったアインは、種族を述べれば、一応ドライアドの血を引いてる。

 その自分が大きくなれよと言ったから、大きな音を上げて水を吸い、一気にここまで成長したのだろうか……と。



 今はまだ結論を出すには早いが、その影響があると確信があった。



「というか。苗木って、リプルの苗木だったんだ。——あらら、立派な果実まで実らせちゃって……」



 呆然とした瞳で見るリプルの大樹は、赤々として瑞々しい果実を宿し、アインの目の前に堂々と根付いていたのだった。


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