『魔法使い』

 クロエは、一瞬輝いた瞳を隠すかのように、左手に持っている帽子を深く被った。


『お前……‼』


 『蜘蛛男』は怒りが滲む声色で言い、立ち上がり、クロエに突っ込んでいった。


 クロエは、『蜘蛛男』が真ん中の右拳を振りかぶった直後に姿勢を低くし、鳩尾に右ストレートを叩き込んだ。


『──がっ⁉』


 『蜘蛛男』が呻いた瞬間、クロエが追撃として放った左拳がその右肩を打った。拳を振り抜き、『蜘蛛男』を文字通り殴り飛ばす。


「────っ!」


 その瞬間、シャロンが動き出した。軽く持ち上げた右足で、力強く、かつ音を立てずにコンクリートの地面を叩く。早口かつ小声で、魔法の詠唱を始める。


「── shamushube-jaコンクリート, dharitri omufan ap地と水よ.」


シャロンは詠唱を続ける。最低でも、この状況を仕切り直すために。


『何を──⁉』


 『蝙蝠女』はシャロンが魔法の詠唱を行っている事に気付き、止めようとしたが、


abi fishone我が願いを rebamyiga vata風のように広めよ, fishonu agni火の如く願うは── amyaefondhi ap思い出せ水を, dhedhunmyibu 沈めよ abi jishe我が敵を!」


 シャロンはそれよりも早く詠唱を終え、同時に、今度はわざと音が聞こえるようにコンクリートを踏み締めた。

 次の瞬間、コンクリートに異変が起きた。

 黒ずくめと『蜘蛛男』、そして『蝙蝠女』の足が、地面に『沈んだ』。


『何っ⁉』


 真っ先に異変に気付いた『蝙蝠女』は、両腕を広げた。腕から足先までにかけてコウモリの皮膜のような膜が張られている。

『蝙蝠女』は腕を前後に振って羽ばたき、飛び立った。コンクリートに沈みつつある『蜘蛛男』を足で掴んで上昇する。


 避難が遅れた黒ずくめ達は、必死の抵抗も空しく地面に埋まっていった。


 シャロンはそれを見て、クロエの元まで一気に駆け抜けた。


「クロエ、大丈夫か⁉」


 心配そうに聞くシャロンに、クロエは優しく笑いかける。


「ああ。ギリギリだったが、どうにか間に合った」

「……やっぱり、魔法使ってるのか……『肉体強化』の」

「……使いたくなかったが、状況が状況だ。仕方がない。それより……」


 クロエはそこで会話を区切って、前方を見据える。

 視線の先には、宙に浮かぶ『蝙蝠女』と、それに掴まる『蜘蛛男』がいた。

 その背後には、首までコンクリートに埋まり、助けを求める黒ずくめがいて、


 突然、黒ずくめが全員爆発した。


「何っ⁉」「なっ⁉」


 爆風から顔を庇いながら、クロエとシャロンが驚愕した。


『…………ああ、期限切れでしたか』


 『蝙蝠女』は平然とした態度で呟くと、


『あの、クモさん。着地するので、降りてください』


『蜘蛛男』に促した。

 『蜘蛛男』が無言で着地し、場所を開けてから、『蝙蝠女』も着地した。


「……期限切れとは、どういう意味だ?」


 クロエは『蝙蝠女』を睨んだ。


『そのままの意味ですよ。彼等──マスカートラクロアは、戦闘不能になったら自爆するように設計されているのですから』

「……何、当たり前のように言ってんだよ、お前……」


 シャロンが怒りを顕わにする。


『ふふっ、だってそうでしょう? もしマスカーの誰かが捕まったら、我々の存在が露呈してしまうんですもの。証拠隠滅、ですよ』


 『蝙蝠女』は、シャロンの反応を見て、嘲笑うようにも、面白がっているようにも聞こえる言い回しをした。


「……ンだと──⁉」

「シャロン、ステイ」


 爆発寸前になったシャロンをクロエが止める。


「クロエ……だって、アイツ……!」

「気持ちは解る。あのオンナ、黒ずくめ……マスカーだったか、その連中を人間と思ってないようだからな……」

「だったら──!」

「だからこそ、冷静に対応するんだ。相手は人間以上の力を持ってる。油断すれば、すぐに死ぬのはこっちだ」

「…………」


 そう言われて、シャロンは少し黙って、


「……解った、解ったよ……怒るのは、連中を殴り飛ばしてから、だな」

「ああ、そうしてくれ。……どこまでも冷静にやろう。生き残るために」


 クロエはそう言って、拳を作り、軽く腰を落とす。

 シャロンは一歩下がり、左手をローブの中、腰の後ろに回す。


『……クモさん、あのキザなお嬢ちゃんをお願いしますね。私はもう片方を殺りますから』


 『蝙蝠女』が、声色を低くして言った。


『へいへい……』


 『蜘蛛男』は嫌そうに返事をして、クロエを睨む。


「背中は任せたぞ、相棒」


 クロエがシャロンに言って、


「そっちも頼むぜ、相棒?」


 シャロンがクロエに言い返した。

 クロエは口元に笑みを浮かべ、


「……分かった」


 そう言って、『蜘蛛男』に向かって走り出した。シャロンもそれに続く。


 クロエは、自分が動くと同時に走ってきた『蜘蛛男』の鳩尾を狙い、右足で前蹴りを繰り出した。

 前蹴りは『蜘蛛男』に両手で受け止められたが、クロエは時計回りに体を捻り、左ハイキックを放った。


『ぐおっ⁉』


 『蜘蛛男』はそれを顔の右側面で受け止め、四メートル程吹き飛んだ。


 クロエは地面に転がったが、すぐに立ち上がり、追撃を行うべく『蜘蛛男』に向かっていく。


クロエが『蜘蛛男』を『蝙蝠女』から引き剥がしたのと同時に、シャロンが行動を開始した。

 ローブの下から左手を出し、黒ずくめ──マスカートラクロアの集団にやったように、何かを放り投げる。

 『蝙蝠女』に向けて投げたのは、四角く平たく、かつ四辺が鋭利な鉄の板だった。


『っ!』


 『蝙蝠女』は、回転しながら徐々に赤熱化していくそれを右にステップを踏んで回避したが、


「甘い」


 シャロンがそう呟いた瞬間、鉄板が『蝙蝠女』目掛けて爆ぜた。高熱を帯びた鉄の破片の幾つかが『蝙蝠女』の左脇腹に突き刺さる。


『ぐっあぁっ⁉』


 『蝙蝠女』が悲鳴を上げ、地面に転がる。


「次」


 シャロンは短く言い、いつの間にか腰の後ろに回していた左手を上投げの要領で振る。

 シャロンが投げた何かは、左脇腹を押さえて悶絶する『蝙蝠女』の顔面に向かっていき、その手前で爆発した。破片が口の中に飛び込み、口の中の皮膚を引き裂き、牙を叩き折る。


『がっ……⁉』


 『蝙蝠女』は困惑と苦悶が混じった呻き声を上げ、地面に顔を向けて何度か咳き込む。

 血と一緒に吐き出されたのは、大小様々な、溶けたガラスと鉄が混じりあった物だった。


「食べられない物のお味はいかがですかぁ? ……なんてな」


 シャロンは、『蝙蝠女』を見下ろして、淡々と言った。


『このガキ……!』


 『蝙蝠女』は、憎しみの籠った視線をシャロンに向けた。




 シャロンが『蝙蝠女』に爆発物を投げ続けている間も、クロエは『蜘蛛男』と格闘戦を繰り広げていた。


 クロエは『蜘蛛男』が振り下ろした上の右腕の内側に入り、その顎を右の掌底でアッパーの要領で打ち上げた。

 『蜘蛛男』はたたらを踏んで下がりかけて踏み止まり、がら空きになったクロエの右脇腹にミドルキックを叩き込む。


 クロエは『蜘蛛男』の蹴りの衝撃で吹き飛び、地面を転がった。立ち上がろうとしながら、追撃を仕掛けにかかる『蜘蛛男』を見る。

 クロエが見たのは、左足で蹴る体勢に入った『蜘蛛男』の姿だった。


「────‼」


 クロエは咄嗟に、飛んできた左足の中程を両手で掴んだ。そのまま両手を足首まで移動させ、


「──はああぁっ‼」


 全身を錐もみ回転させ、気合いと共に『蜘蛛男』の脚を外側に捩じりながら投げた。


『ぐおぉっ⁉』


 『蜘蛛男』は驚愕の声を上げながら、地面に叩き付けられた。


クロエは追撃を行わず、一度距離を取った。二度、三度と深呼吸を繰り返し、ちらりと自分の右腕を見る。


「……微妙に力が出ない……」


クロエは、自分だけにしか聞こえない程の小声で呟いた。


『……ンの、ガキ……!』


 直後、『蜘蛛男』が憎しみの籠った声を放ち、立ち上がった。


 クロエはすぐに構えを取り、攻撃に備える。


『……物真似しかしてねぇくせに、一丁前に構えやがってよぉ……』

「……? どういう──」


 クロエが言葉の意味を聞き出すよりも早く、『蜘蛛男』が走り出した。


 『蜘蛛男』はクロエの眼前に飛び込み、真ん中の腕で左ストレートを放った。

 クロエはそれを体の外側に受け流し、右腕を振った勢いを利用して左回し蹴りを放つ。

 蹴りは『蜘蛛男』の右脇腹に吸い込まれるように命中した。クロエは追撃として『蜘蛛男』の顔面を狙って右フックを放ったが、それは上の腕二本で掴まれる形で受け止められた。


『……お前はいいよなぁ、こうやって、自分を、誰かすらも守れる力があってよぉ!』


 『蜘蛛男』は反撃を行わず、どこか憎しみが籠った口調で話し始めた。


「何の話だ……⁉」

『人間のまま、俺みたいな化け物と対等に戦えてよぉ……今もこうして──』


『蜘蛛男』はそこで会話を区切り、両手に力を込めてクロエの右手を握り潰そうとしたが、


『お前の手を握り潰そうとしてるのに、手の骨が砕けない……!』

「…………」

『お前は……お前は何なんだよ……? お前は──』


 『蜘蛛男』が言い終える前に、クロエは左フックを放った。


「……し……、知るか」


 クロエは言い淀みつつ、そう言い返した。『蜘蛛男』が立ち上がるのを見て、駆け寄りながら右拳を振り上げる。


 次の瞬間、その拳が、黒紫色の炎のような光に包まれた。

 それは一瞬の出来事で、光はすぐに、まるで炎が風に吹き消されるかのように消えた。

 その時には『蜘蛛男』に腕が届く距離だったので、クロエは仕方なくそのまま殴り飛ばした。


「……やっぱり……。力が出ないし、不安定だ……」


 クロエは炎が消えた右手を広げ、それを見ながら悔しげに言った。


 その時、シャロンの苦悶の声が聞こえてきた。

 クロエが声の聞こえてきた方向を見ると、シャロンが地面に横たわっていた。

 シャロンに向かってゆっくりと歩いていく『蝙蝠女』が、肩で呼吸をしながら、憎しみが込められた言葉を放つ。


『ンのクソガキ……』


 そこで一度区切り、口から何かを吐き出す。


『……よくも散々……!』


 吐き出したのは、例の如く爆ぜた鉛が溶けた物だった。


『……チッ……』


 それを見た『蜘蛛男』が舌打ちをして、


『おい、一旦退くぞ!』


 『蝙蝠女』に呼び掛けた。


『はあ? 何故です?』


 『蝙蝠女』が怒鳴り気味に言い返す。


『俺にもお前にも、決め手がない。……ガキにも言えた事だが──』


 『蜘蛛男』がそう言った瞬間、クロエが跳び蹴りを放った。

 クロエの『跳び蹴り』は、余所見をしていた『蜘蛛男』の背面の首の付け根に命中した。

 その一撃で吹き飛んだ『蜘蛛男』が『蝙蝠女』に激突し、巻き込みながら倒れ、数メートル後方に吹き飛んでいく。


「シャロン!」


 その瞬間クロエが走り出し、シャロンに駆け寄る。


「大丈夫か⁉」

「何とか……。オンナの写真とか撮ってたんだが、余裕ぶっこき過ぎてたみたいだ……」


 そう言った直後、青い『イーグルカメラ』がシャロンの手元に飛んできた。


「後にしとけよ……」

「保険だよ……」


 『蜘蛛男』は軽口を言い合う二人を見て、


『今だ逃げるぞ!』


 そう言いながら『蝙蝠女』を脇に抱え、右手を豪邸の屋上に向けて伸ばし、糸を射出した。


「しまっ──!」「あっ──!」


 二人が気付いた瞬間、『蜘蛛男』糸を手繰る要領で屋上まで移動し、そのままどこかへと飛び去って行った。


「……逃げられた……」


 クロエは、呆然とした様子で言った。

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