纏うは疾風、黒い風
人が飛び降りた事と、迷惑な客がクモのような怪人に変身した事。
二つの異常事態が起きた事によって、会場にいた人々はパニックに陥っていた。
飛び降りた人間と、異形の怪人。二つの存在を避けながら、人々は我先にと会場の外に逃げ出していく。
『蜘蛛男』はその状況を見回してから、
『よお、探偵。一足、遅かったなぁ』
ゆっくりと振り返り、クロエを見て言った。
「……『蜘蛛男』」
クロエは『蜘蛛男』を睨み、身構える。
『やれやれ、随分とヤル気なぁ?』
クロエは飄々とした態度を崩さない『蜘蛛男』を睨み続けながら、ゆっくりと近付いていく。
「当たり前だろ……!」
『ああそうかよ!』
『蜘蛛男』はそう言ってステージの方に向き、跳躍した。
「待てっ!」
クロエはそう言いながら、ステージへ駆けていく。
『蜘蛛男』は、舞台袖に避難しようとしたマリアの前に着地した。
『っと! ……この姿にも、大分慣れてきたな』
「あ、あなたは……」
マリアは数歩後退りながら、それだけ呟いた。
『よぉ、マリア。今日歌ったどの曲も、とても良かった。どんな人にも、足を運んで良かったって感想を抱かせると思う。凄くいい歌だったよ』
『蜘蛛男』は歪んだ声で、それでも心から感動していると分かる声色で、マリアに話しかけた。
「…………っ」
『……そんな顔しなくてもいいじゃないか……本心だよ。嘘は吐いていない』
『蜘蛛男』は、表情に恐怖を浮かばせるマリアを見て、悲しげに言った。
「……何で……こんな事を……?」
マリアはそれを聞いてか聞かずか、今までの疑問をぶつける。
「どうしてなんですか⁉ ストーカーだけじゃなくて、そんな……バケモノになるなんて……」
『…………』
「おかしいですよ! 何でこんな事を⁉ 社長だって……殺す必要なかったでしょう⁉」
それを聞いた『蜘蛛男』は、まるで無理矢理絞り出すかのように答えた。
『……君は……知らない方がいい……』
『蜘蛛男』はそう言って、マリアに近付こうとする。
「ひっ……!」
マリアが悲鳴を上げ、ポケットに右手を伸ばしかけた、その時だった。
赤と青、二台の『イーグルカメラ』が飛翔し、『蜘蛛男』に激突した。
赤い方は積極的に攻撃を繰り返し、青い方がフラッシュを焚き、目くらまし代わりにと『蜘蛛男』の写真を撮影する。
「マリアさん、大丈夫ですか⁉」
漸く追いついたクロエが、ステージに上がりながら言った。
「え、ええ……」
「なら良かった。シャロン、彼女を連れて避難を!」
クロエはステージに上がるシャロンを見ていい、一歩前に出る。
「分かった──って、また同じ役割かよ⁉」
「いいから早く!」
「……ああもう! 行きましょうミス・トーマス! 出来る限り早く!」
シャロンはそう言うと、マリアの手を引っ張り、舞台袖に消えていった。『イーグルカメラ』が二台共、その後を追う。
『……お前は、邪魔ばかりするのか……⁉ 俺は思いを、彼女の歌を讃えたいという思いを伝えたいだけだぞ⁉』
「そうだな、私も、彼女の歌への感想は、概ねお前と同じだよ」
『だったら──!』
『蜘蛛男』が言い募ろうとするのを、クロエが遮る。
「けど、お前は人を殺した」
『あれは人間を実験に使ってたんだぞ……? 彼女に手を出すとは限らないだろう⁉』
「そうだな。殺したのは、確かに悪人だったんだろうさ」
『なら──』
「けど、彼女がお前の思い通りじゃない行動をした時、同じ事をしないとは限らないだろう。一度やったんだ、次からは思い切ってしまえば、後は簡単だろ? なんせ実行出来る確信があるんだから」
『…………』
『蜘蛛男』は黙って、
『……かもしれないな……』
そう言いながら俯きかけ、
『……けどよ、ンなの関係ねぇんだよっ‼』
すぐに顔を上げ、クロエに猛然と襲い掛かった。
「くっ⁉」
クロエは一歩引いて、『蜘蛛男』が右腕を三本同時に構えたのを見た。直後に飛んできた三つの拳を左ステップで回避し、『蜘蛛男』の腕の隙間から右脇腹を狙って蹴りを入れた。
たたらを踏んで下がった『蜘蛛男』に、追撃で左前蹴りを叩き込んだ。
ステージの奥に転がっていく『蜘蛛男』を見てから、クロエは、自分の胸の中央を見た。
「覚悟、か……。あるのか……? 今の私に……」
クロエが自分に問いかけた直後、『蜘蛛男』が立ち上がった。
「……いや、いい加減、決めるべきだよな。……あの人なら、そうする」
クロエが言い切った、その直後だった。
クロエの胸の中央に、黒紫色の光が生まれた。その光を中心に、光と同色のガラスの破片のような波紋が生まれる。
クロエは右手で帽子を取り、胸の光を隠した。『蜘蛛男』を真っ直ぐ見据える。
その顔には、左右の目を通るように、二本の浅黒い傷痕の線が出現していた。
クロエは帽子を持つ右手に左手を重ね、何かに祈りを捧げるかのように組んだ。
「……変身!」
クロエは祈るように唱えて、両腕を広げた。
瞬間、クロエを中心に黒い突風が発生し、つむじ風を形成してその身体を覆い隠した。
つむじ風の中で、クロエの全身に金属質の破片が貼りつき、瞬時にその場所と同色になって溶け込む。最後に黒い手袋が追加され、風が収まった。
風の中から現れたクロエの顔に、傷痕はなかった。
クロエは、一瞬だけ、今度は赤く光り輝いた瞳を覆い隠すように、帽子を被り直した。
『ぐっ……何だよ、それ……⁉』
つむじ風に煽られて攻撃を仕掛けられなかった『蜘蛛男』が、クロエに問いかける。
「何だよも何も、一度見ただろう?」
『蜘蛛男』は少し考え、
『まさか、三日前の……!』
「そうだ。これが私の魔法だ」
クロエはそう言って深呼吸を行い、『蜘蛛男』に向かって駆け出した。
クロエは『蜘蛛男』との距離を詰め、右拳を突き出した。
『チッ……!』
『蜘蛛男』はクロエの拳を外側に払って反撃に出ようとしたが、
「──はぁっ!」
それよりも早く、クロエが拳を払われた勢いを利用して右ミドルキックを放った。蹴りが『蜘蛛男』の右半身に突き刺さる。
『ぐあっ⁉』
『蜘蛛男』は呻きながらステージを転がり、
『何……⁉』
蹴りを浴びせられた真ん中の右腕の肘から下が完全に潰れている事に遅れて気付いた。
「……意外と脆いな」
クロエが呟いた。
『……舐めんなっ!』
『蜘蛛男』は啖呵を切り、反撃に出る。それを見て、クロエも身構える。
『蜘蛛男』が左回し蹴りを放つ。
クロエはそれを右足で蹴り飛ばして押し戻し、足を降ろす動作に合わせて左ストレートを打ち込む。
『うおっ⁉』
『蜘蛛男』は慌てて動かせる全ての腕で受け止めたが、
「ふっ!」
クロエは気合いを発して跳び上がり、手刀を『蜘蛛男』の上の左腕の付け根に叩き込んだ。追撃で左足を互いの体の間に捻じ込んで蹴り飛ばし、無理矢理距離を取った。
『ぐ、あ、あぁ……⁉ う、ぐぅ……!』
大きく下がった『蜘蛛男』は上の左腕を抑え、苦しげに呻いた。付け根の関節が砕けたのか、上の左腕から力が抜、ぶら下がった状態になる。
「今だ……!」
クロエはそう呟くと、『蜘蛛男』に向かって走り出した。
握った右の拳が、黒紫色の炎のような光に包まれる。
その光は、今度は吹き消されず、
「──はぁっ!」
クロエは黒紫色の炎のような光の軌跡を描き、右ストレートを『蜘蛛男』の胸の中央に叩き込んだ。
『があぁっ……⁉』
『蜘蛛男』は呻き声を上げて吹き飛び、ステージを滑り、転がって止まった。
『ぐう……クッ、ソがぁ……!』
『蜘蛛男』がよろめきながら立ち上がった、その時だった。
クロエの拳から燃え移った残り火が突然燃え上がり、『蜘蛛男』の全身を駆け回り始めた。
「な、何だ⁉」
『なっ⁉ ぐ⁉ あっ⁉ が、がああああぁぁぁぁぁっ⁉』
炎のような光に文字通り焼かれ、『蜘蛛男』が苦悶の声を上げる。
『蜘蛛男』は十数秒苦しみ続け、
『あっ、ああああ、が、あ……ぐあああ──っ⁉』
突然、その肉体が爆発した。
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