アンタレスホール

 クロエとシャロンがトラクロアの集団との戦闘を終えてから、三日後。


 シガミティクの中央区から少し東に向かった場所。

 そこは、本屋やレコード屋といった、所謂『人生を豊かにする物』や、シャロンのような魔法学者御用達の雑貨屋。果ては商売をしているのかすら怪しい酒場が存在していた。


 そんな文明のごった煮のような場所の一角に、全面を深い赤のレンガで覆った、一件のコンサートホールがあった。

 その名も、『アンタレスホール』。三日前、『蜘蛛男』が歌姫を狙って襲撃すると予告を行った場所だった。


 クロエは『アンタレスホール』の入り口から左に向かった場所にある休憩所にいた。奥にある長椅子に座り、新聞を読んでいた。


 そこに、シャロンが慌ただしく入ってきた。


「悪い、遅れた!」


 シャロンは息が上がったまま言った。

 クロエは新聞を畳み、シャロンを見る。


「シャロン、来たか」

「本当に悪い、中々抜け出す隙がなくて……」

「大丈夫だ、コンサートはまだ始まってない」


 クロエの言葉を聞いて、シャロンは少し安心した様子で、


「そ、そうか。なら……一応大丈夫って事にする」

「その感じにその言い方だと、ホームパーティーだった?」


 クロエは、シャロンの言い分と、その顔に、普段はしていない化粧を薄く施してあるのを見て聞いた。


「そう! まったく勘弁してくれって話だよ。こちとら学者だぜ? 探偵の仕事がないなら研究室に籠っていたいのに、毎回毎回……」


 シャロンは憤慨した様子で言った。


「でも断れるかって言うと……無理なのか」

「あー……まだ無理だな……これがなぁ、『まだ何も出来ない癖』にとか言ってくるんだよ」

「そりゃ随分と失礼だな。私より美味いコーヒー淹れる事あるのに」

「そう言ってくれるの、ありがたいよ、相棒……」


 シャロンがそう言ってから、クロエが立ち上がった。


「じゃあ、行こうか」

「……だな」


 シャロンが先に移動を始めるのを見てから、クロエは新聞をゴミ箱に捨てた。




 コンサートが行われる会場に移動しながら、シャロンがふと思い出したかのように言った。


「そういえばさっき捨てちまったけどよ、新聞読んでたよな?」

「ああ、暇つぶしにな」

「何か新しい情報とかあったか?」

「いやまったく。三日前の私達の戦闘が爆発事故ってなっているのも変わらずだった」


 クロエが軽く首を振りながら答える。


「まあ、そうだよなぁ」

「色々読んだが、当事者より詳しいのはなかったな」

「当事者より詳しいのはもはや犯人だろ、それ」


 シャロンは冗談めかして言ったが、


「その代わりに、面白いジョークなら沢山あったよ」


 クロエはそう言いながら、シニカルに笑った。


「……それは聞かないでおく。どうせ酷いデマがあったんだろ?」

「あくまで『ジョーク』さ。聞かないのは賢明だと思うけどな」


 クロエは肩をすくめて言った。


 それから少しも経たずに、クロエとシャロンは会場の入り口に着いた。

 クロエは防音用の分厚い扉を開け、二つ目の同じ造りの扉に手を掛けてから、


「念のために確認しとくけど、私達は立ち見客って事になってるから」

「分かってる。すぐ動けるように、だったな」

「ああ。じゃあ行こう」


 確認を終えて、クロエは扉を開く。


 会場は、やや小さいながらも二階建てになっていた。

 二人は二階の入り口から会場に入り、その側に陣取った。周囲に悟られないように注意をしながら監視を始めて、


「で、何で二階?」


 シャロンの疑問に、クロエは淡々と答える。


「飛び降りればステージまでの近道になる」

「んな無茶な……あ、いや、そうでもないのか」


 二階から一階までの高さは、三メートル程。クロエとシャロンならば、工夫さえすれば、ある程度は着地の衝撃を緩和する事が可能な高さだった。


「ああ。私は肉体強化で、シャロンは……風を起こして勢いを殺すとかの方面で」

「会場を被害を無視していいならそうする」

「やっぱり別の方法で頼む」

「りょーかい。まあ、その時が来たら適当に足場作るって事で」


 シャロンが言って、声を小さくしつつ話題を変える。


「……しかしよ、凄いよな、マリア嬢って。こないだあんなバケモノに襲われて、事務所の社長も殺……いや、亡くなったばかりだってのに」

「ああ、それでも気丈に振る舞って、予定通りコンサートまで開くんだ。余程の胆力がないと出来ないと思う」

「『私を応援している人達が心配して、気苦労をかけさせたくないから』、か。……健気だよな。皮肉とかでも何でもなく」


 シャロンは、どこか不憫そうな表情になって言った。


「ああ。……そういう思いをする人は居ないか少ない方がいいよな」


 クロエが言ったのを聞いて、シャロンは、その表情のままクロエを横目で見た。


「…………そう、だな」


 シャロンが言った直後、コンサート開始のブザーが鳴り響き、照明が次々と落ちていった。




 マリアのコンサートが始まった。


 緞帳が持ち上げられ、ステージの証明だけが点く。

 その中央に、マリアが一人、立っていた。衣装は、海のように深い蒼の、飾り気のないシンプルなドレス。持ち物は、右手のマイク一本。それだけだった。


 マリアはマイクを口元に持っていき、静かに話し始める。


『──会場の皆様。今日はお越し頂き、ありがとうございます──』


 マリアは一通り謝辞を述べ、数日前に殺された社長への思いを伝える。


『──社長には、デビュー前からとても良くして頂きました。……どんな思い出も昨日のように思い出せます……。私は今日、会場の皆様と、今は連絡が取れない父と母、そして、亡くなった社長のために、歌います。……以上です。それでは、一曲目をどうぞ』


 マリアはそう締め括り、歌い始めた。

 『星の海への鎮魂歌』と題されたその歌を、マリアはアカペラで、厳かに歌う。




「いい曲だな……普段は全然音楽聞かないし、この際趣味にでもするか……?」


 シャロンは、他の客の迷惑にならない程度の小声で呟いた。


「……いい曲だ……。惜しむらくは、どういいのかを表現出来ない事かな……」


 クロエは、シャロンと同じように、自分にだけ聞こえるように呟いた。




 それから、ジャズオーケストラを交えつつ、数曲を歌い終えた時だった。


 拍手が鳴り止んだ直後、一際大きな、仰々しい拍手が鳴り始めた。


「何だ……?」

「……シャロン、移動するぞ」


 クロエはシャロンに言ってから、最前列の方に移動を始めた。


「分かった」


 シャロンは頷き、クロエの後に続く。


 クロエとシャロンが落下防止用の手すりに体を預けて階下を覗き、


「──クロエ、あそこだ」


 シャロンが、一人の人間が拍手をしながら、ステージに向かって歩いているのを見つけた。


 クロエは懐からカメラを取り出し、夜間撮影モードに変更してから、レンズ越しにその姿を確認する。


 確認出来たのは、人間は中肉中背で、柄が分からないスーツを着ている事と、体の線から男だと推測される事。そして、顔を何か仮面のような物で覆い隠しているという事だった。


 推定男はひとしきり拍手を終えると、懐から何かを取り出した。

 クロエはそれを見て、


「シャロン、先に行く!」


 カメラに『ソウルクリスタル』を叩き込みながら言って、手すりから身を乗り出し、躊躇せずに飛び降りた。


 クロエは飛び降りながら、帽子が跳ばないように手で押さえ、着地の瞬間に体を前方に回転して、衝撃を分散させた。


 クロエは立ち上がって走り出し、推定男の肩越しに見える懐から取り出した何か──『エキストラクトクリスタル』に手を伸ばしたが、


「くっ……⁉」


 クロエがそれを後ろから取り上げるよりも早く、男は、クリスタルを体に突き刺した。

 直後、男の体に異変が起こった。

 男の体の内側から、クモのそれを彷彿とさせる白い糸が滲み出て、全身を包んだ。糸が内側から爆発して、衝撃波が発生する。


「うわっ⁉」


 クロエは衝撃波を至近距離で受け、吹き飛ばされた。階段状になっている場所の角に後頭部を打ち付ける。


「ぐ、うっ……」


 クロエは激痛に顔を歪ませ、後頭部を手で押さえる。運良く左手のすぐ近くにあった帽子に手を伸ばし、頭に被せてから立ち上がった。


 その頃には、男は、これまで二度遭遇し、戦った、あの『蜘蛛男』へと変貌を遂げていた。

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