トラクロア
翌日の夜。
クロエとシャロンは、大通りを挟み、レコード会社の向かい側にいた。マリアの護衛と、ストーカーを確保するためだった。
クロエは白い帯が巻かれた黒い中折れ帽を被り、黒いスーツ姿。シャロンはローブのフードを被っている。
「……なあ、クロエ」
静寂を耐えられなくなったのか、シャロンが、小声でクロエに話しかけた。
クロエが小声で返事をする。
「何だ?」
「あのさあ……これ、端から見たら、俺達こそストーカーに見られるんじゃねぇの?」
シャロンが心配そうに言った。
クロエは猛禽類のレリーフにも見える暗視機能付きの赤いカメラを構えてレコード会社の入り口を見張り、シャロンは周囲を見渡して警戒を続けていた。
クロエはレコード会社の入り口を見張ったまま、シャロンに言う。
「大丈夫だ、既にトランク刑事に『内密に』って但し書き付きで連絡を入れてある。ストーカー捕まえたらその手柄と交換って言われたけどな」
「つまりいつも通りのギブアンドテイク、っと」
クロエはシャロンの言葉に頷き、話を続ける。
「そういう事だな。それでシャロン、『イーグル2』からの応答は──」
「まだない。というか、何か見つけたら戻ってきてって指示してるでしょ」
「……それもそうか」
「そうだよ」
シャロンはそう言うと、何かを思い出したかのような顔になって、
「そういえば、今は……」
黒緑色の薄い立方体の腕時計で現在時刻を確認した。時計の針は、午後の十一時を指していた。
「うわ、夜の十一時って……激務だな……。これと大体同じ内容を毎日って……」
「ああ、相当忙しいだろうな」
「少しは休みを取れって、俺でも言われるのに……」
シャロンが、呆れたようにも、気の毒そうにも見える表情になってぼやいた。
「かと言って、関係各所は黙ってられないんだろうさ。マリアの歌が上手いのは確かだし、美人だ。おまけに社交的。利用すればいい儲け話に、ってやつなんだろう──ん?」
クロエはそこまで言って、話を途中で止めた。
「どうした──って、ああ、ようやく仕事が終わったのか」
シャロンはクロエの視線を追って、レコード会社から出てきたマリアを見つけた。
シャロンは、目を凝らしてマリアを見ながら、クロエに聞く。
「ここから自宅のアパートまで十五分、その間にストーカーが出てきたら確保、って手筈だよな?」
「ああ。ここ数日ずっと嫌な視線を感じているって話だ、いつ仕掛けてきてもおかしくは──」
クロエがそう言うのと、マリアが曲がり角に差し掛かり、そこに入って行ったのは同時で、
「──きゃああぁぁぁぁっ⁉」
曲がり角の奥から悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。
「まずいっ!」
クロエは短く言って、同時に走り出した。走りながら、カメラのレンズの右側に何かの『ソウルクリスタル』を叩き込む。
「くそっ、思ったより早い!」
シャロンは悪態をつき、急いでクロエの後を追う。
マリアは、突然目の前に逆さ吊りの状態で現れた怪人を見て、数歩後ろに下がった。
「ひっ⁉」
そして、街灯に照らし出された怪人の姿を見て、短く悲鳴を上げた。
その怪人の体色は枯草色と毒々しい赤の縞模様で、頭は、クモを上から見たかのような造形だった。腕は三対六本で、中央の一対の両手が鉤爪状に肥大化している。
そして、全身が人間とかけ離れている中で、両目だけが人間のそれのままだった。
逆さ吊りになっているのは、その六本の腕と両足で、白く太く、かつ毛羽立った糸を掴んでいるからだった。
怪人──蜘蛛男は、歪んだ声で話しかける。
『やあマリア、今晩は。毎日夜中まで大変だねえ』
マリアの返事を聞く前に、蜘蛛男は勝手に話を進める。
『それより見てごらん。今日は月も星も綺麗だ。心が洗われるようだ──』
そう言いかけた瞬間、何かが凄まじい速度で飛来し、蜘蛛男が掴む糸を切断した。
『うおおっ⁉』
蜘蛛男は突然の出来事に対応出来ず、驚愕の声を上げた。そのまま、コンクリートで舗装された地面に頭から激突する。
糸を切断したのは、鷲のような形の青い機械だった。
「間に合ったか⁉」
そこに、慌てて走ってきたクロエが、すぐ後にシャロンが到着した。
クロエはマリアの前に庇うように立った。マリアを下がらせながら自分も下がり、蜘蛛男を睨む。
鷲のような機械は小さく旋回して、シャロンの右手の掌に飛んで行った。シャロンが広げた掌の上でカメラの形に戻ると、その上に落ちた。
「間に合ったみたいだな。『イーグルカメラ』、流石は俺の発明品……」
シャロンは安堵が籠った声で呟くと、カメラのレンズの右側に突き出た鷲の『ソウルクリスタル』を、もう一度『イーグルカメラ』に叩き込んだ。
『イーグルカメラ』は変形して宙に浮かび、クロエ達三人と蜘蛛男の頭上で旋回を始めた。
『何だお前ら……うおっ⁉』
蜘蛛男が立ち上がった瞬間、その頭上から、赤い『イーグルカメラ』が飛来した。蜘蛛男の顔面に体当たりして、尻餅を突かせ、胴体のカメラでフラッシュを焚いて写真を撮った。
赤い『イーグルカメラ』は撮影を終えると、上昇して、青い『イーグルカメラ』と共に旋回を始めた。
「シャロン、マリアさんを連れて逃げろ! 時間は稼ぐ!」
「わかった! 死ぬなよ⁉」
「善処する!」
クロエが言い切るよりも早く、シャロンはマリアを連れて逃げ出した。その上に、二機の『イーグルカメラ』が続く。
直後、蜘蛛男が立ち上がり、クロエを見据える。
『……お前、何なんだ?』
「雇われのボディーガードだ。……そういうお前は、『蜘蛛男』だな?」
『……ああ』
「理由は知らんが、そんな恰好までしてオンナに付きまとうのは止めろ。正直、気持ち悪い」
クロエがそう言った直後、蜘蛛男は、含み笑いを始めた。
「……何がおかしい」
『……ふ、ふふ、ふ。そんな恰好、気持ち悪い、か……そうだろうな……』
蜘蛛男の物言いに、クロエは眉を顰める。
「……何が言いたい?」
『いや、別に……。けど──、退け!』
蜘蛛男は叫ぶと、突然クロエに向かって走り出し、人間であればまずありえない速度で間合いを詰めた。
「っ⁉」
クロエは咄嗟に姿勢を低くし、蜘蛛男の鳩尾に右ストレートを叩き込んだが、その手は蜘蛛男に受け止められていた。
「何……うわっ⁉」
クロエが驚いた時には、その身体は宙を舞い、
「がっ……」
ビルの壁面に叩き付けられていた。
クロエを左側にあるビルに向けて放り投げた蜘蛛男は、振った左腕を戻し、
『通してもらうぞ』
そう言って歩き始めた。
「ぐ……」
クロエは呻き、背中からの激痛に表情を歪めながら立ち上がり、
「行かせない……!」
腹の底から絞り出すかのように言って、全力で走り出し、蜘蛛男の腰の少し下を狙い、真後ろからタックルを仕掛けた。
『ぬあっ⁉』
蜘蛛男が間抜けな声を上げ、前のめりに倒れた。
クロエは蜘蛛男の上を這って移動し、その右腕の関節を極めるべく右手を伸ばしたが、
『う……おぉっ!』
その寸前に蜘蛛男が起き上がり、クロエの下から這い出た。
クロエは立ち上がり、走り出そうとしている蜘蛛男を羽交い絞めにした。立ち位置を逆転させてから腕を離し、振り向いた蜘蛛男の顔面を右拳で殴り飛ばす。
地面に倒れた蜘蛛男は、少しも痛がる素振りを見せずに立ち上がり、クロエを睨む。
『……邪魔するのか、お前……?』
「そう言っただろうが……」
『……なら……もう、容赦はしない!』
蜘蛛男が叫び、クロエに向かって走り出した。間合いを詰めてクロエの鳩尾を殴り、そのまま振り抜く。それだけでクロエは紙屑のように吹き飛び、ビルの壁面に激突した。
蜘蛛男は倒れそうになったクロエの首を右手で掴み、無理矢理立たせ、持ち上げる。更に左手を首に這わせ、力を込めていく。
「あ……かはっ……」
クロエの喉の奥から、掠れた音が漏れる。
「く……」
クロエは蜘蛛男に悟られないように注意しながら、スーツの懐を探った。慎重に『ベア―フォン』とその『ソウルクリスタル』を取り出す。
「っ……!」
クロエは震え始めた手で、『ソウルクリスタル』を『ベア―フォン』に差し込んだ。
『ベア―フォン』はクロエの手の中で熊のように変形し、蜘蛛男の鳩尾に激突した。
『ごっ⁉』
蜘蛛男は変な声を出し、クロエの首から両手を離して大きく下がった。
直後、赤い『イーグルカメラ』が文字通り飛んで帰ってきた。蜘蛛男に突撃を繰り返し、更に下がらせる。
クロエは何度か咳き込み、一度深呼吸して立ち上がる。
「……ふふ、どうやら私は、運がいいらしい……」
そう言いつつ、口元に乾いた笑みを浮かべる。
「……蜘蛛男、お前は何なんだ? そんな馬鹿力、人間じゃ出せないはずだ」
クロエはそう言いながら、肋骨の辺りを撫でるような素振りを見せる。
その時だった。
「知りたいのですかぁ?」
頭上から声が聞こえてきた。
「──⁉」
クロエが思わず声が聞こえてきた方向を見ると、そこにはビルの壁に固定された看板があった。その上に、黒いシャツの上から白いスーツを着込んだ、人形のような印象を受ける美女が、足を組んで座っていた。
その美女は、組んだ足の上に大きなアタッシュケースを乗せていた。
「初めまして、探偵のお嬢ちゃん」
美女の言葉にクロエは軽く眉を顰めた。
それに構わず、美女は話し続ける。
「彼は『トラクロア』。人類の新たな姿、人類が前に進むために手にすべき力です」
美女はそう言って、アタッシュケースを開く。
街灯の明かりに照らされ、アタッシュケースの中身が見える。
そこには、掌程の大きさで無色透明の六角柱の結晶が収められていた。その数、縦に五つ、横に五つ、更に一つの計二十六個。
「この『エキストラクトクリスタル』を左胸に突き刺して、その人の心の傷になっている記憶を取り出す。クリスタルの中でその記憶を強めて戻す。そうすれば、今貴女の目の前にいる超人に早変わり。簡単に言えばこんな感じです。お一人様一本限定ですが……貴女もいかがですか?」
美女はそう言うと、『エキストラクトクリスタル』を一つ手に取った。
クロエはそれを見て、露骨に嫌そうな顔になった。表情と同等以上に嫌そうに言う。
「いや、結構」
「あら、それは残念……」
美女はそう言うと、『エキストラクトクリスタル』を戻し、アタッシュケースを閉じた。
「まあ、それはそれとして。……貴女、これ以上は首を突っ込まない方がお得ですよ」
「何?」
「普通人ではトラクロアには到底敵いませんし、何より貴女では我々を止める事は出来ません」
美女は鼻で笑うように言った。
クロエはその言葉を聞いて、ほんの少し眉を顰めた。
美女は溜め息を吐き、蜘蛛男──クモのトラクロアを見る。
「おしゃべりはここまでです。殺っちゃってください」
クロエはその言葉を聞いて身構えたが、
「…………ん?」
クモのトラクロアは、動こうとしなかった。
「どうしましたぁ? 『邪魔するなら容赦しない』のでは?」
美女の囃し立てるような物言いに、クモのトラクロアは首を振った。
『いや、違わない。違わないが……限界が来た』
蜘蛛男が絞り出すように言ったのを見て、美女は納得したかのように頷いた。
「ああ、なら仕方ありませんね。……今回は帰ります?」
『納得いかないが、そうするさ……』
クモのトラクロアはそう言って、左手の掌を上に向け、そこから糸を放った。吊り下がる時に使っていた物と同じだった。
美女はクモのトラクロアが宙に浮かぶのを見て、次いでクロエを見る。
「ではお嬢ちゃん、ごきげんよう。永遠にさようなら」
そう言った直後、クモのトラクロアが美女の隣を通った。その際に右腕で美女を抱え、そのままどこかに去って行った。
「…………」
クロエはそれを見届けて、ゆっくりと後ずさった。ビルの壁面に背中を着けると、ズルズルと座り込む。
それから少しもせずに、遠くから警察車のサイレンが聞こえてきた。
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