歌姫の依頼
事務所のベルが鳴ったのを聞いて、シャロンは慌てて熊を携帯電話に戻して、電話とクリスタルをそれぞれ懐にしまった。
それを見てから、クロエがどうぞ、と答える。
「あの……失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、十代後半から二十代前半に見える女性だった。袖がなく括れもない、胸を平らに見せるような薄い黄色のドレスを着て、その上から黒いガウンコートを羽織り、黒いハイヒールを履いていた。右手にはバッグを持っている。プラチナブロンドの髪は、ボブカットにしている。総じて、所謂フラッパーにも見える風貌だった。
先に反応したのは、クロエだった。意外そうな顔をして、女性に話しかける。
「……貴女は……」
そう言いかけたところで、シャロンが小声で聞く。
「……知り合い?」
クロエも小声で返す。
「いや……というより、有名人」
「誰……?」
「マリア・トーマス。新進気鋭の歌手。『歌姫』って呼ばれる事もある」
「『歌姫』……成程」
シャロンが女性──マリアをまじまじと見つめていると、
「あ、あの……」
マリアが心配そうに何かを言おうとして、すぐに黙った。
「あ、ああ、これは失礼。少し見入ってしまいました」
クロエは慌ててそう言うと、マリアの前に移動した。
「どうぞ、こちらに」
そう言って、扉から向かって右側にあるソファーセットを指した。
ソファーセットは一人用の肘掛け椅子が二つ、二人用の長椅子が一つという構成。
クロエはその内、右側の肘掛け椅子を勧めた。
「し、失礼します……」
マリアはどこか怯えた様子で言って、クロエが勧めた椅子に座った。
「じゃあ、私はコーヒー淹れてきますね」
シャロンは他人行儀に言って、キッチンに向かっていった。
クロエはマリアに向かい合うように座り、話を始める。
「まず一つ、確認しておきたい事が。失礼かもしれませんが……マリア・トーマスさん、で合っていますか?」
クロエの問いに、マリアは頷く。
「はい」
「本名ですか?」
「ええ。でも、どうしてですか?」
「成程。いえ、報告書を作成する際にどうするか迷ってしまったもので、先に聞いた次第です。……では、本題に入りましょう。今日は、どのようなご用件でこちらに?」
マリアは一瞬迷っているような表情になり、
「その……最近、ストーカーが出るようになったんです……」
「ストーカー……。その、差し支えなければ、どのような被害を?」
マリアは軽く俯き、訥々と話し始める。
「……始まったのは、たぶん二、三週間前からです。仕事の帰り道で視線……というより、気配が気になって……。嫌な感じだなってだけで、それ以上は気にしなかったんですけど……」
「……けど?」
「……最初は遠くにいた気配が、少しずつ近づいてきていて……それで、一週間前に、自宅にこれが届いて……」
マリアはそう言うと、自分の右側に置いたバッグから、赤い封筒を取り出した。
その封筒は、蝋ではなく、白い糸を何重にも吹きかけて封がされていた。
「……拝見しても?」
マリアは頷き、クロエに封筒を差し出した。
クロエは封筒を受け取り、差出人の名前を確認する。
封筒の裏側右下に、『親愛なるマリアへ』、その下に『蜘蛛男より』と、白い糸で書かれていた。
「蜘蛛男……」
クロエが呟いた直後、シャロンがコーヒー入りのマグカップを三つ、それからペーパーナイフをトレーに乗せて持ってきた。
クロエが持つ手紙を見て、シャロンが聞く。
「ストーカーからの手紙?」
シャロンは言いながら、クロエにペーパーナイフを手渡した。
クロエはシャロンに礼を言って、受け取ったペーパーナイフを封の下に差し込み、外した。中身の便箋を取り出し、文章に目を通す。
手紙の本文は『親愛なるマリアへ』から始まり、歌姫のマリアを延々と褒め称える文章が続いていた。その枚数は、実に五枚。
「うわ、気持ち悪っ……」
シャロンは思わず素に戻った状態で呟いた。
その感想に、クロエも同意する。
「ああ、流し読みだけでも十分に解る。凄く嫌な文章だ。文全体の脈絡がないのが余計に気持ち悪い」
「この『君は俺の太陽であり月だ』とか、何かこう……何か嫌だっていうか……あれ?」
「どうした?」
「五枚目の最後の文、もう一回見せてくれ」
「ああ」
クロエはシャロンに言われた通りに、五枚目の便箋を一番上にした。
「ここの文なんだけど……」
シャロンが指でなぞったのは、『君は傷付けられようとしている。早くそこから逃げるんだ。傷付けられない内に、早く。君の歌は多くの人に聞いて欲しいが、でもそこにいるなら、願わくば、俺のためだけに歌ってくれ』という一文だった。
「ここがどうかしたのか?」
「何て言うのかな……こう、気持ち悪さ満点なんだけど、変に誠実さというか、良心があるというか……」
「…………」
クロエは文章の意図を考え始めたが、
「まあ、これだけじゃ判断材料が少なすぎるから、答えが出せないんだけどさ」
何か答えを出すよりも早く、シャロンが考えを中断した。
クロエは肩をすくめ、それに同意する。
「……それもそうだな。あとシャロン、口調」
「あっ……いけないいけない」
シャロンは思い出したように言って、わざとらしく咳払いをして、口調を他人行儀に戻した。それから、マリアに話しかける。
「え、えっと……マリアさん、念のためですけど、この事、警察には相談しましたか?」
シャロンの問いを受けて、マリアは泣きそうになって、
「その……もちろん相談はしました。けど……人手が足りなくてどうにもならないって……」
「そんな……」
「でも、トランク・マクレーンって名前の刑事さんが、ここを紹介してくれたんです。『ここなら、大体の場合依頼を引き受けてくれるだろうから』って」
それを聞いて、クロエが納得した様子で成程、と頷いた。
「そうでしたか、彼が紹介をしたのですね。因みに、ここまでは一人で来たのですか?」
「あ、いえ、マネージャーが待ってます」
それを聞いて、クロエは片眉を持ち上げた。立ち上がり、シャロンに避けてもらい、窓の側に向かう。
クロエが窓の外を見ると、事務所の前に最近売り始めたばかりの車種の赤い車が一台停まっていた。運転席に誰かが座っている事も、確認出来た。
「……成程」
クロエは頷くと、マリアを見た。
「確かに、この街は治安が悪い場所が何か所もあります。下手すれば、毎日ドンパチやってるような場所も……。警察が人手不足なのも、事実です。それに、他ならぬトランク刑事の頼みです」
「じゃ、じゃあ……!」
クロエは、瞳の中に希望を浮かべるマリアを見て、頷く。
「お受けしましょう、ストーカー退治」
一通りの手続きを終えて、マリアが帰って行った後。
「礼儀正しかったな、マリア……」
丸テーブルの前に座ったシャロンが、意外そうに言った。
「民衆とか出版社とかが考えているようなフラッパーっぽくないって事か?」
机の前に座るクロエの問いに、シャロンは首を振る。
「いや、その手の雑誌とか読まないから知らないけど……単純にそう思っただけだよ」
「そうか」
「ああ……」
シャロンは会話を止めようとして、
「あ、そうだ、クロエ」
思い出したかのように会話を再開した。
「……何だ?」
「あのさ……俺が来た時、丁度コーヒー飲もうとしてたろ?」
「そうだが?」
「あれ味見したけど、何か薄かったぞ?」
「……何?」
シャロンは、聞き返してきたクロエに、もう一度言う。
「薄かった。あれじゃコーヒーの匂いがする白湯だ」
クロエは暫く黙って、念のために聞く。
「証拠は?」
「もうないよ。マリアが来た時にコーヒー新しく淹れて、その時に全部捨てちゃったし」
「……そうか」
クロエは、シャロンが呆れた様子で言ったのを見て、
「……寝起きで、面倒とか考えてたからかな……」
そう言って、
「とりあえず、次は気を付ける」
とりあえず、といった風に謝った。
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