ご質問の回答

ご質問の回答

まず、はじめにお詫びいたします。

個人的なメモ書きを公開してしまいましたので、内容が読んでいただくようなレベルではないということです。

これまで、レビューで書いていたようなことを、自分の文章として書き直しましたが、まあ自分のためだけの文章という度合いが強すぎました。


さて、ご質問を受けた件です。


>その「にんげん」という概念をめぐる言説とは、一体なんなのでしょうか?


ちなみに、にんげんをカナにしているのは今実験としてどこまで漢字をひらいて書くことができるかというのを試みているだけなので、全く僕以外の人には意味がありません。

ミシェル・フーコーの語る近代において発明された人間という概念をめぐる言説については、僕のくそくだらない駄文を読むよりはぜひフーコーの「言葉と物」をお読みになることをおすすめします。

フーコーの本はとても読みやすい文章で書かれており、特に「言葉と物」については読む喜びを満たしてくれる本です。

冒頭のベラスケスの作品をめぐる考察については、読み物として純粋に楽しめるとおもいます。

ドゥルーズの「差異と反復」をうっかり手にとってしまった時みたいに、冒頭の2~3ベージを読んでから、そっとためいきをつきながら本を閉じるようなはめになることは絶対ありません。


けれど、一応以下に簡単な要約を述べておきますね。

さて、フーコーは「言葉と物」の中で、近代にいたるまでの三つのエピステーメ(知の枠組み)を示しています。

それは大雑把にいうと、以下のようなものです。


・古典時代:アナロジーのエピステーメ

・ルネサンス時代:表象のエピステーメ

・近代:人間のエピステーメ


エピステーメとは知の枠組みであり、まあ、カントのいうところのアプリオリ(先験的)としてとらえればいいとも思います。

わたしたちが現実を認識するにあたり、経験知の手前にある認識のフレームワークをとおして行うため、その時代の共通認識にたどりつけるのだともいえます。

古典時代は、いろいろな物事をアナロジーによってとらえていた。

ルネサンス期にそれは表象となる。

表象というのは、差異と同一性になります。

ルネサンス期は物事を差異という表の中にはめこみその中で、同一性により各項を認識する。

フーコーは例として、博物学をあげています。

近代になると、重要なのは枠組みとしての体系ではなく、その向こうにある本質となります。

サドについて、フーコーはこんなことを語ります。


「サドは古典主義時代の言説と思考の果てに到達した。彼はまさにそれらの限界に君臨している。彼以後、暴力、生と死、欲望、そして性が、表象のしたに巨大な影の連続面をひろげはじめ、われわれは今日、この影の連続面を、われわれの言説、われわれの自由、われわれの思考のなかにとり入れようとして、できるかぎりの努力をはらっているのだ。」


サドの作品は表象を食い破りその向こうにある本質、つまり人間としての本質を「暴力、生と死、欲望、そして性」に見るということです。

これこそが、近代文学というものの出発点であったのだと思います。


ところがフーコーはこの「人間」も、ひとつのエピステーメーにより発明された概念であると語り、かつてエピステーメが変化していったように「人間」の終焉もいずれ訪れるとかたります。


「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。

 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」


では、人間の終焉を踏まえたエピステーメとはどのようなものとなっていくのでしょうか。

かつて、人間というエピステーメの象徴をサドに見ることができたように、われわれはウイリアム・バロウズにおいて人間の終焉を見ることができます。

バロウズについては、これまた僕のくそくだらない駄文を読むよりは山形浩生の「たかがバロウズ本。」を読まれることをおすすめします。

国内外を問わず、山形浩生の「たかがバロウズ本。」ほど深くバロウズについて考察した本はありません。

また、そこにはバロウズへの深い愛も感じることができます。

麻薬中毒で妻をウイリアムテルごっこで射殺するようなろくでもない人物でもあり、書いているものも文章をはさみで切り取ってのりではりなおすというおよそでたらめなしろものなのですが、それでもわれわれはバロウズから学ぶべきなにがしかがあると山形浩生は教えてくれます。


つまり、語っている主体は何者であるかという問題です。

僕たちは「語っている」つもりではあるけれど、本当に語っているのは実は言語のほうではないか。

言語が単に自立的に運動し、僕らを通じて何かを語っているのではないか。

バロウズはもう少しいかれたいい方をしていて、言語は僕らの脳に寄生したウィルスのようなものと語ります。

だから彼は、文章をきりとり貼りなおして、言葉とはなにかをわれわれに問い直すのです。

これは、単に文学に閉じたできごとではなく、コンテンポラリーアートの世界ではデュシャンが「泉」で問いかけたこと、そして、ジョン・ケージもまた音楽の世界で追い求めたことだといえます。


さて、極東の島国での話しを少ししてみましょう。

コンテンポラリーアートの世界でいうと、草間彌生、イサム・ノグチ といった作家はデュシャンからはじまったダダイズム、シュールレアリスムと連続した世界で活動しているといえるでしょう。

また音楽でいえば、武満徹はケージのやったことを見据えて作曲していてたといえます。


けれど、純文学はどうでしょう。

戦後の日本の代表的な作家としてあげられるのは、たとえば大江健三郎になります。

大江が純文学であるといえるのかは、よく分かりませんが寺山修司や阿部公房よりは純文学のひとだと思っています。

大江はサルトルの影響をうけていました。

サルトルは人間の終焉の時代のひとだと言えるのでしょうか。

ドゥルーズは実存主義を構造主義の先駆形態ともいったようですが、おそらくサルトルはそれをみとめないように思います。

サルトルの目指したのはおそらくアンガージュマンによりひととしての本質を選択し制約することだったと思っています。

それは、19世紀的なエピステーメの延長線上にあり、バロウズの提示したような語る主体の喪失といった問題にはとどいていないのではないかと思われます。

そして大江はサルトルを超えることは無かったと、思っています。


では、ライトノベルはどうでしょうか。


ブギーポツプは登場とともにこう語ります。


「僕は自動的なんだ」


時代精神の歪が不気味な泡を生み出し、それが語ってみせる。

これこそが人間の終焉の象徴といえるのではないでしょうか。

ライトノベルはその出発点において、人間の終焉についてバロウズとは違う形で語っていたのだと思います。

そして、それは純文学にはできなかったことです。







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純文学とライトノベルの違い 憑木影 @tukikage2007

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