純文学とライトノベルの違い

憑木影

備忘録

そもそも、この極東の島国ではどのように文学というものが発生したのだろうか。

明治とともに、近代文学というものが生じてくる。

それは、他のものと同じように海外の模倣からはじまった。

19世紀当時の海外では、近代というエピステーメの中で、ミシェル・フーコーのいうにんげんという概念が発明されたところであった。

そして、そのにんげんという新たに発明された概念をめぐる言説のひとつとして、小説というものが生み出される。

明治期において、江戸期に語られていた伝奇物語と区別するために、「純」文学という形式が導入され、それはまさに「にんげん」という19世紀のエピステーメーにより発明された概念を巡る言説であった。


さて、20世紀以降、海外ではミシェル・フーコーが語るようににんげんという概念が終焉をむかえる。

小説家としては、ウイリアム・バロウズ、ジェイムズ・ジョイス、サミュエル・ベケットという作家達がにんげんという概念をのりこえようとした試みを作品として発表していく。

そしてそれは、様々な議論をよび現代作家たちに受け継がれていった。


一方、この極東の島国ではどうであったろうか。

この島国には、明治期に輸入された「にんげん」という概念をめぐる言説から一歩たりとも踏み出さなかった。

この島国の作家たちは保身のため、死に物狂いでガラパゴス化した「純」文学という形式を守りつづけた。

だから純文学は世界に類をみない、この島国独特かつ珍妙なトラディッショナル文学となった。

誰にとっても意味をなさない規約を遵守し、バロウズがある意味死んだ言葉、ゾンビの言葉と呼んだような形式を死守しながら存続していく形骸化した廃墟。

それが、純文学といえる。


ライトノベルはそうした規約から逃れることができる、表現形式だといえる。

つまり生きた言葉の現前として、この島国で失われた文学への道を唯一繋ぎ止める形式がライトノベルだといえるだろう。



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