「朝からひどい目にあいました」

 大きく息をつきながら、瑞葉は櫛を片手に髪を梳いていた。

「うげ、髪が変なところで絡まっちゃってます」

「大変そうだな」

「髪だけじゃなくて耳や尻尾もぼっさぼさですからね。毛が抜けてたらすみません」

 頑固に絡みついた髪の毛を、瑞葉は気合で梳かす。繊維質のものが切れる小さな音がした。

「で、遅刻した理由は?」

「寝坊です。起きたら八時でした」

 権藤先生が出席を取り始めるのは八時二十分のチャイム丁度の時刻である。三丁目の交差点から教室までが、だいたい歩いて二十分くらいである。つまり起きた時点で徒歩ではギリギリアウトである。着替え等々の時間も考えれば余裕でアウトの時間である。

 むしろ一分や二分程度の遅刻で済ませたあたり、いろいろと――乙女のプライドと相談して、急いだり妥協したりと頑張ったのであろう。

 髪を梳かし終わったのか、瑞葉は自分の尻尾を膝にのせてブラッシングを始めた。

 いつ見ても触ったら心地よさそうな尻尾だ。公継はぼんやり思う。彼女の身長の半分くらいの大きさがあるから、抱き枕にして寝たら安眠できそうである。したら怒られそうだが。

 そういえば休憩時間に何度か、彼女自身が尻尾を机に乗せて枕にしていたような記憶がある。たまに女子が触ってはしゃいでいるのも見る。やはり、ふかふかで気持ち良いのだろうか。いっそ、触らせてくれと頼んでみるべきか――。

「どうしたんですか公継君? ぼうっとして」

「いや、なんでもない」

 瑞葉の言葉で、公継は妄想の世界から現実へと戻ってくる。

「ところで、なんでそんな時間まで寝ていたんだ?」

 ごまかすように公継は問いかけた。

「実は、ですね」

「実は?」

「公継君に勧められた漫画を読んでいたまでは覚えてるんです。でも、その後、朝までの記憶がないのです。目覚ましもセットした覚えがないから鳴っていませんし」

 つまり寝た記憶がない。だが意識もない。

 完全な寝落ちである。

「でも、ちゃんと布団で起きましたよ?」

「それ、布団の上で漫画読んでただけだろ」

 瑞葉の視線が横に泳いだ。

「自業自得じゃねえか」

「こっちの世界の漫画やアニメやゲームが面白いのがいけないんですよ」

 瑞葉は口を小さく尖らせる。

 ちなみに公継と瑞葉の仲が良い理由がこれである。

 留学生としてやってきた始めの頃、瑞葉が現世うつしよ――こちら側の文化をよく知りたいと、故郷との違いを知りたいと、幽世から持って来た古ぼけた和綴じの本を持ちながら言ってきたのだ。えらく達筆な文字が表紙に書かれていたのを公継は覚えている。

 つまり現世の本を読みたいのだろうと解釈した公継は、その時たまたま持っていた少年漫画を見せたのだ。チョイスに理由はない。本当にたまたま手元にあったからである。そうでなければ、こちらから見ればファンタジーのような世界である幽世から来た人間に対して、ファンタジーの塊である少年漫画を見せるなんて、日本料理が食べたいインド人にカレーを食べさせるがごときチャレンジャーな真似をしなかっただろう。

 その後、公継から借りた漫画を瑞葉が一気読みして、続きを要求してきたので、結果オーライといえばそうなのだが。

 それからである。このように無駄話をしたり、たまに漫画を貸したりするようになり、下の名前で呼び合うようになったのは。

 下の名前で呼び始めたのは彼女の方からだ。向こうでは親しい友人とはそのように呼び合っていたとかで、彼女の中では「宮藤君」ではなく「公継君」と呼んで、「樟倉寺」ではなく「瑞葉」と呼ばれる方がおさまりが良いらしい。

 人懐っこい性格なのだ。特に、親しくなったと判断した相手に対しては物理的距離も近くなる。

 半ば犬である。機嫌が良いと耳が上にまっすぐ伸びたり、ぴこぴこと上下に動くので余計に犬っぽい。――狐はイヌ科ではあるが。

 ともあれ、ある意味、瑞葉は熱心にこちらの文化を体感し、勉強し、留学生生活を満喫しているわけである。

 満喫しすぎて今日のような事態になってしまったわけである。

「おかげで放課後は一人でお掃除です」

「掃除?」

「遅刻の罰として、放課後に第二図書室の掃除をしなさいって言われたんです」

 第二図書室。名前の通り二番目の図書室である。普段は開放されておらず、本の倉庫のようになっている部屋である。昔は日常的に開放されていたのだが、第一図書室が増設されたときに、元々あった部屋であるにも関わらず第二という名を冠されたという、なんだか悲しいいきさつのある部屋である。

「瑞葉が遅刻したの初めてだよな。なのに罰って、厳しくないか」

「私に言われても知りませんよ」

「でもまあ、なんだ。あそこには普段見れないこっちの本がいっぱいあるし、ほら……」

「権藤先生にも同じようなことを言われましたよ。だけど私は特別、本が好きってわけじゃないですから。それにですね、公継君。前に特別に見せてもらったから知ってるんですけど、あそこの本って、古いんです」

「新しい本は第一図書室に入るだろうから、そうだろうな」

「小難しい本ばっかりで面白くなくて」

「おい留学生、それでいいのか」

「留学生ですけど、それ以前に公継君と同い年の女子高生ですよ?」

 確かに、埃をかぶった古い本を高校生が読んで面白いのかと言われると悩むところである。公継個人的には瑞葉同様興味がない。

 そもそも第二図書室に行く理由は読書ではなく掃除である。罰である。

「掃除って言っても今日の放課後にやるくらいなんだし、軽くやる程度だろ?」

「多分、そうだと思うんですけど」

 むしろそうでなければ本の倉庫の掃除など一人で、一日で終わる量ではない上に、たった一回の遅刻の罰としてはさすがに重すぎる。

 ちらりと瑞葉が公継を見上げる。

「ねえ、公継君」

「断る」

 被せ気味に公継は即答した。

「まだ私何も言ってませんよ!」

「どうせ掃除手伝えって言うんだろ」

「お願いします。今度きつねうどんをご馳走しますから!」

「いや、それで釣れるのはお前だけだろう」

「稲荷寿司もつけますから!」

 瑞葉は青い目を潤ませながら、上目遣いで公継に公継に詰め寄る。

 顔が近い。

 瑞葉は、たとえ耳と尻尾がなくても人目をひいてしまうであろう、いわゆる美少女と評価して差し支えない類である。

 そんな彼女に上目遣いで詰め寄られるのだから、公継の顔が自然と赤くなる。いくら普段から仲が良いとはいえども――。

 ここでひとつ、公継について語っておくべきことがある。

 公継が瑞葉と仲良くなったきっかけは先に述べた通りである。

 だが仲良くなったは、彼にとってはそれだけではない。可愛いからというのも確かにあるが、彼にとって、彼女はただ可愛いだけではない。

 好きなのである。

 彼は耳と尻尾が好きなのである。

 公継の本棚、その片隅には動物の耳と尻尾がついた可愛らしい女の子が出てくる類の本がいくつも存在している。それが証拠である。

 ある意味、公継にとって目の前の狐娘は理想のタイプなのだ。

 理想のタイプの女の子に上目遣いで近寄られて勝てる男が居るだろうか。

 必然の敗北だった。

「……わかった」

「ありがとうございます。公継君ならそう言ってくれるって信じてました!」

 瑞葉の耳がぴんと上向きに伸び、嬉しそうに上下に動いた。体もさらに半歩分、公継に近くなる。

 やはり分かりやすい。

「瑞葉、すまないが、その、なんだ。――近い」

 公継は顔を赤くしたまま、小さな声でつぶやいた。

 正直なところ――公継の体に当たっていた。

 柔らかかった。

「あ――。ご、ごめんなさい」

 気づいて、一瞬固まった後、少し慌てながら瑞葉は数歩下がった。

 しかし肌が白いと頬が赤く染まるのがよく目立つようである。

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