三
その後は、いつも通りだった。
瑞葉が古典の授業ですらすらと古文を読み上げたり、数学で頭を抱えたり、いつもと変わらない光景だった。
少し変わったことといえば、まだ睡眠が足りていなかったらしい瑞葉が午後一番の授業で居眠りをしそうになっていたことだろうか。
授業が始まってすぐに瑞葉の瞼が半開きになり、頭を前後に揺らして船をこぎはじめた。公継は消しゴムの欠片を飛ばして起こそうとしたのだが、狙いが悪く、消しゴムの欠片がふさふさの耳毛の中に入ってしまい――瑞葉が「ひゃん!?」と変な声を出したのだ。
結果、起こすことに成功はした。しかし瑞葉が先生ににらまれた。そして公継は瑞葉にうらめしそうな目を向けられた。
そんな、ちょっとしたハプニングはあったものの、あっという間に放課後を告げるチャイムが鳴り、権藤先生のホームルームが終わる時刻まで過ぎた。
各々が下校ないし部活へと向かい始める中、二人は第一図書室から借りてきた掃除道具を両手に持ちながら廊下を歩いていた。
「権藤先生の言ったとおりね」
二人の前を歩く司書の山本先生が小さく笑い、二人は疑問符を浮かべる。
「樟倉寺さんが第二図書室の掃除をするって聞いたときに、権藤先生に言ったのよ。ひとりでやらせるんですかって。ほら、第二図書室ってもともと普通の図書室だったじゃない。だから倉庫のわりに結構広いし、本って重たいものもあるから」
山本先生が公継の方を見る。
「そうしたら権藤先生がこう言ったのよ。たぶん宮藤君が手伝うから問題ないって」
権藤先生にそう断言される心当たりは――。
多かった。
数秒、記憶の海を漁っただけで片手を超えた。
現に今、権藤先生に断言された通りの状況であるのだから何も言えない。思わず公継の口から乾いた笑い声が出る。
「公継君?」
首を傾げながら、瑞葉が公継の顔を覗き込む。
「いや、何でもない」
乾いた笑顔のまま公継は顔をそらした。
そんな公継を見て山本先生はひとつ微笑みながら、第二図書室の鍵を開け、ドアを横にスライドさせる。
真っ先に二人が抱いた感想は「埃くさい」だった。
しばらく人の手が入っていないことがよく分かる臭いだった。この学校の中では、屋上の次の次、ないしその次くらいに開かない扉である事実を十分に主張している。鼻を覆うほど強烈なわけではないが、あまり心地よい臭いではない。
「基本的にいつも閉まっている部屋だから、ほとんど掃除してないのよ」
「朝から気になってたんですけど、罰として掃除させるなんて珍しくないですか?」
何故今回はと公継は山本先生に問いかける。
「それが今度、第二図書室の本の整理をするのよ。それで埃だらけじゃ大変だから先に掃除しようって話が、ちょうど今朝出てきて」
「……そこに遅刻したんですね、私」
「ええ。すごーくタイミング悪く、ね」
つまりこんな日に限って遅刻するなんて間が悪い、というやつである。山本先生は「運が悪かったわね」と苦笑する。
「そういうことで罰なんて正直恰好だけなのよね」
「恰好だけなら免除って選択肢は?」
公継の質問に、山本先生は肩をすくめる。
「恰好だけでも整えないと、私が権藤先生に呆れられちゃうもの。埃を払ってもらえれば、それでいいから」
それじゃあ頑張ってねと軽く手を振り、山本先生は第一図書室へと帰っていった。
公継は第二図書室を向き直る。
実のところ、公継にとって第二図書室は初めて入る場所である。意外と広いというのは人づてに聞いていた。だが、まさか部屋の広さを感じられないほどに本が雑多にあるとは思っていなかった。
一言で表すならば、とにかく、ものが雑多に積み上がっているのだ。
本棚の配置自体は普通の図書室と同じである。列状に並んでいたり、壁を埋めていたり、窓をふさがないように低いものが置いてあったりしている。だが、それら本棚に、通常通り入りきらなかった本が無造作に積み上げられて置かれているのだ。一部では本棚からはみ出しているものも見える。加えて通路をふさぐ形で段ボールが置かれているのも見える。
ものが多くて、雑なのだ。
かつてここに本を収めた先生方先輩方はきっと、もろもろ面倒くさかったのだろう。後で整理するからとりあえず置くだけ置いておこうとか、そんな話もあったのだろう。そしてそのまま整理することなく現在に至る、という筋道が公継には容易に想像できた。
そんな先人たちが先延ばしにしてしまった現状に、誰かが目を向けたのだろう。だから、今度整理するなんて話が出て、その前に掃除しておこうなんていう話になったのだろう。どれだけ先延ばしにされていたのかは積もった埃の年季の入り方から見てとれた。
「埃だらけ、ですね」
「そりゃあ人が入ってないからな」
「あとで尻尾が大変なことになりそうだなぁ……」
自分の尻尾を見ながら、憂鬱そうに瑞葉がこぼした。耳にも元気がない。
「……窓、開けるか」
そうすれば幾分かこの埃っぽさもましになるはずである。憂鬱加減もきっと、わずかかもしれないが、ましになるはずである。
「私、開けますね」
瑞葉は本棚や段ボールの間をくぐりながら窓に近づき、右手を伸ばした。しかし窓の前に本やら段ボールやらが積んであるせいで、指が窓の鍵に届いていなかった。瑞葉は手を頑張って伸ばすが、届かない。
「俺が開けるから無理するな」
「大丈夫、です、っ!」
瑞葉は一番手前にあった本の塔の上に左手を置き、身を乗り出して手を伸ばす。尻尾でバランスをとっているのか、体が前のめりになるにつれて、尻尾の先が後ろへぴんと伸びる。
瑞葉が左手を乗せている本の塔が、少しぐらついた。
公継は嫌な予感がして、瑞葉の後ろに近寄る。尻尾がふわりと公継に当たるが、瑞葉はそんなことに気づく様子もなく、左手にぐっと力を込めてつま先立ちになりながら、さらに身を乗り出す。ほとんど本の塔の上に乗っているような恰好である。
「もう、すこ、し!」
精一杯伸ばした指先が窓の鍵にかかった。かちりと音がして窓の鍵が開く。
そのまま瑞葉が窓を開けると、窓から新鮮な空気が入ってきた。
「やった! ――あれ?」
窓が開いて少し気が抜けたのだろう。瑞葉がバランスを崩し、左手を置いていた本の塔が大きくぐらついた。
「危ない!」
瑞葉の首根っこをつかんで、公継は瑞葉を後ろへ引っ張った。「ぐぇっ」と、可愛らしい少女が出すには少々えぐすぎる声が聞こえた気がするが、気にしてはいけない。
その一拍後、瑞葉が先ほどまで左手を乗せていた本の塔が小さく崩れた。上にあった二、三冊だけ、本の塔から落ちて床に転がる。
「何するんですか!」
尻尾の毛を逆立てながら、瑞葉が抗議の声を上げる。
「あのままだと危ないと思ってな……」
「それにしたって、もうちょっとやりようはなかったんですか。せめて首以外で」
「いや、その……」
仲が良いとはいえ、相手は女の子である。
おいそれと体を触るなんて度胸は公継にはない。そんな度胸があるのなら、耳とか尻尾とか触ったり撫でたりしたい。できることならあのふかふかの尻尾を抱きしめたりしてみたい。しかしできない。公継はそんな男子高校生である。
首根っこというチョイスは正直、公継自身どうかと思ったが、他に思いつかなかったのだ。だが出させてはいけないような声を出させてしまったのは、申し訳ないとも感じていた。
「ごめん」
公継は頭を下げて謝った。
その時、ぱさりと音がし、先ほど崩れた本の隣に積み上がっていた本の山が大きく崩れた。それに続いて、崩れた本の山に支えられていた段ボールがひとつ落ちた。
落ちた段ボールが本棚に当たって、鈍い音がし――。
――その時点で再び嫌な予感がした公継は、再度瑞葉の首根っこをつかんで飛びのいた。
二人が飛びのいた直後、本棚の中にはみ出すように積み上がっていた本が雪崩のように流れ落ちた。
埃が舞い上がる。
二人はそれをもろに吸い込んで咳込んだ。たまらず第二図書室の外に出る。
「だいじょうぶ、か」
「だから、くびは、だめですって」
「ごめん」
咳は出るわ涙は出るわ、大惨事だった。しかし幸いなことに、二人に本が体に当たるようなことはなかった。とっさに飛びのいていなければ、たんこぶのひとつやふたつはできていたかもしれない。
ひとしきり呼吸が落ち着いた後、まだ喉に違和感を覚えながら、二人は第二図書室の中を改めて覗いた。
「「うわぁ」」
二人が無意識に声をそろえるほどの惨状があった。
何がどうして、どのようなバランスで入っていたからこうなったのかは知らないが、窓の近くにあった本棚の中身がすべて床に散らかっていた。
さながら瓦礫の山である。
この部屋に来る前よりもひどい有様である。掃除をしに来たはずなのに、掃除を始める前からこんなことになろうとは。もともと憂鬱さを感じていた二人だったが、さらに気分が沈みそうだった。
「片付けないといけないよな、やっぱり」
「ですよね」
ここで、面倒だから放っておこうなんてことができる性格だったならば憂鬱になることもないのだろう。しかし二人とも基本的に善悪でいうところの善側だった。
「仕方ない。やるか」
気合を入れるべく公継は上着を脱いでシャツの袖をまくる。
「はい、がんばりましょう」
その隣で瑞葉も、同じように上着を脱いで袖をまくる。
「――くしゅん!」
小さく、かわいらしいくしゃみが聞こえた。
「風邪、ひくぞ?」
「この方が気合が入るかなって思ったんです」
瑞葉は少ししょんぼりしながらシャツの袖をなおし、再度上着を羽織った。
気を取り直して、二人は瓦礫のように転がる本の山を片付け始めた。
しゃがみこんで本を数冊拾い上げ――拾った本が何かの支えになっていたのか、他の場所がさらに崩れた。
今度は慎重に本を選んで拾い上げ――窓から強い風が吹き込んで、ぱさりと他の場所が散らかる音がした。
「終わる気がしねえ……」
拾い上げた本と、散らかった本の山とを見比べる。拾い上げた本の数よりも、さらに崩れたり散らかったりした本の数の方が多く見える。
「仕方ありません。最終手段です」
「最終手段?」
「
妖術。
ファンタジーの中でよく聞く単語である。
魔術や呪術といった単語の仲間である。
よく分からない力を使って不思議なことを起こす、あの概念である。現世で普通に生活を送っている上では見たり聞いたりすることがないものである。
彼女は、それを使えるのである。
幽世の由緒正しきお狐様である瑞葉は、そのようなファンタジーの中にしか存在しない力を使えるのである。
伊達に耳や尻尾が生えているわけではない。
「みだりに使ったらいけないんじゃなかったか、それ」
「はい。みだりに使ってはならないと、こちらに留学するときに言われています。でも、今回使うのはみだりにではありません」
瑞葉は腰に手を当て、胸を張る。
「前もそう言って使ってろくなことにならなかった覚えがあるぞ」
以前――細かいことは省くが、のっぴきならない事情があって妖術を使った結果、公継が空を飛んだ挙句に川に落ちてずぶ濡れになったことがある。
「今回は大丈夫です!」
疑いの眼差しを向ける公継に、瑞葉は親指を立てて返す。
「ちょうどいい術をおばあちゃんから教わってます」
そう言うと瑞葉は自分の尻尾を手櫛で梳いて、いくらか毛を抜いて手に取った。
「……もうちょっと、必要だったような?」
首を傾げ、もう一度尻尾の毛を梳いて取る。
「それで、この後は、えっと……」
「……大丈夫か?」
「大丈夫です。見ていてください!」
自信満々に返すが、どう見てもうろ覚えの空気が漂っている。
瑞葉は手に取った自身の毛を上に放り投げ、手を組んで印を結ぶ。
「ていっ!」
印を組んだ手に力を入れると、ぼふん、という間の抜けた音がした。
煙のような湯気のような
まるでマッドな科学者が実験に失敗したときに出る謎の煙である。
「本当に大丈夫なのか!?」
「はい、成功です!」
瑞葉は小さくガッツポーズする。
もやもやが晴れた。
ちび瑞葉たちが、そこに居た。
瑞葉を丸っこくデフォルメして二、三頭身のぬいぐるみにしたような毛玉たちだ。
大きさとしては二十センチくらいだろうか。手のひらに乗りそうなサイズである。デフォルメされているためか、身体に比べて耳や尻尾は本人よりも大きくなっている。そして本人と同じく柔らかそうである。
ちび瑞葉が数十、並んでいた。
――かわいい。
公継の心の声が口から出かかったが、瑞葉の手前、公継はなんとか飲み込んだ。
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