魔女のお茶
ふと、後ろを振り返ると私が歩いてきた道が草木や落ち葉によって消えていた。周囲を見渡してみても、同じ景色ばかりで方向が分からなくなってしまった。
怖くなって私は走る。道も分からないのに早くこの森から抜け出そうと無我夢中で走る。そのせいで足元に転がる小枝に気付かずつまずき、転んでしまった。その拍子に腕を擦りむいた。
痛くて泣くも誰も慰めてくれる人はいない。いつもならお母さんが優しく慰めてくれるのに今は誰も頭を撫でてはくれない。
涙を拭い立ち上がると、目の前にバラのトンネルが見えた。
さっきまでこんなものはなかった。それに、そのバラは空の色を吸っているかのように青い花弁を咲かせていた。
とっても不可思議なトンネル。枝の間から零れる光が、おいでと誘っているかのように道を照らす。不思議と嫌な感じはしない、それどころかさっきまであった不安感がどこかへ消えていた。
トンネルを潜り抜けると、花の香りと共に赤、白、黄、青のバラの花壇が目に入ってきた。
その小さな庭園は太陽の光に照らされて輝いていた。バラの一つ一つが宝石のようで目を奪われてしまった。
「あら、もしかして迷い混んでしまったのかしら」
清んだ声と共に花壇の陰から銀のじょうろを両手にお婆さんが顔を出し、こちらを見ていた。
「ごめんなさい、勝手に入ってしまって。すぐに出ていきます」
怒られないうちに早くこの場を去ろうと踵を返す私にお婆さんは優しく声をかける。
「大丈夫よ、迷子のお嬢さん。その腕のキズも診てあげるからいらっしゃい」
暖かな微笑み。不思議と何の不安も感じず、お婆さんが招く方へと歩く。
白いテーブルへ招かれ、私が座るには少し大きな椅子に腰かける。
私は紅茶をカップに注ぐお婆さんを観察する。
白く染まった髪、年齢を思わせるシワ、けれどそれは老いを感じさせるどころか、年相応の美しさを際立たせている。このお婆さんの若い頃の姿はとても綺麗だったのだろうと、想像する。
ミルクはいるかしら、とお婆さんの問いかけに私は慌てて頷く。
まじまじと見つめ過ぎてしまったと反省し、庭の方へ視線を向ける。
整った綺麗な庭。余り園芸の事は知らないけど、この庭はとても大事にされているんだな、と素直にそう思える。
「お嬢さんはどこから来たのかしら」
紅茶のカップを私の前に置きながら穏やかな声で問いかける。
「家族とキャンプをしていたら森で迷ってしまって、それで気付いたらここに」
「そう、それは大変だったわね。紅茶を飲み終わったら送ってあげるわ」
そう言うと、お婆さんは席を立ち近くの花壇から花や葉を摘み、持っていた鉢に入れていく。
何をするのだろうと、不思議に思いお婆さんに問いかける。
「今から傷薬を作るのよ。私は魔女だから」
その言葉に驚き、席を立ち上がってしまった。そんな私をお婆さんはおかしそうに笑っていた。
「安心して、絵本の魔女とは違って私はただ薬草に詳しいだけのお婆ちゃんだから」
それだけ言うとお婆さんは鉢に入れた薬草を摺り始める。まるで今出て行っても何もしないと言っているようだった。
私はとても失礼な事をしてしまったと気付き、大人しく椅子に座り直す。
自分を魔女だと言うお婆さんは静かに傷薬を作り続ける。
私は黙って紅茶を飲みながらお婆さんを見つめる。でも、静か過ぎてどうも落ち着かない。
「お婆さんはずっとここで暮らしてるんですか」
気づけばそんな質問をしていた。
「ええ、ずっと。時間を忘れてしまうほどに」
お婆さんは手を止めずに、質問に答えてくれた。
「寂しくは、ないんですか」
その質問にお婆さんは手を止め、庭を眺め少し微笑む。
「そうね、毎朝小鳥たちが起こしてくれるし、お庭のお手入れもあって忙しいから、そう思ったことは無いわね。それに、たまに貴女のように迷い混む子がいるから寂しくは無いわ」
そう語るお婆さんは嬉しそうに笑う。その表情はとても綺麗で思わず見とれてしまった。
「できたわ、傷を見せて」
側に来たお婆さんに腕を出し、傷口を見せる。
「これなら傷痕は残らなさそうね」
お婆さんは鉢の液体を指ですくい、傷口に塗る。
染みる、と思い身構えていたがそんなことはなく、気付けば包帯が巻かれていた。
「これでもう大丈夫よ」
「ありがとうございます。すごいですね、全然痛くないです」
紅茶のお礼も一緒に深々と頭を下げる。
「いいのよ。でも、もう帰らないといけないわ」
お婆さんは遠い空を眺める。私もつられて空を見ると、空が赤く染まっていた。
驚きで言葉が出なかった。さっきまで空は青く、太陽は真上にあった。一体何が起きたのか。
「こっちよ、お嬢さん」
お婆さんが私の手を取り引っ張る。急なお婆さんの行動に驚くもそれ以上にお婆さんの声には焦りがにじんでいた。
バラのトンネルの入口でお婆さんの足が止まる。
「云い、ここから先は貴女一人で行くのよ。決して振り返らず、真っ直ぐ走るのよ」
お婆さんが指差す方を見ると、そこには森はなく、白い道とそのずっと先に眩しい光が見えた。
「また、会えますか」
お婆さんの声から急いでいる事と私を案じていることは分かった。だからこれだけは確認して起きたかった。
「ええ、またいつか会えるわ」
お婆さんは優しく私を抱き締める。その時花の良い香りがした。
「さぁ、振り返らず走って」
私はお婆さんの声に押され、走り出す。光に向かって、振り返るのを我慢して。
光に近づくにつれ、光量が増していく。あまりの眩しさに目をつむるが足を止めることなく走り続ける。
目を開けると見えたのは白い天井で、私はベッドで寝ていた。
「目が覚めたのね」
隣から声が聞こえ、視線を向けるとお母さんが涙を流していた。
「川で流されてる貴女を見つけたとき、生きた心地がしなかったわ」
お母さんはハンカチで涙を拭う。
川。そうだ、思い出した。私は川を眺めていた時、足を踏み外して川に落ちたんだ。
じゃあ、あれは夢。バラのトンネルもあの紅茶も魔女のお婆さんも、全部夢。
落ちた時、岩肌で怪我したはずの右腕のキズを見る。そこにはあるはずの傷も包帯もなかった。
私は心の中で少し笑う。魔女のお茶はおいしかったな、と。
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