第379話 スサーナ、プランBを邁進する。
プランB。大の字で川の真ん中を流れてやろう、と決めたはずだったが、大体事態が起こる前に決めたことはうまく行かないものだ。
スサーナは物陰に潜みつつ、心の底から困惑していた。
――あれは……
眉を寄せた顔を見上げて、両腕で抱えた黒猫がにゃうんと鳴いた。
夢で見たのによく似た、穏やかな春の光景の只中だ。
今や盛りと咲き誇る種々の花々に、いかなる過不足もなく、理想的な葉枝のバランスで刈り込まれた低い木々。
白日夢ではこの桃源郷めいた風景は陽光の下にあったが、夢で見たタイミングより少し時間か場所がずれているのか、春の園側での事情なのか。今は外の時間と多分対応しているのだろう夜中を示して暗い。とはいえ真っ暗というわけではなく、全景は紺のフィルタ越しのような、海の中にも似た夜の青の中に沈み、大体明け方前の暗さに近い、と言えば丁度だろうか。全景を見渡すのにそこまでの苦労はない。
貴石と思われる、桃色がかった大岩の影にしゃがみ込んで息を殺しながら、スサーナは眉を顰めている。
スサーナが困惑しきっているのは、謀反人のメンバーが夢と違う――有り体に言えばいくらか少ないので、良いことなのかもしれない――ということでも、その中に垣間見えた知った顔……つまりサラが、捕虜にされている、というよりも謀反人達に付き従っている、というような関係に見えることでもない。
いや、それもとても困惑する事態であるのだが、とりあえずそれどころではなく――
逃げているのだ。
視界の向こうで、六角形の各辺に虫じみた足がついたようなフォルムの、やや大きめの亀ほどの謎の何かがわらわらと群れになり、謀反人達に追いすがっている。
なにか、現世のものとは思われぬ女の影じみたものや、スライム、でなかったらショゴスを連想するような、という真っ黒な粘性の強い泥じみたものが謀反人達のやや後ろ、六角形たちとの間に入るような位置取りで移動しているのだが、六角形の何かは跳ね上がるとそれらに飛びつき、前足らしき場所を突き刺したり、齧りついたり、どうやら攻撃しているように見える。
――なんです、あれ……、魔物? でも、自然のものには見えない……
猫を追ってきた先で、湧き上がった物音だとか叫び声だとかに慌てて身を隠したものの、まさか見えるのがこんな光景だとは思わなかったもので、ちょっとどうしたら良いのかわからない。
飛び出してしまったりしないように反射的に抱え込んだ猫をもふっと抱え直し、スサーナはそっと岩陰から行く手を確認し直す。
暗く澄んだ青色を透かした向こうで、襲われ、逃げているように見えるのは白日夢で見た貴族たち。糸を掴んだ時に見た誰かであると確信できる老貴族。宮廷内で姿を見たことがある気がするものがいるのも癪だが、謀反人に違いあるまい。
謀反人達はどうやら異形のものたちに指示できる人間がいるようで、時折響く声を聞けば、意図的にどろどろや女性の影を盾として距離を稼ごうとしているようだった。
捕虜……は縛られているわけではなく、夢で見たようにすぐ側に武器を持った誰かが張り付いて移動しているというわけでもない。一番うしろにいる異形達と、それらに気を配っているらしいスサーナが糸を追ってきた老貴族以外はそれぞれ走っているらしく、各人の間にやや距離は開き、ある程度一団ではあるものの、お世辞にも規律が取れた状態とは言い難く見える。
――レオくん!
捕虜の娘たちの側、彼女たちと速度を合わせるように走る少年の姿を確かに認め、スサーナはほっと息を吐いた。
――一緒にいた……! やっぱり、状況は夢に近くなってる? あのあとなにか捕まるようなことがあったんですね……
見慣れたキャラメルブロンドの髪の王子は、衣装は先程部屋を出たときの浴衣とサンダル履きという格好のまま。盛装の周囲に混ざった姿を見れば場違いで、それがどこか凄惨な印象を誘ったけれど、遠目で見た姿は五体満足で走る姿から見てもどこかひどい怪我があるとか具合が悪いという様子は見えず、それだけでもへたへたと力が抜けるような安堵を感じる。
――良かった、まだ何かされているという感じはない……
一瞬安堵に絡め取られかけ、それからスサーナはいやいやと再起動する。
――夢と近くなっていて、でもある程度差異はある……、けど、むしろ悪化している部分もあるというか……
レオくんが五体満足で無事そうなのは良かったけれど、同じ視界に捉えたサラは他の娘たちやレオくんとは違い帯剣を許されており、どうもアブラーン卿が叫ぶのを聞けば、少なくとも彼に従うものとして扱われているという感じがする。
そのうえ、レオくんも、それから乙女たちとサラも謀反人たちと一緒にいて、さらにその上謎の六角形に追いかけられているのだ。
現状はレオくんを見つけただけで、何一つ解決していない。
襲われている、のは間違いないだろうと思う。
襲っている側……六角形はといえば、六角形としか呼びようのない形をしており、遠目では脚以外に他の構造があるのかどうかもわからない。色はつや消しのややグレーがかった白で、種々の特徴に目を瞑れば、カメムシに似ていないと言えないこともない。もしかしたらあんな動物や魔獣も存在するのかもしれない、とは思う。スサーナにはどうにも人工物にしか見えないのだが。
――それで……あれは……春の園、の、備品……とか……?
どうにも世界観がドずれた先進文明の産物に見えるものが目に飛び込んできたせいで先程はたじろいでしまったが、さっき通ってきた人工栽培場を思えば――というか、魔術師さんの関係であれば多分おかしいものではないので――あの六角形も春の園に関係するものだと思うのが普通か、とスサーナは思考を立て直す。むしろそれ以外であったらちょっと怖い。
――と、とりあえず、どうするにせよ、ある程度……距離を詰めるべき……ですよ、ね。
スサーナは短い呆然の後、カリカ先生に教わった急襲のセオリーをいくつか思い返し、とりあえず判断材料を増やすためにも行動の選択肢を増やすためにも、ある程度近づくべきだ、と結論づける。
「猫ちゃん、少しいい子にしていてくださいね……」
超自然猫の可能性が高いので、この猫を地面におろしてもここで気まぐれにおかしな六角形に近づくとか対象にバレるように動いたりすることは無い気がしたが、一応念の為に黒猫をしっかり抱え直してそっと声を掛け、スサーナは身を屈めて行く先を伺った。
――あの人達は他に意識を配る余裕はなさそうですし……あれは他には……いなさそう? そこそこ大きいし暗くても目立つのはありがたい……
運がいいことに、と言うべきか、それとも周辺のそれらが全部謀反人達の周りに集まっているのか、彼らから見れば手前、スサーナからすると進行方向の美しく整えられた生け垣や庭木の周りには六角形をしたなにかの姿は見えず、スサーナが隠れながら近づこうとするのを阻むことはないように思える。
「行きますよ」
にゃうと返事があり、抱えた黒猫の尻尾がぐるんと背中に回ったので、これは明らかにこちらの行動意図をも理解しているものわかりのいい超自然猫の所業だと思ったが、意思疎通について突き詰めるのは後で良いことにする。
手近な物陰から物陰へと小刻みに距離を切って走る。
それはそれとして、大きな猫を両腕で小脇に構える形で突進してくる浴衣の娘など、だいぶ状況にそぐわなさがすごいので視認しても困るだろうな、と少し思ったが、クリアリングの度にこちらに意識を向ける様子はどちらも見えず、どうやら見つからずに済んでいるようだとほっとした。
――それより、と言いますか、現状を踏まえて、と言いますか、今考えるべきは……
距離を詰めつつ思考する。
なにせ、相手が人間なら自分でもある程度なんとかなるだろう、という見込みで始めたはずのプランBである。まさか謎の六角形が想定に入ってくる瞬間なぞ当然無い。
――ある程度近づいて、様子を見て……ええと、その後どうします……?
謀反人だけなら不意を打てば打てるのではないかと思っていた部分もあったけれど、現状だとあまり有効という気はしない。
――むしろ、これなら……ある程度合間はあるし、謀反人の方々が即応できなさそうなのに乗じて、レオくん……あと、出来たら乙女の皆さんを横からかっさらう、とかの方がいい……?
掻っ攫ったところで脱出ルートが解っているわけではないのでそこは問題ではあるのだが、捕虜の皆は来たルートは解っているのだろうし、このまま同行させるよりいい気はする。
とりあえず、六角形(仮)が、一体どういう機能のものか、というのが重要だ。
――あれは厄介なものなんでしょうか、それとも私には都合良く働くものなんでしょうか。
なにせ、ここは多分春の園で、そんな場所に魔獣だか、ともかくエネミーだとかモンスター系列のものは普通に考えるならいないはずだ。となるとあれは王家のもの、と仮説が立つ。立つはずだ。立って欲しい。前世での創作に慣れた記憶からはそれまでの脈絡とは全く無関係に唐突かつ同時多発的に蘇る古代文明の「いろいろなアレ」だとか、いきなり宇宙から超文明が襲ってきたとかそういうアレも浮かぶけれど、常識的に考えて。
謀反人を捕縛しようとしているだけ、なら良し。
第三塔さんの姿は彼らと一緒にはなく、謀反人達のうち数人、肝が座っていると思われる者は付与具の剣を手に走り、横手から近づいてきた六角形を威嚇したりもしているし――何故かサラも剣を手に、しっしっと叫びながら振り回している――どろどろとした黒い泥のような魔獣や、靄のようにけむる焦点を合わせられない女性めいたものはスサーナが観察するこの短い間にも触れた六角形に絡んで砕いたり、よくわからない力でボロボロに風化させたりしているけれど、なにせ六角形のほうが圧倒的に数が多いのだ。
カリカ先生によれば。――戦いは数だよ、とまでは言わなかったけれど――攻め手が多い方が常に有利だし、普通の人間は戦い続ければ疲れて弱る。人ならぬものはその限りではなかろうが、今見えているもので判断するなら指揮しているのは人だ。
だから、六角形が王家の命令で謀反人を殲滅、もしくは捕縛しようとしているなら、スサーナが横手から突っ込んで隊列を混乱させ、隙を作ってレオくん以下捕虜を逃亡させても手が回らなくなる瞬間、というのはきっと来る。
――それなら後は楽に済むかも、と期待が持てる……、場合によったら何もしないほうがいいかもしれないレベルですよね。今は第三塔さんも見当たらないから、彼我の戦力を考えると、あの六角形のほうが有利そう……?
ただし、だ。
そうでない場合。例えば。六角形が春の園のものであったとしても、例えば無差別に侵入者を攻撃するとかそういう役目のものだった場合はそう悠長にしていられないかもしれない。
――お妃様を置く場所でそんな、とも思いますけど、番犬が強盗と強盗が連れ込んだ人質の判別ができるか、と言い換えたらわかんないですものね……
その上少なくとも、レオくんのお父上、今の王様の代には使っていなかったのは間違いない場所だ。数十年単位稼働していない機械装置、と例えると、いかに魔術師の産物であっても誤作動をするだとか、初期設定にロールバックしてあるだとか、色々問題は出そうではないか。ただでさえ、「いろいろなアレ」でなくとも、あの手の形のロボの形状は古代遺跡で無差別に襲ってきそうな印象がある。ハヤカワの白かったり青かったりする背表紙のやつで比較的おなじみの展開だと言えよう。
後者である場合、正直本当に臨機応変という感じの行動を取るしか無い。レオくん達に危害が及ばないよう庇うというのは必須になりそうで、場合によったら謀反人に協力して――出来たらレオくんたちだけを――六角形から逃がすまである。プランB′にもほどがあるというものだ。
どちらかですべき動きが大きく変わるぞ、と考えたほんの数秒あと。幸か不幸かその判別ができる瞬間がやってくる。
ほんの二,三十メートル先。
今なら逃げられる、と思ったのか、それともまっすぐ足の進むまま走ったら少し進行方向がずれたのか。いくらか隙間が開いたところを走っていた娘の一人が囲みから少し外れた。
「危ないっ」
後方、冗談のように跳ね上がった六角形の足の先は、蜘蛛の足の先を抽象化して金属で模せばこうだろうか、という鋭角の杭のようになっている。
駆け寄ったレオくんが跳躍してきた六角形の前から娘を引き寄せ、彼女の居た場所に尖った足先を突き立てた六角形はきいきいと甲高い音を立てて地面に
六角形は前足を上げたような形で動きを止め、その間にレオくんは少女の腕を掴み、走りながら一同の内側に入れようとしたらしい。
しかし、六角形の不規則な動きに怯んだ
たたらを踏み、つんのめって人の群れから外れたレオくんと乙女の一人に、スサーナは息を呑む。一瞬の間に起こった出来事にやや後ろにいた老爺が焦りを含めた舌打ちをしたのがスサーナにまで聞こえたのは気の所為だったろうか。
――あーーっこれは完全にどこに出しても恥ずかしくない
スサーナは思案を放り捨て、猫をその場の物陰にリリースすると猛然と駆け出す。
続いて跳躍した六角形の数体が彼らの前に着地していく光景が、薄暗いくせに妙にはっきりとスローモーションじみて目に映った。
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