第377話 第五王子、目覚める。
彼が目を覚まして最初に感じたのは臓腑に指を突っ込まれて掻き回されているような生まれて初めて感じるような不快感と吐き気だった。
続いて知覚したのは手足の芯に鉛でも詰まっているかのような倦怠感。全身に漂う違和感は痛みに変わるギリギリ手前のところで、しびれすら伴っているようだった。
曰く表し難い感覚にうめき声を上げ、それが誰かの指で塞がれたのを感じる。
――何だ……
――確か、僕は…… 部屋に行こうと…… そうだ、あの令嬢。
今まで自分は何をしていたのだろうと不快感でぐちゃぐちゃに混ざる思考に強いて、思い出せたのは不吉な光景。レオカディオはぎょっと目を開く。
最初に目に入ったのは
それがぐっと押さえつけられて数秒、自分が誰かの……髪の色からすれば、魔術師の肩の上に担がれているということをゆっくりと理解する。
しばしして、押さえつけられた手の圧迫が収まり、それを意識したところから、かき混ぜられるような不快感から意識を反らせるようになったことをふと自覚した。
「どうぞ声を上げぬよう」
聞こえた声は静かな、男のものだった。
ほとんど口を動かさない、抑えた声音。
言葉だけなら脅しとも彼らの高慢さからの指図とも取れたが、そうして声を潜めて、そのうえで声を掛けてくるのなら、こちらをある程度対等に見ているものではないかという期待は出来る。
疑問を込めた視線を向ければ、それを確認した相手はこちらに目線だけ向けていたのを正面に振りもどし、それから一瞥もないまま、低い言葉だけで応えがある。
「多くを説明する余裕はない。貴方は謀反人に囚われた。彼らは最奥を目指している」
声を上げるなと言われたことは覚えていたものの、反射的に何をと叫びかけたそれは、丁寧にまた封じられる。
残った記憶を辿ると、そういう現実に即したものとはどうも思えないものであったけれど、そっと周りを見れば、記憶に残るあの禍々しいものの側にいる、付与具で武装した数人は確かに貴族らしく、夏の事件よりいくらか穏やかならぬ噂の渦中に居た者もあったので、それは正しい説明であるのだろう。
――ここは……どこなんだろう。麦畑? 謀反人が目指す最奥と言うなら……
ああ、ではここは春の園だ。レオカディオは体の芯がすくむような感覚を覚える。
王宮はそのすべてが人の理解のうちにあるものではない。
いや、人の領域、王の支配する土地である、と、いうのは間違いのないことではあるが、その地下に備えられた重要な施設のいくらかは、今のレオカディオでは想像だにできぬ技術で形作られた、古い時代に神々にくだされたものに由来するものなのだという。それにたどり着くには春の園の入口を通過する必要がある。……というより、春の園がそれの一部なのだ。
――謀反……このタイミングで、ああでも、だからか、テオが影武者として出るとは、急に決まるには不自然だった――
父は、母は、大丈夫なのだろうか。会場は襲撃を受けたりしたのか。ギリェルモや他の重臣たちは、テオは。兄たちは皆今日の予定は確かに皆警備のしやすい内向きの何処かに留められていたはずだったけれど、十分守りやすい場所だったはずにいた自分が今こうしているのだから、他の兄弟たちだって十分襲われた可能性はあるのだ。
見回し、他の兄弟たちの姿が見えないことにすこしだけ安堵した。
――となると、なんで僕だけ。
入浴後の無防備な状態で飛び出してしまったのが悪かったのだ――他の兄弟たちはきっと廊下に出たりすらしなかったのだろう――という当然の帰結からは少し目をそらしたい気持ちで、自分が今日の宴に出るはずだったことにも意味があるのかもと考え、とはいえ実際出たのはテオであったので、自分がそこに名を連ねていたことが直接のその原因ではないと結論して、一応にも反省する。
ああしたことは感情の上ではどうにも避けがたく思われたけれど、他の穏当な手段を思いつければもっと良かったし、せめて上着ぐらい着て行っても良かったのだ。
本当に衝動的に飛び出してしまって、そのほんのひと手間が取れなかったからこそ、自害のための小刀すら身に帯びずにこんなところで囚われているのは王子として愚かなことだ。
それでも、会場にも襲撃があったのだろうと理解できる、先を歩かされている乙女候補だった娘たちにとても心を痛めながら――あのままあの部屋にいればあそこにあの亡霊じみた娘が現れたのだろうと理解できたから――彼女を巻き込まずに済んだという一点は、自惚れてもいいのかもしれないと不合理な心の何処かが安堵した。
「……身体の違和感はそろそろ改善しきるはずだ。だが、ここで逃亡を試みるのは勧めない」
歩行の揺れと、魔術師が自分を担ぎ直す動きの余波で周辺を一通り見て、状況にある程度納得を覚えながら、レオカディオは密かにいぶかしむ。
――しかし、この魔術師は何者だろう。
彼を抱えたまま、前を歩む魔術師達とはいくらかの距離を開け、後ろに固まって歩く謀反人らしきものたちともさり気なく間を取って、囁く余裕を取っていると見える魔術師は、横目でいくら見ても見覚えのある容姿はしていない。
どうやら謀反人達と同行しているようで、ならば前に行く魔術師達と同じく、現王に敵するものなのだろうけれど、それだけならこうして声を潜めて自分に語りかける理由はない。
無条件に味方だとするには魔術師というものは人の権威に敬意を払わず、彼らだけの論理で動くものだと学ばされたものだが、この見知らぬ魔術師がまるで味方であるような挙動を取るのはどうしたことだろう。
――罠、とか……、は、魔術師ならあまり考えられないかな……。こう気まぐれに味方かと思わせるように振る舞っておいて、僕を殺すのは少しも躊躇しない、というのは魔術師の行動として”らしい”けど……
それにしては、状況が流石に少し重いだろうと思う。
流石に魔術師にも、進行中の謀反は意味のある事象だと思う。思いたい。一応、それを前提にしてみると、適当な戯れではなく、まともにこちらに力を貸している者だと思うのが相当だと思われた。……そう思いたい。
いかなる対価を払ってのことか、父王か、でなければ王軍長が手を回して仕込みでもしたのだろうか。
あなたは、と口の動きだけで問いかけてみたものの、気づかれなかったか、黙殺されたものか、特に反応は見られなかった。
麦の香を乗せた風が吹く。
目を動かせる範囲だけで見える左右はずっと見事に揃った麦畑だ。
いくらか歩いた、と感じる時間。
ひたりと立ち止まった魔術師に不審を感じたその直後、レオカディオに目もくれずに魔術師の横を抜けて謀反人たちが前に進んでいく。
身を捻って見えた正面では、先に歩かされていた娘たちの前にどうやら女性らしい人影があるように見えた。
謀反人達は少し先で魔術師のひとりに留められているようだと見たそれから、何秒あったろうか。
「あの悪霊が貴方をここに運べるまでの影響力を持つのは不測だった。――見つけられず、取り上げられるな。これが貴方の生存を守る」
横から響いた言葉とともに手の中に差し込まれたのは鈍い銀色をした、金属らしい触感の板らしいものだった。
ぽってりしたフチ。表面には枠らしい刻みと、その内側には形こそ普段使う文字にどこか似てはいるけれど読むことのできない、謎の文章が彫られている。
多分護符の一部だ、と、レオカディオは見慣れたものとの共通点から悟る。
急いでそれをポケットにしまい込んだ、その一瞬後。
わっと悲鳴が響く。
はっと目を向けたその先、先程まで女性に見えていたものはもはや異形にしか見えはしない。
じゃらりと鎖が鳴り、横でふっと重い息が吐かれた気配がして、手を延べた魔術師の指の直線の先、小さな光の板が少女に向けて身を屈めかけたように見える女だったものを阻んだのを見た。
娘たちが転がるようにこちらに向けて駆けてくる、その間を抜けて、レオカディオには見覚えのない魔術師たちが前方に向けて駆けていく。
「ち、警鐘集合が予想より早い」
「くそ!増えやがったか…… お前も手伝えよ! 今ので燃料切れっつっても
そのうち一人が振り向いて声を上げるのにつられ見ると、同じような奇妙な形のものが数体、麦畑を揺らして近づいてくるようだった。
「敵と認識されたのはあれらだけだ。彼らが囮として使えるこの機を逃すな……ゆくぞ!」
謀反人の一人、老人と言って差し支えない年齢の男がやや魔術師たちに警戒を向けながらも低く叫ぶのが見える。
肩から降ろされる感触にレオカディオは瞬いた。
「王子が目覚めたぞ。比較的衛士が動いていないルートは西だ。――行け」
謀反人達に向けた強い声。彼らが一団となっている方にどんと押され、慌てて駆け寄ってきた謀反人の一人に腕を取られる。
異形から逃げてきた娘たちを後ろから追いたて、レオカディオの袖を掴んだまま走り出す謀反人の一人に引っ張られながら、レオカディオは一時後ろを振り向く。
ざわざわと麦鳴りが響く中、彼を抱えていた魔術師が増え続ける異形と争い出した魔術師たちのほうに歩いていく姿が見えていた。
やはり、どうしても、どうしても絶対に、春の園という場所は好きになれそうにない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます