第376話 加害者たちと被害者たち、春の園を体感する。
扉の先に踏み入った魔術師達がまず行ったことは、捕虜の乙女候補達を先に立たせることだった。
まさか罠に怯えてでもいるものかと
武具と魔獣を従えた謀反人達は恐ろしく、魔術師というものもまた恐ろしい。
先に立って歩けと指示された娘たちは一瞬儚い抵抗を示しかけたが、モニカが打たれてよりすっかりと心がくじけた彼女らは、苔緑の衣装に白石の面を着けた魔術師が繰り返した同じ言葉の冷たい気配に怯え、竦みながらも彼らの促す通りに先へ進む。
漆喰壁の短い通路の先、盛装の靴が土を踏み、夜に映えるように調整されたドレスにそぐわぬ明るい光が少女たちの肌を浮かび上がらせた。
陽光の気配にあるものは目を細め、あるものは瞬き、その向こうに目を向ける。
「麦畑……?」
今の自らの立場すら失念したように、娘の一人が呆然と、幼い困惑と戸惑いの籠もった声を漏らした。
彼らの目前で黄金の波のように揺れるのは、収穫を目前にしたような、実りきった麦の背の高い連なり。
「足を止めるな。進め」
魔術師の指示が飛び、困惑を表情に浮かべたまま娘たちはまたそろそろと麦畑の間を歩む。
ピチチチ……ピーチュピーチュ……
鳴き声とともに空を舞うのは雲雀なのだろうか。光をはらんだ青の下に一面の麦畑が広がる牧歌的な光景は、そこまでの経緯を思えば奇妙極まりない。
しかし、いくら娘たちが目を凝らそうとも麦畑は幻のように消え失せることもなく、風には甘い麦わらの香りが乗って髪を揺らした。
「いかな無力な女子供とはいえ、あまり距離を開ければ逃がしてしまうのでは……」
「あやつら、何のつもりだ」
「コルネリオ卿……」
謀反人達がいっそ困惑すら混ざったつぶやきを漏らすその先、娘たちの歩くそのいくらか後に位置取ったのは魔術師たちだった。そのまた後ろに固まった謀反者達が怯えと警戒を一杯に宿しているのと打って変わり、知己らしい魔術師たちは談笑しながら時折じゃれ合い、ハイキングにでも来たような気軽さにも見える。
「あれらに指揮を譲ることもないのではありませんか」
「乙女らにはまだ使い道があると仰っていたのは卿では」
ざわめきが高くなりかける仲間たちを残った腕で制し、コルネリオは麦畑の彼方に目をやった。少し耳聡ければ聞こえてしまうような距離を思い出し、魔術師の不興を恐れてはっと口をつぐんだ常民のことなど意識に留めた様子もなく歩みを進める魔術師たちの後を追う。
乙女候補の娘の一人、エンリエータは直ぐ側を歩いていた娘が足をもつれさせたのを見た。
「大丈夫?」
小声で語りかけたのは、先へ歩けと言う指示に従うゆえに、謀反人たちとも魔術師たちとも少し距離が開いているためだ。麦の間を渡る風と鳥の声が響いている現状なら、挙動に気をつけながら、声を抑えてならば後ろまで聞こえず済むだろう。
エンリエータのすぐ横を歩いていたのは二度目の宴で選ばれたという、下級貴族の娘の一人だ。見れば、怯えきったような表情を浮かべた横顔は真っ青で、普段なら話しかけるようなことのない身分の相手ではあったものの、このような状況であれば同胞意識と慈悲心が湧いた。
「どうぞ気を張って、あまり遅れればあの者たちの機嫌を損ねてしまうかもしれません」
「はい……」
今にも泣き出しそうな目をしながらも頷いた娘を励ましてやろうとエンリエータは潜めた声を継ぐ。
「もう少し頑張れば、きっと大丈夫ですわ……。わたくし……ここが何処であるのか、心当たりがあるのです。ここは、春の園。きっとそうです。次のお妃様が入られる貴いところと母に聞きました。だから……きっと、奥まで行けば控えた衛兵たちが気づくはず……」
謀反人達が横柄に振る舞えるのも、騎士の一人もここにはいないと油断しているからだ。故に、きっと奥向きを守る精鋭たちが現れれば総崩れになるだろう。
しかし、そう聞かされても娘は表情を明るくすることをせずに、小さく俯いたように見えた。
「わたしの家の領地は王都のパン焼き窯と言われている場所ですの」
「えっ?」
「王都の西、平野が連なる土地で、麦畑ばかりのところで、私も家族と一緒に視察には何度も出ましたわ。だから、麦も、麦畑も見慣れたもののはずなんです」
何を言い出したのかわからず、まさか恐怖のあまりの発狂とかいうものを生まれて初めて見てしまったのかと14の子どもじみた恐慌に囚われかけたエンリエータは、相手がドレスの前をぎゅうっと握った動きが自分より幼く見えて、それで一応の平衡を取り戻す。
「わたし、ここが怖い……! どうして麦以外何も生えていませんの? どうして虫の一匹もいませんの? どうして……いつ刈り入れてもいい位に実りきっているのに、畑に出ている者が誰も……見渡す限り麦畑なのに、誰もいませんの?」
麦畑とは麦が生えている場所ではないのだろうか。麦畑を歩いたことなど一度もないエンリエータにはその恐れの理由はよくわからず、それでも震える相手の肩を、後ろを気にしながらもそっと擦った。
「ンー、視界が悪ぅいなァ」
麦畑を眺めわたし、片手を庇のようにして陽光を遮りながら、女魔術師が不機嫌そうにぼやく。
「宝物庫ってこの先なんだっけー? これだけ草が長いと構造物があっても全然わかんなくない? なんか全然変化ないし、なんか見逃してない? 焼いちゃおっか」
「入口が火に弱かったらどーすんだよ」
「そんな脆弱性の高いことある?」
彼女がふんと鼻を鳴らすと指先に灯した火がそのまま短髪の魔術師の鼻先をかすめた。
のけぞって苦情の声を上げるのを黙殺しながら指に絡んだ火がごうと炎になり、短髪の魔術師は鼻毛が燃えると悲鳴を上げる。
そこを、笑いながら苔緑の衣装の魔術師がとどめた。
「やめとけ。」
「はア? なんでよ。エーオー、アンタもツァテヤーみたいに寝ぼけたこと言うわけ? そんな間抜けな遺跡、あるはずないでしょ」
「ここは正規の入口だろ? さすがに常民の感覚でも普通なら装飾するだろうさ。なにより麦が美しく見える目とかの持ち主なら知らないが、ま、そういうのは外れ値でいいだろ。いきなり農場を置く理由はない。ってことは大方これは境界だ。ぐるっと囲って安定させてるんだろ。麦はフォロスの表象だからな」
「ふん、常民でも扱いやすいよう再定義してあるのか。姑息なやり方だな」
「そうそう。なんで常民なんぞにそこまでしてくれてやったんだかな。それにキンネレア、わざわざ魔力の無駄打ちをすることないだろ。ルートは一応一つはあいつらが確定させてるみたいだし……認証の具合を確認してからでいい」
女魔術師がしぶしぶという風に指先の炎を消すその少し後ろ。時折手元に目を落としていた白青磁の髪の魔術師が足を止める。彼は同族達に向かって手に持ったなにか、羅針盤じみた物品をひらひらと揺らした。
「簡易測定に揺れが出たぞ」
「よしよし、ターニアット、数値は出るか」
白青磁の髪の魔術師は頷くと手元の機材が示しているらしい数値を読み上げる。
「パターンは不定だな。距離は5から20の間、範囲は不規則だ。環境由来のむらなのか、変動かはわからん」
苔緑の服の魔術師は目元を覆う白貝を削ったような仮面に触れる。その表面に青白い模様が薄く浮かび上がり、そして彼は娘たちが歩むその先を見渡して、口の端を引き上げて笑った。
「くるぞ」
エンリエータは揺れる麦穂が作る影がひどく目をちらつかせた気がして瞬いた。
冬の夜の最中からこの春の真昼の中に引き出されてしまったせいか、まばゆい陽光に目が慣れきらずにいる。
真上から差し込む光は鮮やかで、揺れる金の麦穂と葉の生み出す影は濃い。
ともすると、恐怖ではなく涙ぐみそうになる目を強く瞑り、目を細めて開く。
少し眩しさはマシになったはずなのに、ほんの少し先に大きな影が落ちている気がして目を上げた。
え、と、いつの間にか皆を守るように先に立って歩いていた
いつの間にか、そこに立っているのは一人の女だった。
年齢は30ほどだろうか、とエンリエータは内心で推し量る。明らかに成人してしばらくは経っていると思われたが、20後半から50過ぎまで、どの年齢であってもおかしくはないような気がした。
整ってはいるけれど、特に特徴を見いだせない顔。身に着けた衣装は高価そうな印象ながら見覚えのない様式のものだったが、どことなく抑制の効いた、お仕着せを感じさせるものだ。
背筋をぴんと張り、手を体の前に重ねた姿勢は美しい。
――もしかして、あの者は春の園の侍女?
はっと視線をずらして確認した悪人共は油断しきっているものか、まだだいぶ後ろで、それなりに距離があった。
「……動くなよ」
――願主は大人しい。流石にルートを知ってるって言うだけあって下手なことはしないか。後から来たやつも動いてない――か。こっちは咄嗟に何かする魔力の余裕がないんだろうが、ま、今はなにより。
「エーオー、あれは」
「機構さ、俺の読んだ資料だと結構柔軟性は高いはずなんだ。あの幼体どもが王家のものだって”判断”がされればだいぶ楽になるんだけどな……」
彼は笑い顔の口の端だけをひんまげて抑えた息を吐く。
「あいつが抱えてる王家の子供じゃ駄目なのかよ」
「そのものじゃ駄目なやつだな」
視界の先で雌性の幼体のひとりが絹布の衣装を揺らしてそれの元に駆け寄っていった。
「貴女、春の園の侍女ですね!? 逃げて、後ろは大罪人、謀反を企てていますわ! どうか衛兵に知らせて……」
エンリエータが見上げた先。侍女の表情のない顔。まるで魚のような丸く開いた瞳孔に見つめられて彼女は思わずたじろいだ。虹彩の中で冗談のように大きさを変える瞳孔と目をあわせたまま、何かひどく予想とは違うものと見つめ合っているという感触が膨れ上がっていく。その顎のあたりだろうか。それともお仕着せに包まれた胴の何処かだろうか。きり、と鋭く張った音がどこかから響く。
キリキリキリ、という奇妙な音とともに侍女の背がぐっと伸びる。
「え……」
エンリエータの目にはそれはひどく戯画化した人体のように見えた。
背は見る間に倍ほどに引き伸ばされ、体の厚みがあっという間になくなった背にはむりやり伸ばされた背骨のラインが弧を描き、その形のまま長く伸びた棘突起が突き出していく。異様に伸びた腕はそのまま腕の骨のよう。ただし、曲げられるべき場所には黒い球状の関節が残る。
侍女のお仕着せだろうと思った衣装は、どことなくその印象を残したままで白い虫の殻めいたなにかにいつの間にか変じて、その合間から黒いなめし革のような皮膚の名残が覗いているようだった。ただ一つ変わらないのは美しい表情のない顔ばかり。いや、その顔もまた、良く見れば石像のような質感をしているだろうか?
その顔が、エンリエータに向けられたまま、きりり、と音をさせて斜めに回され、そして戻っていく。
きちきちきちきち、と言う音とともに腕の骨と見えたものの一本が手のひらの先に落とされ、見れば、その先にはいつのまにか斧じみた鋭い刃が広がっている。
「無理そうだな、これは」
後ろで、他の乙女たちが長く尾を引いた悲鳴を上げた。
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