第372話 スサーナ、垣間見る。
手の中に残ったそれは、細い細い繊維を幾十幾百と絡め纏めたものをまた幾重にも撚って作り上げた糸……に似たなにものかであるようだった。
曲げた人差し指に糸を掛け、糸のゆく方を辿った。
糸を基準にした一歩は体の重みが曖昧になるようで、浮くような足取りで歩むたびに糸を伝っているのか糸に引かれているのか時折わからなくなる。
もつれて細いわりに奇妙に強靭な糸は続く先を見通そうとすれば視界の先に曖昧に消えるようで、そのくせ手元を見ればはっきりとしているのだから、きっと見たままのものではなく。
伸びた糸を伝って歩く行為も、見た目通りのままではないものだったのだろう。
曖昧な夜の夢のうち、見知らぬ誰かの来歴の一部始終を知っていると思うあの一瞬のように、もしくは、誰かのアルバムを覗き見るように。糸のとおりに歩くうちに理解していたのはある男の半生だった。
牧畜ばかりが特産のぱっとしない領地に生まれ、血筋に魔術師が現れたなどというけして出世は叶わぬだろう素性。王都にいながらも自らの出自ゆえに倦み、先の期待などはなにもなかったその少年は、ある日、偶然出会った第一王子に手を取られて側近に引き上げられ、彼に心酔した。
高みから俯瞰した切れぎれの光景の中。
変わり者だと評判で、しかし誰より聡明だと彼が知っている年下の王子は、何でもないことのように微笑みながら言う。
『パレダの良港、アウルミアの沃土、ヤロークの舗装技術。ひと繋がりのものとして扱えればどれだけ栄えるだろう』
『パレダは古来より我が国の傘の下で栄えた国、港の利用条約をと望めば嫌とは申さないでしょう。アウルミアとの貿易も拡大しているとのこと、ヤロークの気難しさばかりが問題になるでしょうか』
『お前はかしこいね。でもそういうことじゃない。いくら有利な条約を結んだといっても、異国は異国。国ごとの異なる則がどれほど手間を増すことか、お前も聞いただろ? 異国というだけで面倒が増えるんだ』
『もしや、三国の領土を切り取ろうと……?』
『イヴィ、言いたいことがあるなら言っていいよ』
『はっ、いえ、では、申し上げます、三国を相手にするとなりますと、反攻はどれほどのものになることか、安定した発展を望むなら、敵することは……』
『お前はかしこいね。うんざりするぐらいにかしこくてものわかりがいい。』
『は……』
『国なんてそんなに数が要るものかな? 国基と王家、国境を残すからあとの心配が増えるんだろ。治水に喘ぎ、陸兵を軽んじるパレダ、奢侈を呷り軍備を忘れたアウルミア、諸侯が
そう言いのけた王子に、少年は確かに王たるものに相応しい輝きを見たはずだったのだ。
『イヴィ、僕はやってみせる。僕が王になった暁には、白き海の北の畔はすべて我が国の繁栄を担うだろう。だから、その時は、イヴィ……コルネリオ・イヴァン・バルド。お前が僕の王笏を運ぶんだよ』
『アルフォンソ殿下、我が君、必ず』
『仮とはいえもう王名は決まってるんだから、こういう時は大人の名前で呼んでよ、しまらないじゃないか!』
笑いあったその光景は他愛無い日常の一幕でもあり、同時になにか意味があった節目の一つだと糸を追いながらぼんやりと悟る。
その約束は果たされることはなく、負けることすら許されずに彼らの夢は終わる。
確実と誰もが疑わなかった王位は第一王子のものとはならず、神託は凡庸と呼ばれていたその弟を指した。
それは、その時明らかに傾きかけていた第一王子の母の生国、ネーゲの情勢を鑑みて神殿が神託に手を加えた故だ、と貴族たちは誰もが噂した。国同士の繋がりを求められて嫁いできた彼の母とは違い、第二王子の母親は盤石な国内貴族であったから、そうなってしまえば血筋という要素であれ、国際情勢の都合であれ、そちらのほうがと思うものも多かっただろう、と。
彼と、サヴァスという王名さえ既に定まっていた第一王子を支えた者たちは、それを信じた。そうでなくてはならなかった。絶対に。
現状を不服として蜂起した第一王子とその郎党は反逆者として追われ、国を離れることとなる。
それまで各国に蒔いた協力者を使い、途中で二手に分かれ、囮として彼は北へ向かい、その隙をついて第一王子は母の生国ネーゲへ逃げ延びる、そういう計画だった。
王妃は多少国が荒れていようが父であるトラン王の助力さえあれば逆賊として追われた身であれ巻き返すことは可能だと信じ切っていたし、第一王子自身も入国者を選別するネーゲなら追手への警戒に割く割合も少なく、十分態勢を立て直せると考えていた。
王子を見送ったその先。
ネーゲの王都がその民ごと滅んだと聞かされたそこから、垣間見えた記憶の殆どは泥濘のような怨嗟の色に染まっている。
「うやぁぁぁぁお!!!」
スサーナははっと意識を目の前に戻した。
非常に不服という感情が籠もっているとわかりやすい、働きかけを無視された猫特有の鳴き声を上げたのは、数歩先に歩いていたはずの黒猫だ。
不服そうにモップじみた尻尾をびすびすと床に叩きつけながらスサーナを見上げていた猫は、視線が自分に向いたのを確認したらしく、なああんと一転軽やかな声を上げる。
差し伸べた手にそらした鼻先から尻尾の先までをにょろりと擦り寄せた毛皮の感触に、スサーナは見えていたものに飲まれかけていたなと自覚してほっと息を吐いた。
俯瞰した光景を眺めている意識であったときには不思議なほどに感情が動いていないと思っていたのだが、気を取られて足を止めてしまうようでは本末転倒極まりない。
――というか、止まってたんですね、足……。
そろりと足を前に出す。それを見上げた猫がまたととっと進んだのを見て頬を緩めた。
「猫ちゃん、おまえ、お城の猫だったり……したら、帰ったらなにか美味しいものを用意しましょう。超自然猫だったら……どうしましょうね、超自然猫、なにか食べるのかな……」
このふかふかを追っていくというちいさな目安があれば、先に進めなくなるということはなさそうでいい。
得られたはずのものを嘆く声はひどく心をきしませたけれど、この謀反人由来らしき糸を伝っていけば、多分、今起こっていることに巻き込まれているだろうレオくんのもとにたどり着けそうだということが重要なのだ。
――謀反人の人は、こうして謀反を……? あれ、王兄というひとは……亡くなってる? じゃあどうやっても完遂できない系の謀反なんでしょうか。それとも、別に立てる王様候補がいる?
それに、これも。機序はわからないものの、たどり着いた後で何らかの役に立つ可能性があるのならば、見えて損はない。
事情が分かれば着いたときになにか起こっていても、判断が早くできるかもしれぬ。
そう言葉にして思考すれば、一旦すくみかけた足はまたスムーズに猫の速度で糸を追うことが出来そうだった。
とりあえず、現状、見えたものはそれなりに役に立つかもしれぬ。もし万が一まだ誰が謀反に与しているかわからないという状況であっても、戦役に参加した者の顔は――謎の映像が根拠になるけれど――わかるようになった。
反乱時の記憶に知り合いがいた気がして、いま見えているものが真実であれば繋がりが確定してしまった感があり頭を抱えたくなったものの、多分、もしかしたら、そちらも事情がわからないよりかは説得の糸口などはあるのかもしれないし。
その後も、糸を辿るたびに散り散りに誰かの光景は垣間見え続けた。それでも一度そういうものと覚悟すれば、むしろ動きながら白昼夢を見るように、思考の何処かをそれに割きながら糸をたどることに慣れていく。
同時に、糸を伝う線上にそれまで通り転がっていた泡に触れれば別の誰かの声もして、こちらは消えてしまうのではないかとなんとなく予想していたスサーナは少し拍子抜けした。
――これ、もしかしたら、乗り換えが可能だったりするんでしょうか。猫ちゃんに言ってみたら案外……?
とはいえ、この糸こそがもっとも騒動の中心に近い所にたどり着きそうだ、とは思う。
また一つの泡が足をかすめる。
『どうか、……どうか。』
――サラさん。
幸せでいてほしいと思う。けれど、あの夢の中では謀反人と一緒にいた……連行されていたようだった。こちらに行きたいと願えばどこかに囚われていたりしてもそちらに行けて、なにか状況は変えられるのではないかと思いはするが、きっと最優先すべきはそれではないし、事態の根本の方に近づけたほうがずっと色々な可能性は上がる。
――せめて、近くにいてくれればなんとか……
だからスサーナは、進路上に転がった泡を横切ったときに聞こえたものがサラの声をしていたときも足を止めなかったし、
『どうしようもなく正しくなくて、美しくなくて、からっぽで、役に立つものでなくても、どうか、選ばれたい、許されたいの。ゆるして』
今にもわあわあ泣き出しそうな声が祈るように呟く言葉にぎしぎしと胸が締め付けられたような気持ちになっても進路を替えたりはしなかった。
灰色が薄れる。
曖昧な霧から踏み出すと、そこに広がるのは奇妙に牧歌的な、絵に描いたような風景だ。
気づけば手元には糸はなく、スサーナが一瞬戸惑う間に、たっと速度を上げた黒猫がどこかを目指す動きで駆け出す。
スサーナは慌ててその後を追った。
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