第371話 スサーナ、猫を追う。

 猫を追って進む。

 黒い猫はスサーナの足に尾を絡めるように足の間を歩いたり、わずかに早足になって数歩先を進んでいったりする。


 世界はずっと霧でけむったような灰色のままで、それでも周りに意識を向ける余裕が僅かに生まれたスサーナが視線を巡らせれば、奇妙に渦巻くようにも、奥行きに従って濃淡があるようにも見えた。

 時折、光源もなにもありはしないのにそこばかりが奇妙に薄暗い場所を見つめると、うずくまる人のように見えることもあったものの、そちらに一歩逸れてもそれがはっきりした姿になることはなく、そうして黒猫の後を追うのが遅れると戻ってきてがぶがぶと足を甘噛みされたり、足元に飛び込んできてはサンダルの足先をみっしりと肉球で踏みしめられたりするのでそちらに意識を向けるのは途中からやめてしまった。


 ――さて、早めに……判断材料が増える要素が出てくればいいんですけど。

 ふっと立ち止まった黒猫がスサーナには見えない――なにか小さな虫か塵だろう、だといいな――なにかを爪をむき出しにした前足でばしっと跳ね上げるのを見ながらスサーナは考えた。

 うまくレオくんに合流できたり、注意喚起できたり……謀反人達の妨害に加われれば一番いいが、ここから出たところで騒ぎがすっかり終了しているということもありうる可能性には感づいている。この「城の地下」が有限であればいいのだが。時間感覚だと一時間程度の彷徨であるはずだが、数ヶ月とか、浦島太郎的に数年とか経っていなければいいと思う。

 ――正直、地下への階段があるとか、いかにもな石造りの地下通路があるとか、そういう想像しかしていなかったんですよねーえ!

 自分の見通しの甘さを恨めばいいのか、こんな展開わかるものかと開き直ればいいのか。どちらにせよ、ここでいきなり物分り良く動かず救助を待つというのはナシのパターンである気しかしない。


 この場所はひどく広いようにも感じる瞬間と、全く見通しの悪い閉塞感に満ちた瞬間があり、闇雲に自分だけで歩いてもどこにも行き着けなくなりそうなので、どこかに自分をつれていきたいように見える猫について歩くのが最善のように思えた。

 それともこれは自分の認識か目がおかしくなっていて、実際はそういう所を移動しているのだろうか。とはいえ、それにしては広すぎる。

 ――前に進んでいないで同じところを回っている、という可能性もあるんですけど、でも、それは疑わないでおこう……

 パニックを起こすのが多分こういう局面では一番まずいのだ。

 スサーナはとりあえず猫がそこにいて、どこかへ進んでいるということは信じておくつもりだ。

 ――あと、わるい猫じゃない……というのも……

 かつて飼ったいきものが健やかに大きくなったのなら、こうであったのかもしれないという見た目のものに懐かれると、悪意があってとはどうしても思い難い。

 常々直感をちょっきり信じる自信はないので、これは祈りのようなものなのだが。


「ぅるなぁーん?」

「少し考え事をしていたんですよ。お前はもういいの? もっと歩く?」


 がすっがすっと爪を出した前足で何かを叩きのめす動作をしばらく行ってから一体どういう基準で満足したのか、スサーナの目の前に戻ってきてじっとこちらを見上げてきた黒猫に手を伸ばして撫でる。

 アンダーコートたっぷりのふかふかな手触りはそれだけで随分心を慰めてくれた。

 瞳孔をまん丸く膨らめて口角を上げ、ぐるるるる、と盛大に喉を鳴らした黒猫は、またスサーナの前に歩み出て進み出す。


 歩いて、歩いて。最初に変化が訪れたのは声だった。

 声というより音といったほうがいいだろうか。歩いている間に聞こえていた囁きは、耳鳴りじみた虫の羽音がうわあんというような、粘度のある泡がぶつぶつとはぜるような音だったはずのものを聞き流していると、どこかで人の声に聞こえてくるというようなもので、怒っているだとか泣いているだとか何故か読み取れる癖に妙に虚ろでひどく単調でぞっとするような無機質さをなぜか感じるものだった。

 それが、気圧の変化でもわっと耳が詰まるのに似た感触を耳抜きして追いやった時か、それとも無作為のある一歩か。どこかのタイミングで、聞こえてくる音がそれだけではないと気づいたのだ。

 それもまた声だ。

 少し離れたところで交わされる会話の声を聞けばこのようになるだろうか。そう考えてスサーナはいやと首を振った。それは、これまで聞こえていた虚ろな声同様、どちらの方向から聞こえてくるかはひどく曖昧で、こちらに話しかけているという雰囲気でもなく、少し離れた雑踏のざわめきに似てはいる。

 ――なのにすごくはっきり聞こえるし、でもこちらに話しかけているという感じではないし。どちらかというと、安めのヘッドホンで誰かの話すのを聞いているみたいな。


 それが先程までのものと似通わぬ部分は、意識を向ければそれが数いる誰かのうち一人が放つ言葉として声ごとに聞き分けができたこと、虚ろな音と感じられた先のものと違い、声音からは個性と意志が感じられたことだ。


 足を進めるたびに、声のかけらが耳に飛び込んでくる。

 猫の後を追いながら、スサーナは聞こえてくる声に耳を澄ませた。

 聞き分けられる単語が付属語でひと繋がりになり、意味の取れる言葉になる。



 いま王族方の覚えがめでたくなれば、我が家は子孫の代まで安泰だ……


 ああ、誰もが一目置くような立場に……


 今少し時間と予算を頂ければ……


「うん? 予算?」

「にゃおん?」


 最初に判別したものから、もしやこの場に他の誰かがいて何らかの企みを話し合っているものが距離を無視して聞こえている……だとか、と予想したものからなんとなく大きくズレた唐突な単語にスサーナが耳を澄ませれば、それはどうやら初手の判断よりも雑多な呟きであるようだった。


 この忙しい時期に馬鹿げたことをする奴らにはぜひ思い知らせてやらなきゃ……


 ベルナのお嫁さんになるわ。絶対よ……


 つぎの会議でどうしてもこの法案を……


 ラドギアとの国交を確立する手段は……


 どうか無事に立太子までこぎつけられるよう……


 怒りに満ちたものがあり、すすり泣くようなものがある。

 淡々としたもの、わずかに弾むようなもの。切実なもの。

 ――この声はなんなんでしょう。ほとんどが貴族の方……の声なのだから、王宮に居る方の声……とか?

 スサーナは猫を追いながらもわずかに首を傾げた。

 ――ああ、それで、期待、希望、焦燥、憤り…… そういうものばかり?

 一度意識すれば、それは炭酸の泡のようにふつふつと湧いてぱちぱちと跳ね、軽々と耳に流れ込んでくる。

 ――ああ……「こういうものが聞こえる場所」だなんて、ここはやっぱり何か、普通の所じゃないんでしょうねえ?


 諦め混じりにそう考えたのは、それらは種々雑多な内容のようでいて、全てがある種の願いであるようだったこと、声として聞こえるものの、会話として成立したものは一つもない独白らしい調子が全てで、流石に声に出して唐突にそれだけを呟くものはいないだろう、と判断できたのが理由だ。



 一歩、一歩。まるで足先から湧くように、歩くごとに声の種類は増え、一つ一つを認識すれば、色糸の端を糸束から拾ったようにそこから判別できる内容も増えていく。

 なんとはなしにスサーナは行く手にいくつも浮かぶシャボン玉を想像した。


 声のほとんどは聞き覚えのない声で心当たりのない願望や事情であったものの、耳に届いたうちのいくつかの声には聞き覚えがある。


 どうにか俺の代で憂いの種を取り除かねば……


 ――この声は、御父様……


 どうか、どうか我が子らは穏やかに、民と国が乱れることがなければいい……


 ――多分、この声は国王陛下。


 その声を意識すればふつふつと湧く別の声にも耳を傾ける。殆どは聞き覚えのない声で、国や、今の事態を憂えるもの。


 歩く。泡が弾ける。声がする。歩く。


「しゃうっ!」


 一つの声に意識を向けたところで、黒猫が鋭い唸り声をあげた。

 まるで単調な高速道路を運転している時めいてぼんやりとしていたスサーナははっと瞬きをする。

 黒猫がばしんと爪をむき出した前足で払ったのは、スサーナが意識を向けようとぼんやりと想像していた泡の一つではないか。

 ――え、あれ? 泡はただイメージしていただけで……

 周りを見渡す。

 周囲は、歩きながら半ば閉じた目の裏でイメージしたのと全く同じ、淡くおぼろにかすんだ泡沫で満ちていた。

 視界の端、ふわりと横手で揺れ、ころころと転がってきたように見える泡球を反射的に避ける。


「にゃあん!」


 完全に苦情を言う響きの鳴き声にはっと下を見れば、ばしばしと叩いていた泡との間にぐいっと割り込まれた黒猫が不服気な顔を上げているのが見える。


「あ」


 勢い余って突っ込むルートな泡球は黒猫が叩いていたもので、横手にあった泡よりも良くなさそうなものなのに! とスサーナは後悔し、それでも足を止められずにそれに激突した。


 絶対に。

 ああ、絶対に、絶対にだ。王家の者たちも、神殿の者たちも許しはしない――

 あの子こそが王になるはずだったのに。あの子ほど王座に相応しいものは他に居るはずがないというのに。

 必ず、必ず、取り戻して……



 その声は歩き出した頃聞こえた声にも似て背筋がうそ寒くなるような執念にまみれたもの。

 先のものとの違いは、生気に溢れているかどうか。


 ――これは……、謀反人のものだ!


 なんとかこれから手がかりを掴めやしないだろうか。スサーナは反射的に屈み込み、泡を捕まえようと手を伸ばした。

 その指先に黒いふかふかした前足が横から飛び込んで、見事なスナップで泡球を抑え込む。


「猫ちゃん、お前、これが見えていたの? これの持ち主……なんでしょうか……これに関係する……? これの声のところに行きたいんです、わかります……?」


((いきたいの?))


 小動物を狩りとったばかりのように猫は泡球を咥え込んでぐるるると凶暴に満足気に喉を鳴らし、そしてスサーナを見上げると真っ黒な瞳孔を輝かせてにゃあん!と声を上げ、のばした手の中に泡をぽとりと落とした。


 それはスサーナの予想したよりもずっとずっと重く、鉛玉めいた重みがずしりと手にかかったことで前のめりにスサーナは姿勢を崩す。


 一瞬の目眩。


 床に当たる、とそう思ったのに、体はまるで水面を抜けたようにやすやすとなにかを抜けたようだった。それはまた先程までの不安定な形を取り戻したように茫漠としてあやふやで、スサーナは急に不鮮明になった視界を慌てて取り戻そうと瞬いた。

 その刹那。

 ずっとぼやけていた顕微鏡の焦点が急に合ったかのように、四方に広がるのは糸。


「うあ」


 足元に広がるのは絡んだ糸が織りなす紋様だ。

 荒々しい綟り織。繊細で絢爛たる繻子織。静かな地模様に、鮮やかに織りだされた金襴。

 ひゅっと息を吸って胸元に引き寄せた手にぐっと反発を感じて見れば、いつの間にか手の中にはほつれかけた糸が一本握られている。

 それをまじまじと見つめる数瞬で周囲の綴織はぼやけて消えたが、手の中の糸だけは残っているようだった。


 スサーナの数歩先、糸の何処かに続く方向で、ふさふさの尻尾をぴんと立てた黒猫が自慢げににゃあん!と鳴いた。


「え、あ、……こっちなんですね!?」


 スサーナは道糸を掴み、歩を早める。猫は跳ねるように一歩先を走っていく。

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