第370話 スサーナ、迷い込む。

 波のような目眩が消えない。

 苦労して立ち上がると、重い頭を振った。



 世界はひどく曖昧で、認識した範囲のうちだけが確りと形を持つようだ。

 それでも、崩れることなく肉体は境界を保ち、個を維持している。欠けたところや削れたところもないようで、爪の先まできちんと認識が届くことに満足して息を吐いた。


 歩を進めるそこの所々には塵か煤が凝ったようなものが蟠り、それは歩みに引かれたようににじり寄ってきて、べちゃべちゃした音で益体もないことを囁いていく。

 怨嗟、渇望、怒りに恐怖、そして悔恨。総じてそれは妄執だ。


 もうどこにも続いておらず、だからこそ何も変えようもない、残骸のまましがみついて、同じ場所で糸を絡ませるもの。

 その部分の布目が乱れるだけならまだしも、他の糸を損なって織模様を滅茶苦茶にしてしまうこともある、もはや絶対に主体になれはしないのに、それに気づくこともないもの。


 ただそれだけでも目を向ける意味など無いというのに、確か、〝そのようなものはいないのだ〟とそう言って、認知することを好まなかったはずなのだから、それこそ認識するに値しない。


 進む先に伸ばされた形も定まらぬ指先を踏みにじり、温度すらなく視線をふいとそらした。

 サンダルの足元に絡まるようにふつふつと揺れていたものは渦を巻いて散る。



「うあ」


 膝がガクンとなる感覚にスサーナは慌てて首を振った。

 どうもひどくぼんやりしてしまっていたらしい。手首に掛かった巾着の紐を確かめると握りなおし、その熱にホッとした。

 周囲を見渡すと、うまく焦点が合わない時のようにぼやけた灰色で、目を凝らさなければ視界の中でどちらが上なのかすらわからなくなる。

 手を伸ばし、当てずっぽうに足を進める。

 深い霧に巻かれたように、湿り、重みを伴った風が体の周りを流れていく。


 ふつふつと誰かの呟く声が聞こえた気がして耳を澄ますと、どこかで泣いていたり怒っていたりする人がいるようなのだが、距離も方角もおぼろげで、まるでどこかでする蠅の羽音のように近づいたり遠ざかったり、不明瞭に一定しない。


 ――あまり近づきたい気はしないけど、どうしよう、他になにかの目印になりそうなものはないし、この音の方を探してみる? レオくんの声……だとは思わないけど、謀反人の誰かかもはしれない……


 一瞬ごとに曖昧に不明瞭になる周囲にスサーナが焦れだしていると、ちちっと鋭く澄んだ音がした。

 それは硬い金属が触れ合った音のようでもあったし、小鳥の囀りにも似ていたかもしれない。ただ、ずっと低く沈んだ音しか聞いていなかったそこではその音は鮮烈で、そちらを振り向くには十分な理由になった。


 風で揺れた靄の塊とも見えたそれは、すぐに視界の少し先でふわりと崩れたようだったけれど、幼い少女が歩む姿にも見え、鳥のかたちのようにも、戯画化したうさぎのシルエットのように形を変えていったようにも見えた。

 ――む、うさぎさん……

 ふとそのかたちに幼い日のししゅうのうさぎを思い出したスサーナは一歩そちらに足を向ける。

 数歩そちらに歩いてはみたが、光景が変わるわけではなく、刺繍のうさぎさんが飛び出してくるようなこともないようで、すこしの期待はまあそうだろうな、という諦めに変わる。

 ――穴に落ちた後でうさぎを追いかけるなんて出来た話だ、なんて言えればよかったんですけど。ああでも穴に落ちる前でしたっけ、追いかけるの……。

 魔法を教わるようになった今思えば、うさぎさんはいまいち教わっている魔法と一致しない謎のなにかであったのだ。

 だから、不確定要素として一瞬期待しないわけではなかったのだが。

 ――第三塔さんの魔術かなあ、と思っていたころもありましたけど、それにしてはなんであんな、刺繍を覚えたての私が刺したうさぎさんの形をしていたのかわからなかったんですよね。

 案外真面目な御仁であるところのかの魔術師が、大真面目に幼児の刺したがたがたのうさぎの刺繍をトレースして魔術に仕込んだと思えばそれはそれで愉快だけれど。


 非常に親しみやすい光景を想像し、現状は全く親しみやすくない、この場所へ先に降りていったのだろう人物を思い出してしまい、スサーナはくすんと鼻を鳴らした。

 こちらへ行ったのだろうとあとを追いかけて迷ったというのは全く相手の落ち度ではないし、そうなったからと責めるのも無理はあるし、第一裏切っただとか敵対しただとか言っても弁明してもらうような立場ではないのだが、こうして五里霧中のただ中にいると急に惨めな気持ちになる。


「しっかりしなきゃ……」


 思わず口から漏れたその呟きに、予想外の応えがあった。


 にゃおん。


「ね、ねこ……!?」


 響いたのは猫の声で、スサーナはあまりの予想外の音にあわてて音源を探す。

 なにかホラーじみたお約束の真っ白な少年などであったら嫌だな、と思ったものの、しっぽをぴんと立てた猫が人間に話しかけるとき特有の、おにアクセントのくるにゃおんを真似できるような霊はわるいものではない気がする。


 にゃあん。

 もう一声鳴き声がして、不明瞭な視界の中、すこし先になにか動く気配がした。

 とと、と、小走りのシルエットが姿になり、スサーナの数歩先で止まったのはまごうことなく一匹の猫だ。


 真っ黒でみっしり前足が太く、毛足が長い大きな一匹の猫。スサーナが思わずはっとしてしまったのは、鮮やかな緑の目が、まだそう呼ばれていなかった頃、こことは別の国で飼った子猫に良く似ていたからだろう。


「本当に猫…… こんな所に猫っていていいものなんでしょうか……? お前、どうしてこんな所にいるの?」


 思わずスサーナがしゃがんで声をかけると、むふんと口元を上げた黒い猫はずりりと膝に額を擦り付けた。

 まだほんの少し良くない怪異ではと疑っていたスサーナだったが、その動きで疑いをすっかり手放してしまう。猫はそのまましゃがんだ足元に入り込み、胴体を足首に擦り付けて八の字を描き、抜け出て数歩先に出ると、スサーナの顔を見上げるとなおんとまた鳴いた。


「なにか用なんです? まさか要救助者が他にもいて、助けてほしいとかそういうことだったりすると力になれるかどうかわからないですけど……」


 この猫の主人とかがここには他にいたりするのだろうか。まさか第三塔さんの猫ということは……多分無い気がするのだけれど。

 一瞬迷ったスサーナだったが、数歩先に立った黒猫が振り向いてじっと見上げてくるもので、どうせ軽率にこんな所に落ちた結果、にっちもさっちも行かなくなっているのだからとねこについていくことにした。



 猫はととととと歩き、少し距離が離れると振り返って見上げてくる。

 足元に尻尾を絡めるようにして歩く猫についていくと、不思議なことにさっきまで足元も沈むように不安定だったのが、猫が危なげなく歩いていく後には確固とした地面があるように感じた。

 ――レオくんの所に連れて行ってくれればいいんだけど……

 何故か、確証も何もない癖に、あの廊下にいなかったレオくんは無事に部屋にたどり着いているというのが導き出される常識的な結論であるはずなのに、それが希望的観測というのにもずっと脆いなにかで、レオくんはここの何処かにいるのだ、という確信がどこかにあった。

 ――あれが予知夢なら……いえ、こうなってしまうと予知夢だということを渋々でも認めざるを得ないんですが、ならば、あれは何が起こるところだったんでしょう。


 あの夢では謀反人たちが乙女候補たちを囲んでいて、気を失った……と思う、テオかレオくんを抱えていた。

 多分、なにかの意図のもとに何処かに向かう途中の光景。

 それに足して、あの奇妙に牧歌的で不自然な景色と、ここが第三塔さんが降りていった先だということ、落ちた、と言う自覚を足し合わせると、向かった先の候補はいくつも思いつかない。

 あの夢で謀反人たちが歩いていたのは多分、レオくんに聞かされたホラーな後宮的な場所だ。

 王宮の地下といえば、貴族たちの間でもったいぶって囁かれていた、王宮の地下にある宝物庫の話も思い出す。

 ――ええと、つまり何かレガリア的なもの……三種の神器的なものを奪おうとしている、ということなんでしょうか。それで……女の子たちとレオくんかテオフィロ様は、人質……?


 つまりこれは禁闕の変だということなのだろうか。宗教施設に逃れるというところまで謀反人の計画として符合できそうだが、こちらは由緒正しい総本山などではなく新興宗教の村なので、追討の宣旨があっても天皇方に協力してくれるということは無さそうだ。

 やだなあ楠木正成とかいたら、とスサーナは少し遠い目になり、思考に沈んで歩みが遅くなったところをにゃあん?と黒猫に呼ばれて慌ててまたその後を追った。

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