第369話 状況、いっそうに混迷する。

 夜が更けてゆく。

 砂時計の受け皿に砂が満ちるように闇が深まり、もういくらかで年が変わる、という頃。

 各々が酒盃を干す間に燭台と蝋燭が所々に足され、それを機に神々に捧げる讃歌が歌われる中、うやうやしく歩み寄った王の使用人たちが庭に続くガラスの大窓を操作し、綱を付けて左右に引き開けた。

 広い眺望を誇る広間の窓はすべて左右に寄せられるようになっていたらしい。

 昼には庭を透かしながら海中めいた風情を与え、夜には蝋燭の光を反射して部屋を彩っていた、わずかに歪み、青緑のうちに泡の混ざる分厚い大硝子。それは人の手で作り出せる最大のサイズのもので、それを扉として使うとはとあまりの惜しみなさにこの場に慣れぬ貴族たちの幾人かが囁き合う。


 今や広間に面した中庭には瀟洒なデザインの篝火がいくつもいくつも運び込まれ、柔らかな光を散らしている。それの後ろにひそやかに並ぶのは王の親衛隊達。



「今宵は良く集まってくれた。余の内々の催しであるが、貴公らの付き合いの良さをありがたく受けよう。共に来る日の輝かしきことを祈ろうではないか!」

「御列席の皆様方、どうぞ庭の方に」


 王の言葉を皮切りに、司会役の宰相の言葉に従って一同が庭に降りると、王族たちがそれに続く。

 これまでは一応にも貴族たちの集う場と王がそれを見渡す席はいくらか離れていたものの、この場では護衛官が間に立つことはなく、王族たちと列席者の距離はほんの数歩。

 真冬の深夜の空気に白い息を吐き、一旦奥に回った後に別の扉から出てきた王が列席者たちの前を歩んで庭の奥へと向かう。その左右に付き従ったのは介添の神官達で、妃と、余興ゆえの特例で列席を許された第五王子が列席者たちの間を歩み、その後を追った。


 向かう先にあるのは石造りの小さな祭壇で、古い時代のものと思わしき石垣と丸屋根に囲われ、いくらか四阿のようにも見える。

 その周囲を蝋燭の火が囲み、荘厳な境界線のように見せていた。


 神官の一人が、青葉を茂らせた枝の半ばからをそのまま杖に仕立てたような儀礼杖をうやうやしく差し出し、受け取った王がそれを掲げると、司祭がよく通る声を張った。


「日が巡ろうとも土は常し、フォロスよ、揺るがぬ根に良き息吹を。」


 わっと拍手の音が響き、弥栄を祈る声が上がる。


 色染めした羊毛を結んだオリーブの枝がまず妃たちと第五王子に渡され、いたずらっぽく笑った第三妃によって、彼女の枝から取った一枝を分けて娘たちにも配られた。

 同時に臣下たちに配られるのは衣装に飾れるように細工した万年香の小枝で、これで今宵の祝福のひとかけを分け与えられた、と、そういう慣習となる。

 一人の娘は渡された小枝を受け取ったままぽろりと取り落としてしまったが、夜闇に紛れ、それに気づいたものは誰もない。

 彼らが祭壇のある石組みの下に進み、石段の前で控えて王の声を待つ。




 異変らしきことが起こったのは、祭壇に進んだ王がその中央に若木めいた杖を突き立てた、その直後だった。


 ぐっ、と呻きとも驚愕の声ともつかぬ音を立て、マントに包まれた玉体が揺らぐと、その場に膝をついたのだ。


「まさか…… ああ、ああ、呪いだ!! 王を祭壇よりお離しせよ!」


 先程王に杖を渡した神官が上ずった声で叫び、彼のすぐ側で侍者を務めていた若い神官が祭壇に駆け寄ろうとする。そしてまるでそれを合図にしたかのように、ざわついた人々の間から、幾人かが飛び出して祭壇の側に走った。

 その様子に遅れてはっと異常を察したらしい者たち、駆け出した数人のうち幾人かは、祭壇を囲んだ蝋燭がぼうと燃え上がり炎を上げたのにたじろぎ、足を緩めてしまう。


 短い混乱。

 ある一人は壇上の杖を引き抜こうとし、また一人は王を支え起こそうとした。

 そして――


 だぁん! と小気味の良い音で王に触れた若い神官が投げ飛ばされ、一瞬その場の者たち皆の動きが止まる。


「動くな!」


 同時に鋭い声が響き、儀礼に従った隊列の中から、もしくは目立たぬ茂みの側、石積みの影、そっと配置されていた場から要所に散開するのは王国最高峰と名高い近衛の騎士たちだ。


「動けば背信の意志ありとして何者であっても切り捨てる!」


 鋭い親衛隊長の声とともに無駄のない動きで騎士たちが祭壇の側に駆け寄り、一部の者は妃たちを誘導してその場から離していく。いつの間にかざわつく残りの貴族たちの合間にも近衛騎士たちは散開し、落ち着くようにと指示を飛ばしていた。


 壇上で、体に触れた若い神官を投げ飛ばしたのは膝をついていたはずの王本人。いや、ゆうゆうと立ち上がり、仮面を片手で器用に剥ぎ取れば、その中から現れた首は武勇をもって知られる王軍長のもの。

 はっと身を起こしかけた男の手首に強く足裏を叩きつけると、その手からからりと飾りに似せた武具が落ちた。そして、彼に飛びかかろうとした……神官の声に従って慌てた様子で祭壇に駆け寄ってきたはずの、中位ほどの貴族の服装をした老爺を返す動きで抑え込む。


「久しいな、コルネリオ卿。三十年……おれが二十歳やそこらの若造だったころぶりか。おれが斬ってやった足は癒えてしまったようだな、残念だよ」

「貴様ァ……!」


 地の底から響くような声で抑えられた老人が吠える。

 その間にも、祭壇に殺到した者たちの多くは正気を取り戻したらしく、それぞれはっと身を起こし、あるものは術式で殺傷力を付与された武具を取り出し、あるものは剣を持ち、騎士たちともみ合ったが、騎士団のうちでも最高峰の実力を持つ近衛の騎士たちには及ばず、そう掛からずにすべてが抑えられた。


「諦めよ、卿らの思惑は今や明らかになった。増援は来ん。貴様らが用意した抜け道と傭兵はすべて抑え終わったと先程報告があった。」

「なぜ……」

「なぜ、何も起こらないのか、と言いたげだな。随分と手こずらせてくれたもの、我が部下たちには随分と過重労働を強いてしまった。」


 騎士団長の鋭い声にそう続けたのは歩み寄った外務卿だ。


「ラエティアと交渉してね、三教区と取引していた者たちは引き渡してもらったのだよ。まさか冬青の杖を偽造しようとはな。……貴様らがすり替えたつもりの杖は、こちらで代わりのものと替えさせてもらったものだ。もちろん、どちらもな。蝋燭に薬を仕込んだものも、只の火薬に。」

「まさか……! 感づかれるはずがない! 何の材料かなど知る由もなかったのだぞ!? どうして、お前ら……!」

「そうだな、本当なら気づけずにしてやられるところだったが。我らもいつまでもひよっこではない故な、良い間諜の一人や二人、抱えているものさ。」


 最初に呪いだと叫んだ、泡を吹いた神官衣の男に、静かに宰相の声が掛かった。


「コルネリオ卿とアユリーが掛かってくれて幸いでした。……貴方達を失えば逆賊共は後はただ瓦解するばかりの亡霊に過ぎません。諦めなさい。これまでも、今も、神々の加護は貴方達にはありはしないのです。陛下も、陛下の血を引く御子達もここにはおられません。貴方達の負けです」

「簒奪者め……!」


 王軍長の足元でそう叫んだ男の仮面を剥ぎ取ると、宰相は白けた表情でその顔を見下ろす。

 一人殺せば国に混乱を起こせる者達で護符を着けぬものはこの場にはなく、魔術師の助力ありといえどもそう簡単に状況をひっくり返せる局面ではない。そちらにも追手が掛かるばかりだ、そう淡々と言った彼は、抑えられた貴族たちをぐるりと見回すと、いっそ優雅に微笑んだ。


「宮廷の膿出しを手伝ってくれたと思えばいっそ小気味も良いでしょうか。卿らの話は然るべき場所で聞きましょう。追って沙汰あるのを待つがよろしい!」


 うなだれた反逆者達を見渡し、長く王宮に掛かった暗雲ではあったが、幕切れはあっけないものだ、と王の腹心たちはほっと息を吐く。

 あっけないと言っても、多くの尽力があってこその結果だ。

 外務卿府を悩ませていたヤローク有力諸侯との内密な交渉は一応にも済み、誅伐という名の内乱のきっかけにはなるだろうが、干渉していた藩主のこちらへの影響力は落とせたはずだ。

 王兄の腹心であったコルネリオと、王兄の母従兄弟であり、枢機卿の推薦を受けていたアユリー、この二人ほどの妄執を抱えたものはもはや残ってはいない。市井に潜み、政情不安を煽っていた……ヘルマン司祭と名乗っていたらしい、王兄が異国で愛妾としたという女の息子は、見れば王兄とは似つかぬようで、王兄の支持者たちが次の王へといかに望もうとも神々の指が彼を指し示すことはなかっただろうと知れる。

 とはいえ、王都に長く潜めたことでそれは明らかなことだ。血筋を追って働く魔術が働かずヘルマンを名乗って布教を可能としたことそのものが彼を王兄の子ではないと示す何よりの証拠だった。なぜ残党達がそれが適うと思ったのかはしれないが、強すぎる願いというのはそのように目を曇らすこともあるのかもしれない。あとに残った教団とやらの処遇は頭が痛いが、今に罪状のあるものはそのように、残った者たちには密かにこちらの息のかかった穏健な指導者をあてがう手はずになっていた。


 さあ、後は、絶対に残党たちが王宮の底に触れるならばこの時と、その場に居合わせることを望まざるを得ない催しまでを罠としたこの場の始末。餌を散らした罠場を片付けて場を整え直し、儀式だけは行い直さねば、と誰もが思ったその時。


 執念深く祭壇の方に手を伸ばし、這いずろうとするのを抑えられていたコルネリオが小さく震えながら呻いているのにその場の者たちはふと意識を取られた。

 いや、呻いているのでも啜り泣いているのでもない。肩を震わせて笑っているのだ、と気づいた騎士が身をこわばらせる。


 彼は、目を一杯に見開き、石段の下で騎士に守られた乙女たちの中、それに囲まれて仮面を外した貴公子を見つめてけたけたと笑っていた。


「貴様、何を……」


 騎士の一人が背なの後ろにテオフィロ卿を押し込んでかばう。


「ははは、はは……! ああ、確かにしてやられた! だが、神々のご加護がないとは笑わせる! ネーゲの秘術も知らぬくせによ! あれが末の王子でないならば、若木の子は我らが手中! ああ、ああ、神よ、神よ、感謝いたします!」


 次の瞬間、老爺が弾いた指先から飛んだ、指輪に仕込んだ小さな矢が当たったのは、王でも、重臣たちでも、ましてや石段の下にいた乙女でも、尚書長の息子でもない。

 それは特別に誂えられた王宮魔術師作の護符の守りを抜けるほどもないちゃちな隠し武器で、この作戦に際し、最も精緻で強力な護符を一人残らず身につけていた重臣たちにならば肌にさえ届かないはずのもの。

 取り押さえられた格好のままぐらりと揺らいだのは、謀反人達の一人、コルネリオの直ぐ側に抑えられていたレブロン卿。ヘルマンと呼ばれた男を王都に呼び込み、教区長との血縁を利用してその教区の空白地、聖職者たちの目の届かぬ間隙に彼を滑り込ませた男だった。

 反射的に騎士の一人が指輪の嵌った老爺の片腕を切りとばす。


 レブロン卿は信じられぬものを見る目で老爺を見つめ、額に刺さった棘のような矢に触れようと手を伸ばす。一体いかなる毒が仕込まれていたものか、男はそのままその場にくずおれた。


「ア――ア、ア、ア――」


 一体何を意図してのものかと測りかね、全身を緊張させたまま周囲を警戒していた騎士たちの後ろから声が上がった。間延びした悲鳴か、それともうめき声か、数名がそちらを振り向く瞬間。避難を待つその間、悲鳴を上げ泣き叫んでいたものの、騎士になだめられ、状況の推移に飲まれて一旦は落ち着けていたはずの悲鳴を乙女候補たちが上げる。

 少女たちの一人がふらりふらりとした足取りで前に出る。その目と鼻、口からはとめどなく血が滴り落ち、服を真っ赤に染めていた。


 めり。


 奇妙な音に人々が娘を注視すると、ほら穴じみてぱかりと開いた口から細いものが突き出すのが見える。


 めりっ。


 それは、蜘蛛の足めいた関節を備え、その切っ先に楕円の爪を持った、半透明のもの。

 冗談じみて少女の口腔から生えだしたのは、向こうを透かす、爪を備えた十本の指だ。ぎちり、と口の端をその指が内側からかき分けるように広げ、ごぼりと血が溢れる。


 人々を避難させる騎士の数人、広間を視界に納めたものは、王軍長と入れ変わった王の側で彼を守護しているはずの王宮魔術師が眉を寄せ駆け寄ってくるのを見た。


 次の瞬間。

 嘘のように内側から引き裂けた乙女の一人から吹き上がったのは、哄笑する女の影。

 血と臓物を散らしてその影が倒れ伏すレブロン卿に手を伸ばす。


「嘘だ、悪霊……!?」

「何故、兆候などどこにも……」


 一瞬の判断で、重臣たちを庇いながら壇上から逃れた騎士たちの耳に奇妙に静かな声が届いた。


「我が君の母君の知る技のひとつでございました。悪霊は、人の肉に溶かさず内側に封じ込めば結界の内側にも持ち込めるのですよ。ネーゲの技であれば、こうして使うことも出来る。ネーゲの……異界の叡智を知ることもない群民が、愚かにも我が君を…… っああ、もすこし弱った肉が出来るかと思っていたので、最初の餌を作ってやらねばならなかったのは難儀ですが――」


 切られた腕を抑えて立ち上がった王兄の腹心コルネリオの目に、駆け寄ってくる女魔術師が映る。美しい女の指先から滑り出す光輝が理解できぬ奇妙な文字列を描き出す。


「ああ――来ると思っていましたとも。勝てるとは思っておりません。ですが、貴女のやり方は弟から聞き知っている。……”それ”は随分と掛かるもののようだ。だから――」


「扉を開く燃料には、充分なのですよ」


 次の瞬間、世界が龕灯返しの舞台のように裏返る。


 祭壇場の上の謀反人達。そして、段下に固まっていた乙女たち。

 騎士たちが目眩にも似た感覚から立ち直った時には、死体ひとつと、とっさに腕を引かれた第五王子の身代わりの少年だけを残し、彼らの姿は幻の如くに消え失せていた。

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