第361話 スサーナ、入浴する。


「湯浴みの準備ができました」


 食事の後、すこししてそう声がかかった時に、この土地では実に珍しい単語にスサーナはうっかり目をキラキラさせた。


「湯浴み、お風呂があるんですね!?」

「ああ、今日は年改めですものね。日付が変わる前に身を清めるんです。」


 レオくんがそういえばそうだった、という顔をしたので、レオくんも今晩はこっそりとこちらの部屋で大人しくしている、というつもりしかなかったのだろう。

 しかし、女官たちはちゃんと年中行事を一通り行わせるつもりでいるらしく、レオくん側の支度もしっかりと整っているらしい。

 まあ、年中行事とはいえ、縁起担ぎが実際の効果が出るらしいこの世界であれば当然のことなのかもしれぬ、とスサーナは納得する。


「あ、なるほど。この間お風呂をと申し上げた時に、屋敷の使用人達が予行に丁度いいと言っていましたものね」

「ええ。あちらでもきっと風呂場を磨いて支度をしてあったでしょうに、申し訳ないことをしたかもしれないです」

「そう殿下に仰っていただけて、皆もきっととても喜ぶと思います。でもお風呂場がいつでも使えるようになっているのでしたら、次に屋敷で休まれる時にでもゆっくり出来ますね」


 淑女的には家のもの、とか屋敷の使用人、とか言うべきであるなと思いつつスサーナはそのあたりをすこし曖昧な言い回しにした。レオくんは別にショシャナ嬢のお宅に招待されるわけではなく、あのお屋敷はレオくんのおうちの一部でもあるはずなのである。

 ――こっちも結構しっかりおうちなのは少し見えたので安心ですけど、それはそれとして。

 そうですね、と言ったレオくんが少し嬉しげに見えたので、きっとそれは正解であったに違いない。




 女官たちの説明を聞けば、浴室は、さすが王族の賓客を泊まらせる部屋らしく、部屋の側にふたつあるそうで、部屋から遠く離れるだとか、レオくんの順番を待つということも必要ないらしい。

 スサーナはさて王宮の浴室とはどういうものだろう、と少し期待したものだ。


 案内されたのは、きらびやかなタイルが壁の下半分に回され、上半分は漆喰に水辺の風景が描かれた一室だ。床は石造りで、その中央に縁が三段ほどの階段状になった六角形の浴槽が配置されている。

 浴槽はとても広いというほどではなく、人一人が横たわるなら少し頭上と足下に余裕ができるほどの直径をしていた。

 なるほど、本土の神殿で貴族の認証を受ける時に浸かった水槽になんとなく似ており、本来儀式的な沐浴のためのものだと屋敷のものよりよりわかりやすい。


 浴槽の中にはスサーナの目には場違いに見える瀟洒な寝椅子が配置され、これに座ってマッサージを受けるのだと説明されたスサーナは少しだけ遠い目になった。


 認めたくなかったが、そういうものだとはうっすらわかっていた。


 とはいえ、不快だとかそういうことではない。スサーナとしてはそれを入浴扱いしたくはないものの、薄いキャミソール状の湯浴み着を着た上で半身浴をしつつオイルで腕などを揉まれるのはお好きな人は大好きなやつだと思う。


 レモン水などを貰いつつ全身をもがもが揉まれ、かつらに気づかれたのでグリスターンの慣習で短いのだと言い訳をしながら髪を洗ってもらうことになる。


「おぐしは私が洗わせていただきますわ。お初にお目にかかります。ショシャナ様。わたくし、ラレナ家のタティアと申します。ミランド公閣下には夫が大変目をかけていただいて……」


 髪油を持って優雅な礼をしたのは30少し過ぎだろうか、という女官だ。

 先程までは雑談などもってのほか、という雰囲気であったものの、他の女官たちが着替えを取りに行ったり、お湯の替えを用意しに行ったりしているもので、口を開く気になったのだろう。

 スサーナ自身も、一対一でうっかりくしゃみも出来ないような緊張感を保ち続けたくはなかったので、ふんわりと微笑んでおくことにした。

 ――ラレナ家……

 少しの間記憶をひっくり返して、エルブエイ領プロビンシア・デ・エルブエイを預かる候の家系だという知識を思い出す。直接の係累や官職での関係ではないが、確か畜産が盛んな場所で、ミランドとはそれなりに商取引のある土地だったはずなので、面識がある相手であるというのは間違いないのだろう。


「お会いできて嬉しく思います、エルブエイ候夫人」


 スサーナが会釈するとタティアと名乗った女官は嬉しそうに微笑んだ。

 自分に面識ができたところであまりコネとしては便利ではない気がするのだけどな、と思いながらも、スサーナはそんなことはおくびにも出さず、意気込んだ雰囲気でどんな髪油がスサーナに合いそうかと語る彼女にただ頷き、結局適当に選んでもらうことにする。


 ここで洗髪係に選ばれるだけあって、エルブエイ候夫人の髪の扱いは手慣れているようだった。正直魔法のほうがスッキリ度は上だなと思いつつも、他人に洗ってもらうのは落ち着かないがそう悪い気分でもない。

 ――そういえば、ヘッドスパとか結構好きだったんですよねえ。

 かつてはなにか外に顔を出す用件の際、事前にヘアエステのコースを受けることも多かった。二時間三時間と飛ぶのは気詰まりだったが、その間の何も思考しなくていい感じは歓迎しないわけではなかったものだ。

 スサーナはなるほどそういえばそうだったな、と思い返しつつ、そういえば先日自分が髪をマッサージした側のサラは大丈夫だろうか、会場はどうなっているのだろう、などとふわふわと思考し、特に騒ぎの気配もないし、よかった、などと考えていたからか、この一日保ち続けていた緊張の糸が切れて少しだけウトウトしかけたのかもしれない。


「ショシャナ様、わたくし、本当に驚きましたの。でも、思えば当然でしたのね。ミランド公閣下は見るからにレオカディオ殿下をお大切にされておりますもの。ご令嬢……ショシャナ様がグリスターンからおいでになると聞いた時はどうなるのかと思っておりましたけれど、」


 自分の偽名を呼ぶ声にスサーナは慌てて目をしばたたいた。髪を洗ってくれている女官が何やら一生懸命に喋っているのをすっかりスルーしていたらしい。運良く顔はタオルの下であるので、すっかりぼーっと目を閉じていたのは気づかれていないだろう。


「まさか、レオカディオ殿下がショシャナ様とこれほどお親しくしておられるだなんて。冬狩りにお誘いになられるほどとは思ってもみませんでしたわ」


 感慨深げに言った声にスサーナは特に引っかかりもなく頷いた。

 スサーナが学んできた貴族のルールや暗喩の中には新年の狩りについて意味深なものは含まれてはいなかったからだ。確かに仲の良さ程度は示すのかもしれないが、家族だとか、交流があるだとか、そのぐらいで呼んでもおかしくのないもののはずだ。むしろ、保護者や後見人の許可があれば、天幕に交流のある相手を呼ぶのは貴公子の義務というような大きな催し……いわゆる「王宮の狩り」なのだから。


「レオカディオ殿下は父の後継となると長く目されておいででしたから、元より交流がありましたので。ええ、大事な家族のようなものなのです。」

「ええ、ええ、そうでしょうとも、何の心配もいりませんわ」


 返答に一瞬違和感があった気はしたものの、無事に立太子が終わらなければ父の後継どころではなく、夏の事件は貴族たちの間ではすっかり風化したようでも、その余波は宮廷に関わる人々からすればまだまだ気を張る事柄に違いない。つまり、無事にレオくんがミランド公の後継となるだろう、というとてもわきまえた返答に違いなかった。


 最後に大きな器に運ばれてきた香草の香りの水をざっと浴びせてもらって仕上げであるらしい。


 スサーナは丁寧に礼を述べると、着替えが用意されているという隣室へ向かった。


 ――――――

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