第351話 偽亜麻色の髪の乙女……

 アブラーン卿の私邸の広間からは途切れず喧騒が聞こえている。

 どっと湧いた笑い声を聞くともなく聞きながら、サラは長椅子に座り込んだ。


 メイドたちは部屋の中まで明かりをつけていってくれなかったので、松明が置かれている庭先からわずかに差し込む光だけが全てで、部屋にあるものは輪郭ぐらいしか見えなかった。


 第三妃様の心尽くしで貸していただいたドレスを着替えたあと、サラは、アブラーン卿に連れられて数か所のパーティーを周り、それからようやく帰宅した。

 乙女の後援の大人はあの席にはだれも居なかったのに、王子様の覚えもめでたくなどと滔々と語っていたのは、口から出任せなのか、それとも少しだけ第五王子殿下に言葉を交わしていただけたのを知ったのか……何か、息のかかった者を使用人に仕込んであったのかもしれない。

 ともかく、アブラーン卿は比較的上機嫌で、顔を出した席からそのまま伴ってきた数人のお客と酒宴を開いている。どうやらもうサラを立たせておく必要はないようで、部屋に戻らせろと言ったあとはなんの興味もなくなったようだったし、使用人たちも主の機嫌を取るのに夢中で、サラのことには何も関心がないようなのはありがたい話だった。


 ――今日は、疲れた……。

 早朝から支度をし、乙女探しに出て。

 自分が望まれたのもここにいるのもそのためで、それはそれは心を波立たせるのだろうと思っていたが、むしろその前と後のほうが印象深いのはおかしなことだ。


 事前の言葉通り、スシーはちゃんとあとの着替えにも現れた。首尾よくメイドたちを追い出し、それでも誰かに聞かれやしないかと気を張りながら、あのお話、お受けしてみようかと思う、と気取ったふりであいまいに濁して呟いたサラに彼女はせわしなく縦に首を振ったものだ。どこのお家に滞在しているのか、どうしているのか聞ければなんとか訪ねていくし、理由なんていくらでもでっち上げますからなどと言った言葉はきっと蛮勇じみたあさはかなもので、まったく頼りになぞならなさそうだったが、その幼さすら感じる気負いが逆に心の何処かを緩めたのかもしれない。

 ――期待をしているわけではないのだけれど。

 でも、本当に何を考えたのか、この同僚は本当に、サラ自身でさえ他人がそうとなれば保身を考えて目をそらしたくなるだろう事情に首を突っ込んで、なにがしか、本当にサラの手助けをしようというつもりであるのは間違いないようなのだ。


 ――ええ、だから、これは期待というようなものなどではないのだけれど。


 そんな気力はなかったはずなのに、誰の目もないのをいいことに、二度と出ようと思っていなかったはずの窓の蝶番に爪を立てて揺すぶり、外れるかどうかを試したり、使用人用の布靴を一つ戸棚の裏に隠したりということをするのは、もし万が一無鉄砲な同僚、友人が乗り込んできたらと想像した……もしも、の、念のため、の手すさびのようなものだ。

 もし、そんな事があるのならきっと、彼女をこっそり外に出せる手段はあったほうがいいのだから。

 それで少し爪の端を剥がしてしまったけれど、後々黒くなってしまったところで爪紅を厚く塗り込めるのだから気づかれるようなことはないだろう。


 ともあれ、こうして乙女探しに出たあとは、アブラーン卿はできるだけ王宮周りに顔を出すつもりであるらしかったので、もしかすれば本当にスシーがコネがあるという文官に事態を話す機会もあるのかも知れないとは思う。




 このまま眠ってしまおうか、と、目を閉じたからだろうか。

 こつ、と床石が鳴る冷たい音が耳に響く。

 奇妙な確信に満ちて目を開くと、そこにはサラの思った通り、道化が一人立っていた。


「やあ、疲れた顔をしているねぇ」


 道化芝居がかって抑揚に富み、どこか嘲りじみた笑いの気配を漂わせる声は、もう慣れたもの。

 サラは長椅子にくずおれたまま首を上げ、道化を振り仰いだ。


「アブラーン卿お待ちかねの、私の呼ばれたのが今日だったの」

「おやおや、それはそれは。それで君は唯々諾々と肉屋の店先の豚みたいに自分を売り込んできたんだ。いアブラーン卿を富ませるために?」

「それって韻を踏んだつもり?」

「おや、面白くないかい?」

「ちっとも」

「あれれ、辛辣だねぇ。キガエルに睨まれた鳥みたいにいぴい嘆に飲まれて鳴くのが君の性分かと思ったけれど」

「しかも今度は途中で韻を踏むのを諦めたのね。……そうして揶揄われるのは慣れたもの。それに、今日は、それだけではなかったのだわ……」

「へえ、王子様が微笑みかけてくれでもした? もしかしてもしかすると、君はまだ奇跡が起こるって思ってる? うずくまってしくしく泣いていれば、幸運が向こうからやってきて、トントン拍子に幸せになれるって?」


 そんなこと無いでしょう、と澑る声に頷く。暗がりなのに道化が口元を歪めて笑う表情は奇妙にくっきりと見えて、滑稽で、獰猛で、恐ろしくて美しい。


「アブラーン卿にとっては君はいつでもくびりころせる子豚ちゃんに過ぎないし、君のパパだって、冬の備えのハムが代金を稼いでくれて感謝はしてるだろうけどそれだけだね、買い戻そうだなんてちっとも思いやしない。王子様だって不格好でみすぼらしい子豚にわざわざ手を差し伸べない。ずらりと並んだどの豚が屠殺されるかなんて気にしちゃいないし、檻の中で場所を一つ変わってしまえば家畜小屋の子豚の見分けなんか付きやしない。目にとまるのはいつだって極上に特別なお姫様だけ。いつだって、ぱっとしない特別じゃないだれかなんて、そうやってどこにでもあるハムにされておしまいさ。ウィーウィー鳴くだけの子豚なんてそうして食い物にされるばかり。悔しいねえ?」


 目元を白い手袋で抑えて大げさにケタケタと笑う道化を見上げながらサラは思う。


 ああ、でも。

 ――あの子、スシーは。

 自分を気にかけてくれた。きっと、下級侍女のしがらみを思えばとても大変だったろう役目に紛れ込んで、サラを案じてくれた。なにかをしようとしてくれた。

 助けてなんの得もないのに、特別でも何でもなくても。

 下級侍女として働きに出て、実際に働いたのはほんの一月足らず。アブラーン卿ですら同じ場所で働いた下級侍女たちと顔を合わせることに警戒すらしていない、本当に短い付き合いの相手だというのに。


 王子様だって、失言を聞かなかったことにしてくれて、それで、ああ、サラが望んだ救い主のようなひとではなかったけれど、特別を選び出す神様とは全然違ったけれど、あんなふうに、温度を伴って笑った。何故か、それでサラはひどく楽になったような気がした。


 世界は、サラに関係ないところばかりで動いていくものかと思っていたのに。


 だから、今日は嬉しかった。嬉しかったのだ。


「ねえ、私、アブラーン卿に連れて行かれたところで何度も、私はとても可哀想で、だから特別になるべきだって言われたの。私が特別じゃないのは誰か偉い人が悪いって。……そして、愚かで、価値がなくて、なんの役にも立たない私を特別にしてくれるのだから、アブラーン卿の言うことを聞かなくちゃいけない、って」


 サラは笑い続ける道化に語りかける。立ち上がり、一歩。そばまで歩み寄ればもしやそのまますうっと消えるのかもしれない、とまだ思っていたけれど、道化の姿は消えたりはせず、ただぴたりと黙り込んでサラを見下ろすばかり。


「それが正しい役目で、みんなのためだって。みんな一緒に幸せになれるって。でも貴方は憎いねと言うのだわ。悔しいって。私、きっと、それがとても嬉しかった。だから……貴方は私が見ている幻だとずっと思っていたのだわ。でも、違うのね」


 何故だろう。この道化が落とす言葉は何一つ正しいと認めていいようなものではなくて、いっそその分、朧な記憶の中で誰かに聞かされた大義だとか、アブラーン卿に毎日のように言い聞かされる恩義とやらだとか、そんなものよりもずいぶんと胸に馴染んだ。だからこそ、サラはこの道化が自分の心が生み出した幻影かと思っていたのだ。自分の心をそのまま代弁しているものかと。


「私……きっと、誰も彼もがみんな憎いわけじゃないのだわ。憎いのは貴方ね?」

「そうだとしたら、どうなんだい?」


 ああ、と息を漏らすような声で道化は呟き、そして言う。


「驚いた、今日の君は、正気なのか」


 その声はわざとらしく抑揚に富んだこれまでとは打って変わって奇妙に静かでぱきんと澄んで、サラはひゅっと息を呑んだ。

 ――このひとが現実だと言うなら、それは――

 夜ごとに訪れる道化と交わした言葉は泣き言だけではない。耳元に落とされるその声には様々なものがあった。嘲笑じみたものも、憐れむようなものも、弄ぶようにそそのかすようなものも。


「貴方が憎いのは、王様? それとも、貴族の誰か?」

「そんなこと、知ってどうするつもりだい? ああ、なるほど、駆け引きをするつもりかな? じゃあ大サービスで教えてあげよう。僕はとは別のものだ。怨嗟も無念も普遍的なものだから、形を揃えれば啄むのに丁度いいけれど、事情などどうでもいい。だから、有効なカードにはならないねえ。さて、そのうえで賭けてみる? 君が賭け金を持ち帰れるものか。最初のチップはあるかい?」

「随分と手前勝手なのだわ……」

「おや、これでも随分譲歩したんだよ? どうしてだか、今夜の君が正気なら、それに免じてゲームのテーブルについてあげてもいいぐらい。それなりに尊重していると思ってほしいなぁ」


 道化の姿をしたなにかは面白げに手を打ってみせたけれど、いつの間にか平凡な茶色をしていたはずの目も、飾りをジャラジャラとつけた道化帽子の下から覗く髪も無明の夜の底の色をして、おどけた与し易げな気配なぞ少しも残ってはいなかった。


「どうかしら。私、その席には座るつもりはないのだもの。だってそんな必要はないから。 私、きっと貴方との約束は破らないわ。」


 サラはもうひとつひゅうと息を吸い、それからその目を覗き込む。

 声は震えたけれど、はっきりと言いきれたのでほっとする。


「おやおや、それは無欲だ。それとも言い逃れようとしているのかな? 賢明に清廉に振る舞うので見逃してくれ、って? 口先だけで言い抜けられるほど約束っていうものは甘くないよ」

「私にだって、優先順位はあるのだわ。……ただうずくまって泣いているだけのつもりなどないの。私に意味があるもの以外、どうなろうと何もかも知らないもの」

「ははは、はは! そう、そうだね、そうかもね」


 それなら、ダンスカードに予約を入れておくれ、と伸ばされた手を掴めば、それは冷え切った部屋よりは、ということなのだけど、暖かくてひどくちぐはぐな気持ちになった。

 じゃあこれはおまけだ、と囁いて道化がどこからともなく取り出したのは、一対の瀟洒な手袋だった。盛装に合わせられるような光沢のある薄い布で作られたそれをサラの手にするりと被せ、口元を引き上げて笑う。


「ダンスに向かうお姫様に贈り物だ」


 男が指先に口付けると、熱の落ちたところから剥がれた爪の違和感が曖昧になっていく。くるりと回されてサラは短く目を閉じる。ふわりとその動きのまままた長椅子に戻されてまた目を開けると、さきほど長椅子に凭れて目を閉じた一瞬に見た夢だったように、もう道化の姿はどこにも見当たらない。


 何もかもが憎い訳では無い。これだけは、と思うものもある。

 しあわせになりたいだけなのだ。

 だから、これはきっと最良のやり方だ。


 傷の痛みを取って貰ったその時、泣きたいほど安堵したのは、間違いのないことだったから。

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