第323話 偽亜麻色の髪の乙女、偽悪役令嬢に捕獲される。
は、と吐いた息に疲労感と倦怠感で出来た不可視のもやが混ざるような気がした。
壁際に立たされている部屋はとても広く、天井は幼い頃から住んでいた家よりずっと高く、霞んだ目に幾重にも残像を残すキラキラとした明かりはいたく華やかだ。
奉公に入った王城に比べればそれはまだ何ということもないものなのかもしれないけれど、なぜか掃除に駆け回った王城のそれよりもこのきらきらしさはずっと場違いであるという感覚をサラに植え付ける。
幼い頃、お下がりのお下がりのまたお下がりを父がどこかから求めてきてくれた物語の絵付き本で知った社交界というものの光景にそれは似ているようだったけれど、幼い頃憧れた誇らしく美しい社交界とここはどこか絶対的に違うような気がした。
家に帰りたい。あの小さな領地の、少し大きな農家の母屋と変わらないと父が笑ったあの屋敷に。
サラは切実に願い、そして首を振る。
――でも、それはできない……
サラは、最近夭折した辺境領主の娘で、親族のアブラーン卿に引き取られた娘であるということになっている。てんで出鱈目だが、辺境の零細領主の家族構成に興味があるものはそこまで多くなく、ましてやお披露目前の娘ともなると調べてもそう簡単に事の真偽などわかるものではないということはサラにもわかる。
夭折したその領主は夏にあったという演奏会の招待客の末席に一応名前があった一人で、その娘ということは、今の貴族社会にはある程度の意味があった。
ひりひりと痛む頭を小さく振る動きにつれてはらりと落ちてくる髪は見知らぬよそよそしい色で、その演奏会で王子を救った令嬢がそうであったと噂されている亜麻色だ。
ボロが出ないような言い訳と最低限の受け答えを用意されて、それに従って、ひたすら挨拶を繰り返す。
父が領地経営の穴を埋めるために借りた金の返済を求められるその代わりに自分はここにいる。その金額は、一体なぜそんな事になったのかサラにはよくわからなかったが、父が不足だと悩んでいた分よりもずっと莫大で、家財を売っても、娘たちが働きに出ても、賄えないのは明白なものだった。
――今年の収穫が良ければ、いえ、来年の収穫まで期待できれば本当は返せていたはずだったのに。
魔獣の発生が多かった今年の領地の収穫はあまりはかばかしくはなく、いや、サラにはうまく飲み込めない理屈いろいろで。農業と牧畜と、少し特色があるといえば小さな鉱山。伝聞だが、毎年だいぶ綱渡りであったらしい領地経営の資金はすぐ焦げ付き。借金はすぐに返せそうにもない金額に膨れ上がった、のだという。
だから、サラ一人が養女になるだけでその全てをなかった事にしてくれるという申し出は、とても割の良いものであったはずだった。
本当にそうなのだ。奉公に出るどころか、娘たち皆が身売りをしてすら払いきれるものではなかったのだから。こんな話があると父が重い口を開いたあのときに一も二もなく頷き、渋る両親を説得したのはサラ自身だった。
――借金も無くなって、来年の支度金も用意して頂けるなら今年の冬の備えが不安でも領地の皆さんは安泰で、私自身は王子様にも会えて。選ばれなくても結婚の世話までして頂ける、って。
申し出を受けたときに、ほんの少し、もしかしたらと浮かれたのは事実だった。
田舎貴族の六人目の娘で、お披露目もする予定のなかった自分が憧れた社交界に出られるのだと知ったときには胸が騒いだし、王城で下働きをしていると姿を垣間見ることのある王族様達はみな美しく、見惚れるようで、第四王子と第五王子の二人は、サラと年も近いのに、領地の村の男の子たちなんかとは全然違ったし、継承位が低く王位を継ぐことはない、という触れ込みの彼にサラは勝手に、家を継ぐ予定なぞなく、お城奉公でなんとか行く先を考えなくてはいけない自分と重ねて親近感を持った。
ああ、でも、今はもう、そんな物全部放り捨てて、選ばれなくてもいいから、二度とこんな場に立たなくてもいいから、将来の安泰なんてどうでもいいから、どうかどうか帰りたい。
――でも。
帰れない。ああ、きっと、帰るわけには行かないのだ。
自分が身をおいているこの立場は、きっと、第五王子が気に入るような妃候補になれればなどという甘いものではなくて、きっと、とてもよくないなにかだ。
もし逃げて帰って。首尾よくうちに戻れても、あのとき、領地からはるばる出てきた父を。養女に入る為縁を切る、という契約書を代理人と取り交わして何度も自分にお礼を言いながらさめざめ泣いていた父を。そのお金で少しだけなにもかもに余裕ができて、なんとか最後の機会に近い次のシーズンには出られるかもしれないという上の姉を。何も知らずに領地で冬備えの指揮をしているのだろう家族を。これに巻き込んではいけないし、きっと、こんな事で頼れる相手なんか、ろくに社交のツテもない父が知るはずがないのだ。
頼る相手もいない。
隙を見て告発しようにも自分のような小娘が言うことなど誰が信じてくれようか。アブラーン卿の言うことと自分の言うことなら人々は間違いなくあちらに重きを置くだろう。それに、誰が敵で誰が味方なのか、自分にはまったくわからない。
家族に類が及んでしまわないか恐ろしい。
それに。
それに。
……ああ、そうだ。とても恐ろしくて恐ろしくてたまらない。
結果、自分はここで今、きらきらしたもの全てに阻害されたような気持ちで、ただ立っている。他にできることなんて、何一つ思いつけやせずに。
サラはもうひとつ息を吐き、冷え切った肩をさすった。
いま身に着けているドレスは数年前の流行りとかで随分と薄く、本来なら冬の初めに着るものではなかろうか。でなくとも、底冷えする壁際でただ立っているのには向いた格好とは言い難い。
そのうえその衣装はサラの体には少し合わない仕立てで血の巡りをとても阻害したため、手も足も、むきだしの肩も、冷たくてじんじんと痛んだ。
少し離れたテーブル脇には移動式の炉が置かれ、ほこほこと銅の
ふわりとしたスパイスの煮込まれるにおいと、ワインの香り。
少しだけ、あちらのテーブルで配られている暖かそうなホットワインを飲んでもいいのではないだろうか。
挨拶をさせられる相手も先程から途切れ、乱暴に引っ張られ続けた腕の付け根がじわりと痛むのだと意識することが出来始めている。
――少しだけ。少しだけだから。
ちらりと見た、養父、ということになっている男は今は少し離れた場所にいて、こちらに少しも意識を振り向けてはいないようだった。
なにかとても得意げに、身振り手振りを交えて誰かと会話をしている。
――随分と、お話がはずんでいる様子だから……きっと、もう暫くは呼ばれないはず。
今のうちに飲んで、さっとグラスを返してしまえば何か飲んだとも気づかれまいし、一体何の要素で気に障るのか全く予想もつかない激高の仕方をする相手であっても怒らせずに済ませることが出来るだろう。
サラは靴ずれで痛む足ですこしヨロヨロしながらホットワインを配るテーブルに近づき、優雅な銅のゴブレットに満たしたワインを受け取って、この夜にはじめてほっと緩めた息を吐いた。
果物とシロップを混ぜたワインの甘みと喉を下っていく熱がじわりと染みて、一瞬とても美味しいと思いかけてからなんだかとてもやりきれない気持ちになる。
涙をこらえて、鼻をすすって、それでもここで温かいワインを飲みやめてしまえば残りの夜が余計辛くなるばかりだとわかっているから、ひっくとこみ上げる嗚咽のたびにワインの表面に浮かぶ波紋に唇を濡らしながらワインを啜り、少しお腹が暖かくなって、頑張ってそんなことまで考えなくてはいけないみじめさに胸がひどく切り裂かれたような気分になった。
――どうして。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
この世で一番不幸になったような気がして、たまらなくなる。テーブルの傍を歩いていく華やかな格好で笑い合っている招待客達がきらきらとなんの憂いもなさそうで、まるで別の世界の住人のように見えて、とてもとても羨ましくてたまらなかった。
「いま、よろしいかしら」
邪魔が入らずにゴブレットを空に出来たことにほっとして、テーブルにグラスを返したところで後ろから声がかかり、サラは振り向いた。
なんだか聞き覚えがある気が一瞬したそれはつい数日前にほんの少し顔を合わせた上位貴族のご令嬢の声で、どうして聞き覚えがあるとまで思ったのかはわからなかった。
見るからに高級で豪奢で、サラの身につけたものとは布の量も技量も天と地の差がありそうなドレスと、甘く濃い高価な香水の香りをさせている彼女はどうしてか少し前からそこに立ってサラのことを見ていたのだろう。かつりと上等な靴の音を鳴らしてサラのすぐ前まで歩み寄ってくる。
生まれつきの巻毛ではなさそうな髪を後ろでくるくると巻いた、とても手のかかっていそうな髪型の髪は黒く、彼女は北の公と呼び慣わされるミランド公、同じ貴族とはいえサラにはお目にかかることも一生できないような国内有数の大貴族が異国から呼び寄せた隠し子なのだという。
隠し子だと言ってもきっと、とても身分があるところで育ってきたのだろう。背筋をぴんと伸ばした優雅な足取りでサラの向かいに立った彼女はとても自信にあふれているように見える。
扇の向こうから見える髪と同じ黒く長いまつげがぱちりと瞬かれ、会場のそこここで焚かれている蝋燭の炎が光を残して揺れる瞳に自分が映されるのを見て、サラはすこしたじろいだ。
そんな特別な女の子が自分を見ていた理由も、こうして話しかけられる理由もまったく理解できない。
「は、はい……」
答えた声はしょぼしょぼとかすれて、我ながらとてもみっともないと思った。
彼女は数瞬扇の向こうで押し黙り、それから口を開く。固く張った音色がくつくつと煮える鍋の音をかき消して響く。
「サラさん、と仰いましたね。……あなたが乙女探しに出るおつもりなのだとお聞きしました。」
「っは、い、それは……」
サラは小さく身をすくませる。彼女が一体何を言おうとするのか、解った気がしたからだ。
高貴な公位令嬢が、どう見ても彼女にそぐわないような娘に近寄っていったのを目撃したらしいテーブルの周囲、サラの近くにいた者たちもどうやらそれは察したらしい。一体何があるのか、という目線だった者たちの間から、皮肉げだったり面白げだったり、すこし意地悪そうなクスクス笑いや囁きも漏れたようだった。
彼女はミランド公の娘だ。乙女探しを催す、第五王子レオカディオの後援者であり、彼が臣籍に下るのならば次のミランド公とするだろう、と言われている人物の。
彼女と第五王子殿下の関係に関する噂は様々で、公位を争う可能性があるのだから不仲であるだろうというもの、立場上、婚姻を結ぶなら彼女こそが一番妥当な立場だろうといったもの、両極端な噂をサラも耳にした。だが、正にせよ、負にせよ、なにか感情があるならどちらであっても「亜麻色の髪の乙女」の候補に対する思いは穏やかではないだろう、というのが無責任な噂の語る――この場でも聞こえてくる――一般的な意見だ。
ショシャナ嬢はまた短く黙り、扇を軽く閉じてまた開き直し、小さく咳払いしてから言う。
「あなたは、乙女としてレオカディオ殿下に選ばれるおつもりがあるのですか?」
サラは、先程まであれほどずっとこちらに意識を向けないでほしいと祈っていた義父を急いで目線で探し、そして絶望した。
先程までそれなりの近場にいたはずが、会場の反対側近く、壁際の絵画のそばで話し込んでいるのが不明瞭ながらそうではないか、と思われたのだ。
熱を込めてなにか話している彼と会話をしている相手はひときわ位の高い方々に囲まれている。綺羅星のようなその人は第二王子その人なのではないだろうか。纏った衣装は先程サラも到着の号令でそちらにちらりと目を向け、高貴な方はそのような恰好なのだ、とぼんやり感心した格好と一致しているようだった。
――ああ、あれでは絶対にこちらに気づいたりはしないわ……。
そんなつもりはない、だとか、自分の本意ではない、と、その場しのぎのごまかしであれ言いたかったけれど、怯えた口はうまく言葉を紡いではくれないし、言えたとしてもサラはそんな風に言い切ってしまうことは許されない立場だ。
そう言い切って、では、とこの先の去就を手配されてしまったりすれば、きっとそれはアブラーン卿の思惑とは外れてしまうだろう。それはとてもとても恐ろしい。
「っっ……あ、私、」
サラは一歩後ずさり、ぎゅうっと胸の前で手を握り込む。小柄なくせに堂々と……ひどく強い目線でこちらを見つめる高貴な公の令嬢の圧から自分を隔てられそうなものはそのぐらいしか思いつかなかった。
彼女はふっと息を吐いたようだった。
「ああ、このようなところでお話をしようだなどと、無作法でしたね。少し……お付き合いくださいな。ゆっくり話せるところに行きましょう?」
笑みの形に歪めた黒い瞳が周りで経緯を眺めている周囲の人々にゆっくりゆっくりと留められ、くるりと見渡される。
「お邪魔をしました。どうぞ、皆様はお気になさらずゆっくり楽しまれてくださいね。」
声のないざわりとした動揺じみた気配が周りにいた野次馬に流れたようだった。
公の娘の不興を買ったらどうなるのか、ということを彼らも一瞬で考えたのだろう。後ずさる誰か、急いでくるりとどこかに行ってしまう誰か。先程から面白い見世物のようにこちらを見ていた彼らですら呼び止めたくて仕方なかったけれど、そんなこと叶いはしない。
震えるうちにすっと手首に触れられ、軽く掴まれる。
それが奇妙に柔らかい動きで、まるで親しい友人か何かにどこかに誘われていくような錯覚すら覚える優雅さが恐ろしい。
逃れるすべも思いつかないまま、サラは公の令嬢に腕を取られ、暗い廊下に歩みだしていた。
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