第312話 ネル、さらに潜入する。
会話の後に旅芸人に興味を惹かれたという様子を見せ、にこやかに食事の片付けを手伝ったネルは、女に村の広場で当該の犬使いの姿を指し示させることに成功した。
自分も見世物が好きなのだとか次の休みはどうだとか言ってくる女を適当にいなし、戻った部屋で荷物の底から指導役殿と分け合った連絡用の飾り紐を取り出し、迷わずに幾筋かの糸を抜く。それは記憶に間違いがなければ緊急ではないができるだけ早いうちに救援を求める、と言う印になるはずだ。
――あの男、手練れだった。
示された男はどうにも旅芸人の類というようにはネルには思えなかった。争いに慣れた人間特有の気配と目つき。
傭兵か信者か、もっと別に理由のある者かはわからなかったが、連絡のために抜け出す際に下手に警戒させるとまずい類の人間だ、ということだけは確かだった。
――どうにもならなければまだ手もある気はするが……
ただ単に排除するならばまだまだ自分に分はあると判断したが、軽視していいということはない。この場所に潜むのはまだ必要かもしれず、また、相手がただの犬使いならばまだしも、貴族や王族たちが獣師と呼ぶ、魔獣を使う職能者でないとも言い切れないからだ。
――あの人食い花や茸のこともある……下手を打っていい場所じゃねえな……
相手を軽視した結果、最も得るべき情報を得逃すかもしれぬ。手元に集まった情報は捕縛の助けには十分なものであるように思われたが、下手に飛び立つ際に波紋を残してはそれすらも損なうかもしれず、また、まだここではもっと有用な情報を拾える可能性も高い。一度離脱するにしてもまた戻ってきて何事もなかったように潜み直すという選択は可能なよう温存しておきたかった。
獣師というものが使うわざはもともと鳥の民のある氏族のうちで養われた技術なのだ、と聞かされたことがある。何やらあまり言いたくない理由らしいが、血の薄い氏族でも使えるように整えられた、それゆえに常民でも扱える技術が南の大陸において漏洩したのがその最初であるという。ゆえに氏族の技術に絶対の自信を持つ鳥の民達であれ「けして油断はできない」というのが獣師とやらだ。
『でも、折角盗み出した火を広く分け与えもせず門外不出の技術とやらにしてくれたから、注意を払うべき相手の総数が多くはないのは救いなんだけどね。そう呼ばれるものの殆どはいまや紛い物に過ぎない。そう待たずに燻り消えるだろう。彼らの愚かさに感謝しなくちゃいけない』
古い技術であってもそれはつまり古の叡智に近く、古い技術であるからこそ古来から磨かれた、厄介な技術。そう彼に教えた指導役殿はそれでも面白そうに唇を釣り上げてそう嘯いたものだが、百年後に絶えていようが今目の前に面倒があるのでは現状特に有り難みなどありはしない。
常民の間で培われた獣を使う技術と獣師とを見分ける方法はネルは不運にもまだ習っていない。ただ、魔獣を扱う技術を持ったものがいるならば獣師が――ほとんど紛い物に近いものであるか本流の厄介な職能者であるかはわからないが――関わりがあることだけは間違いがないはずだ。
それでも犬使いが警戒するのが村の外だけであるのが見えるのはなんとかの救いだ。
そう待たぬうちに飾り結びが形を変え、数日のスパンで待てるか、という意味の返りがあったと知れる。
どうやらあちらもなかなか抜けられない状態らしい、と悟りネルはため息をつき、しかしなんとか許容範囲の内だと「それで構わない」というしるしを残した。
できるだけ早く主に連絡をしてやりたいが、一刻を争う事態、と言うほどではない。
ネルはしっかりと飾り結びを隠し、何食わぬ顔で台所の芋剥きに戻った。
昨日騒動を起こしたことの「謹慎」ということで彼は外仕事から本日外されている。代わりに女達の仕事を手伝わされているこれは懲罰の一環なのだそうだが、数日こちらの食事周りを担当していたことで顔見知りになった女信者をきっかけに、村に元から住んでいた信者達に親しみを覚えられる手がかりになったのでむしろ有り難いほどだ。
普通の男信者達がそれなりに恥ずかしいことと捉える〝女々しい作業〟とやらを甲斐甲斐しく行うネルはそこそこ好意的に雑務を行う女信者達に受け入れられたようだった。
「洗い物は俺がしますよ。こんな冬の最中に川の水を使うんじゃ辛いでしょう。綺麗な指なのに、ひび割れちまう」
――いい機会だ。うまく西の屋敷についてと……司祭様とやらがここで何をやっているのかを聞けりゃいいんだが。
待機する数日の間にできるだけ残りの取りこぼしを減らすよう動こう。ネルはとりあえずそう決め、うまく自分に好感を覚えたらしい女信者達を手がかりにその情報を集めることにした。
秘密主義の教団に属してはいても彼らは訓練を受けた人間ではなく、本質的には街住まいの平凡な庶民だ。ネルはここぞと重いものを運び、水仕事を代わり、合間を縫って女達に微笑みかける。
それから2日ほど。
夜半過ぎにネルは同室の者たちの目を盗んで潜り込んだ女の一人の部屋の中、寝台の上で彼女の話を聞いていた。
「ねえ、ダニエル。知ってる? 明日の便で白粉だのクリームだのがたんと届くんだって。羨ましいわ、全部西の屋敷に持っていくんだから、一つもこっちには回ってこないの。」
「エリィ、君のためなら次に街に戻る時に一番流行りの化粧品を買ってくるよ。きっとすごく似合うだろうな。」
できるだけ優しげに微笑んで女の頬を撫でる。贔屓の香水屋があるからそこで一番人気の香水も頼もう、と囁くと彼女は目を輝かせ、嬉しげに笑う。
「……でも不思議だなあ。西の屋敷じゃそんなもの使うのかい? 西の屋敷のお話はほとんど聞かせちゃ貰えないから、俺みたいな新入りはなにもわからないことばっかりだ。エリィが髪を結ってるのは司祭様のお客なのか? 白粉を使うんじゃ男の客じゃなさそうで安心だけど、エリィのことを何も知らないみたいで寂しいな」
「まあ、ふふ。 あたしも司祭様のお客ばっかりいるんだと思ってたけど……。女の子よ。三人ぐらい居るの、こないだ街からの馬車で来たんだって。……あんまり言い回っちゃいけないんだけど、みんなほんの子供ばっかりだったから、まさかダニエル浮気しやしないでしょ?」
ネルの指に頬を擦り寄せて笑った彼女は西の屋敷に呼ばれて小間使いをしているという女だ。雑用めいた行為全般と髪結いが出来るというのを見込まれそちらの仕事を得たのだという。
規定の時間以外の秘密の休憩の秘密の共有者になり、外部の話題を求め刺激にも飢えていた女達に王都の話題を提供することを数度、それだけで「王都育ちで貴族の屋敷に勤めていた毛並みのいい召使い」は色目を向ける価値のある男として認識されたらしく、いい具合に口が軽くなった女達の中で西の屋敷に関わるものはとネルが割り出したのがこの女だ。
内向きで仕事をする女達のうちでもそれは「名誉な仕事」であるらしく、いかにもそれが武器になるという態度で他の有象無象の女とは違うのだと胸を張ったそれはネルにはいささか理解し難いものだったが、教団内、とくにこの村の中での女達の階層意識ではそうなるのだろう。
どうあれ、少し感心して見せれば無理に聞き出そうとせずにいても内情をどんどん滑り良い口で流してくれるので全く意見はない。
「まさか、エリィだけだよ。そんな子供なのに白粉を使うんだ?」
「ええ。なんだかね、いい格好をさせなきゃいけないんだって。なんだか癪だよね。荷物の運び込みも楽じゃないのに、そんな子供を飾り立てるためだなんてさ」
「荷物の運び込みもエリィ達がするのか? 心配だな。重いもので腰でも痛めたら大変だろ。なんとか手伝ってやれたらいいんだが」
抜け目なく言いながらネルは微笑む。この手のやり方はあの悪趣味だった前の主の娯楽として習い覚えたものだ。面白くないことばかりだったが、今になってみれば
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