第251話 偽物令嬢、入浴がしたい。

 暗躍をすることを決めたところでまた日は昇るし、朝が来ればまた日常生活と社交が待っている。


 とはいえ、お披露目前の少女に求められることは本来さほど多くない。

 訪問を受けても訪問を返す必要はないし、現状行う社交は基本的にミランド公お父様と同席する類のものだ。

 令嬢だけで行う社交といえば、そろそろ年頃の近い少女のいる家やアランバルリ家と付き合いのある貴婦人からお茶会の誘いが来出す頃だ、とお父様は言っていたものだが、その手の「お披露目前の少女のための社交」にも箔付けになる最初の一度というものがあり、最初の一度はその手のものになる予定だ、ということでまだ考えなくていいらしい。

 というわけで、次の日のこと。お父様が今日は帰宅できないと朝知らせをよこしたので、急に予定がぽっかり空いた。


 礼儀作法のレッスンの予定は王都に来てからは社交の都合上ぐっと減ったし、そろそろ専門性が高いものになっているために侍女から教わるのではなく、礼儀作法の教師を入れる項目になっている。同時にダンスも予定を入れて専門の教師が呼ばれるものになっているので、急な空き時間に出来るというものではない。

 学院に行かぬぶんに追いつくための家庭教師は週数回で、今日は予定の日ではない。

 ではこっそり夜のカリカの授業に備えるべきか、というと魔法に使う糸はたっぷり紡いであり、なんなら血染めをした上で各色に染めたものが数巻きずつ用意してある。


 隠し子になることを了承してからというものの、田舎でも王都でもみっちみちに予定が詰まっていたスサーナだ。降って湧いた休日に喜ぶ前になんとなくたじろぐ。


 ――今のうちに調査するための裏工作とかをしておく、というのが効率的なんでしょうけど……。

 スサーナの悪巧みはまだいくつか確認する事項と、それをはっきりさせてからネルとミッシィと相談をしておいたほうが良いことがあるため、時間が空いたからといって大きく動くのはあまりよろしくない。


 ――なにしましょう。

 魔法とは関係ない刺繍、縫い物に編み物、読書、色々時間が空いたらやりたいこともやっておくべきこともある。スサーナはしばらく思案し、とりあえず朝の挨拶にやって来た侍女にこう声を掛けた。


「少し体調を崩してしまったようで、今日は静かに過ごそうかと思います。」


 そんな甘っちょろいサボりの言い訳は通用しません、と言われることもそれなりに覚悟していたのだが、もともと入れられる予定が少ない日だ、というのが功を奏したらしい。侍女たちはわかりました、と一礼する。

 しばし。侍女頭が現れて薬湯を机に置いた。

 飲むように勧められてうっかり口にしたスサーナは静かに悶絶する。非常にすごい味でありハーブティーと呼ぶべきではない代物だった。


「グリスターンよりもこちらの気候は厳しゅうございますから、体が驚かれたのかもしれませんね。お召し替えはどうされますか?」


 今体が驚きました! と思いながらスサーナはとりあえず首を振る。


「いえ、結構です。」


 特に外に出かける予定もないし、もし出かけるにしても自分で着られる服を着てネルの手引で抜け出す方針のほうが気楽だ。後ろで留めてピンを多用するドレスを着ずに済むのなら着ずに済ませたい。


「承知いたしました。」

「メリッサだけ控えさせておくので、他の皆は今日は休めるものは休んでください」

「まあ、お嬢様。でしたら隣で控えておりますわ。」

「人がいると気分が落ち着かないので……。そう具合が悪いというわけでもないのですけれど、どうも疲れが出たのでしょう。……思えば皆様も、田舎からずっと気を張りどおしでお勤めしてくださっています。どうかこの機会にと思って体と心を休めてくれると嬉しいのですけれど。」


 スサーナは考え深いお嬢様の顔で詭弁を弄してみせた。

 なんのことはない、侍女たちの目があると令嬢らしく振る舞わなければならないのが気詰まりなだけなのだが。


 一応、本来は侍女たちには交代で休みの日もあるらしい。お父様ミランド公は鷹揚な雇い主なので公休もあれば申請制の有給もある――小間使をやっていたスサーナがあんまり侍女たちの顔ぶれにブレがないので心配していたところ、太鼓判があった――。ただ、「隠し子が本宅に入ったばかり」という事情であり、そのあたり責任感あふれる侍女達はこれまで休みをとったものはいなかったのだ。


 スサーナは注意深く「これを皮切りにしないか」と侍女たちを誘惑していく。

 色々新しい予定はまだあるものの、お嬢様スサーナの生活自体は安定している。侍女たちが気を張るような不測の事態というのはそろそろもう起こらないと思って良いだろう。彼女たちが休まずいるのはきっかけがなかったという理由もあるだろうとスサーナは考えている。


「私が安心して過ごせるのも皆様の助けあってこそ。こちらに来てから本当に心強く思っています。……ですが、そのためには皆様が健やかでなくては。ちゃんと休んで、ご自身を労っていただきませんと。」

「お嬢様……。なんとありがたいお言葉でございましょう」


 しばらく説得を続けると、何やら妙に感動したような雰囲気を漂わせる侍女たちを代表するように侍女頭が胸の前で指を組んだ。


 その場で侍女頭が侍女たちの予定を纏める。

 流石に全員が休みということにはならず、スサーナが望んだメリッサミッシィが隣室で控え、さらに食事や雑用の支度をする。そして二人ほどが衣装部屋などで日常の手入れをするということになった。

 あまりあけすけに振る舞うということをしない侍女たちだが、休みという事になった者たちは流石にやや華やいで見える。




 キラキラした目の侍女たちを見送り、スサーナはさてと息を吐いた。


「ええと、何からしましょう? ……本を読む……なにか編む……ええと。」


 勢い余って部屋の中をウロウロする。


「今しかできないこと……やりたいこと……あ。」


 スサーナはぱっと立ち止まり、そうだ、と内心だけで叫ぶ。

 ――試しておきたいこと、あったんですよね!

 調子が悪い、というふうを装ったので朝の身支度がなく、よって今朝は濡れた布で体を拭いても居ない。


 体を拭いてもらえるだけいいのだが、なんとなくそれでは不十分な気がするし、スサーナとしては一日に一度ぐらいお湯に浸かりたいし、体を洗いたい。

 浴室が一般的ではない本土では公の邸宅であっても簡単には叶えられない欲求なわけだが、スサーナにはちょっとしたズルの手段がある。

 これまでずっとだいたい人目があったし、そうでない時は色々とやることもあった。カリカの授業の際に試すというのもちょっと憚られたので試してはいなかったのだが、糸の魔法で湯を呼び出せば入浴ができるかもしれない。薄々ずっとそう思っていたスサーナである。


 ――温泉を呼び出すとかですとリラックスした瞬間に消えてしまいそうで問題があると思うんですけど……。


 スサーナは魔法の糸の中から数本を選び出し、麻の布切れを一枚取って簡単に刺繍を始めた。


「出来た」


 スサーナは布を掴み、なんとなく部屋の中を見回すと、念の為にベッドに入り、天蓋の布を全て下ろす。音や気配がするものでもないので、そうして視線を遮ってしまえば急にミッシィが部屋に入ってきたとしても問題はないだろう。


 呼吸を整え、イメージを呼び起こす。


 呼ぶのは湯の塊だ。

 何度もこれまで水を生み出すことはやらされたし、一人でやっても失敗するとは思っていない。なにより、鮮明にイメージが出来る。

 ふっと魔法が働いた感触がして、手の上に浮かんだ水玉は魔術師が使う術がそうだったように触れると快く温かい。


「……よしっ」


 スサーナはそれをまず髪に触れさせた。



 この魔法には一つ、スサーナの予想外があった。


 多分、魔術師が使う術式は体表をどれだけ洗浄するのか、とか、どれだけ油脂分を奪うか、とか細かく計算された代物だったのだろう。

 そういう細かい計算抜きで「体を綺麗にする」という意味もなく力強いイメージと信頼感で発生させられた湯は厳密にいうと湯ではなかったらしい。


「……」

「なんでシャンプーの匂いがするんですかね。」


 毎日塗り重ねられる香油は完全に落ちた、と思う。

 頭皮も非常にさっぱりしており、久しぶりに心底爽快だ。

 耳の後ろの違和感も首のベタつき感もない。


 しかしスサーナは自分の髪を掴んで首を傾げていた。

 まるでシャンプーで洗ったような髪、それはしっかりお湯が汚れをとった、と考える事もできる。しかし洗い過ぎた獣毛素材のようにパサパサにはならず、どちらかというと感触的には前世でヘアサロンでフルコースヘアエステを受けたのに近いし、何故だか甘い香りがする。


「本当に……理屈じゃないんですねえ、糸の魔法……」


 スサーナは髪から手を離し、手の甲に鼻をつけてくんくんと嗅いだ。

 上から下まで丸洗いしたはずが髪の毛と首から下の洗剤の香りが違う。

 どちらも心当たりがある香りだ。そう、学院に置いてきてしまった塔で貰った洗浄剤の残り。


 肌のコンディションも最高にいい。しっかり洗った感触がする、というだけではない。美容液を塗り込んでしっかりマッサージを受けた後のような。うっかりドレスのピンで引っ掛けたかさぶたのあとまで消えている。


「……効果、強すぎないです?」


 人に見咎められて一体どうしたのか、と聞かれたらこれはどうしたらいいのだ。


 そこまで世間は自分に注目したりはしないだろうことが救いだが。スサーナは存在感が薄いとかいう鳥の民の特性に時ならぬ感謝を捧げる。

 うっかり「まあ、一体どのようなお手入れをしておられますの?」が発生したら本格的に説明に困ることだろう。まさか魔法でなんとかしたんです、とは言えない。


「あとは……」


 ――カリカ先生がこの匂いに心当たりがあって、すごく怒ったりしなければいいんですけど。

 世間で出回っている香油や香水のたぐいとはだいぶ違う感じの香りなのだ。より生花に近く、淡い。前世でならこのぐらいのものもあったかもしれないが、ここでの香水のたぐいはもっと濃厚で鮮烈だ。

 スサーナは貰った洗剤と、それから常用しているらしい特定個人以外に他でこの手の匂いの化粧品を嗅いだことがない。


 スサーナは、魔術師のことを思い出させられる度に威嚇する猛禽みたいに不機嫌になるカリカ先生の事を思い出し、ちょっと遠い目になった。

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