第241話 あんまり穏やかではない小さな出来事と、弱り目(ピタゴラ)は大体祟り目(スイッチ)すること。

 かつかつと廊下に響く足音。手燭のぼんやりした灯り、長い人影。

 スサーナは息を殺して気配が行き過ぎるのを待つ。


 ――もし見つかったら、お腹が減って厨房へ忍び込むところだとでも言いましょうか。


 使用人さんたちは何もスサーナを見咎めるために深夜の巡回をしているわけではない。もし見つかっても多少たしなめられ、部屋に戻される程度だろうと予想がつくので、さほど緊張せずに済む。

 ――しかし、私になにかあると困るかもしれないと不寝番だの巡回をしてくださっているのに、外から毎晩人は来るわ、私が抜け出すわだとは思っていないでしょうねえ。


 本末転倒とはこのことだ。申し訳ないが説明するわけにもいかないし。スサーナはそう思いながら巡回が遠ざかっていくのを見送り、足音を殺して裏庭側へ向かう。

 見つからない自信はそれなりにあった。

 人の気を引かぬよう静かに動くのは昔から得意だ。


 それに足して、カリカが授業中に、「世界に愛された」者、つまり氏族の使い手は存在感がとても強くなるか、他の気配に紛れやすくなる、どちらかの傾向があると言っていもした。

 それが自分に当てはまるものなのか、いまだにどこか半信半疑だが、どうやら自分は存在感とか気配とかそういうものがあまり濃くない、ということは幼い頃からなんとなく感じていたものだ。


 ――複雑な気もしますけど、今はとても便利ですね。


 さて、外へ出ても門から出るわけには行かない。この時間、ゲートハウス付きの正門の門扉はしっかりと閉まって閂を掛けられているし、通用門は不寝番の皆さんの宿直室の直ぐ側だ。

 屋敷を取り巻く外壁は、鳥の民の二人にとっては障害になる高さではないらしく、スサーナを引っ抱えてひょいと飛び越す高さであるのだが、流石にスサーナはそんな事はできない。


 そっと裏庭に出ると、スサーナは裏庭の奥の菜園になっているあたりを目指す。

 そこはもうずっと壁沿いに木が生えるにまかされていて、根っこで盛り上がった石壁がガタガタになっている部分がある。そして、猫か、でなければスサーナぐらいの小柄な女の子ならば出入りできる程度の穴が空いているのをスサーナは知っていた。

 たっぷり蔦が茂っているので外から見ても中から見てもわからない。スサーナがそれを知ったのは偶然。ロコがそこから出入りしているのを見たためだった。

 ――夜の出入りに使うこともあるかと思って人に教えなくてよかった。

 蔦をかき分けて穴をくぐる。

 結局、屋敷の外に出るまで、誰かに見咎められることはなかったようだった。




 早足で丘を下る。

 ここに来てすぐはほとんど闇夜だった空には今日は煌々とした月が昇り、一面の菜の花に色のない影を落とさせている。灯りがなくても足元に気をつけさえすれば十分歩けるのがありがたい。



 指定した場所は屋敷からは影になる、ちいさな丘の合間の窪地だ。

 屋敷から程よく離れて声も聞こえづらそうだったし、低木の茂みがあって目印にしやすい。カリカとの授業でよく使う森からも屋敷を挟んで逆方向で目線は通らないし、なんとなく良さそうな気がした。


 スサーナがそこにたどり着いてみると、多分指定した時間より少し早いぐらいだというのにそこにはもう人影がある。


 暗い赤のローブを着た長身。フードに阻まれて顔は見えないものの、手紙の相手以外ということはないだろう。他に誰か居る、という様子はない。


「第三塔さん」


 歩み寄るスサーナにちいさく会釈らしき揺れ。


「先日はどうも、大変なご迷惑をおかけして……」

「遅くなった。何か、変わりは。」


 一礼して前回の謝りをまず口にするスサーナにばっさりと言葉が返る。

 ――うむ、いつもどおり! いえいつもどおりじゃない理由なんてなにもないんですけど!


「いえ。特には。……お手紙に書きましたとおり、こちらに来たことが変わりと言えば変わりですが。」

「随分と端的な説明だったな。」


 呆れ声で言われながら護符を手に渡される。

 あれでは何も解らないので説明をするように、と言われ、スサーナは小さく首をすくめた。


「と言いましても、大した事情は無いんです。演奏会の際に……オルランド卿……ガラント公のご令息のご婚約者だった、という方に接触を受けまして。親しい人間に私が見えたのでしょうね。……それで、ヤロークの方が良くないことを企んでいると分かったんですが、前に誘拐されたでしょう。それで偶然、心当たりが多くて。」


 後はご存知のとおりだと思うのですけど、ことを企んでいた方が私が何かを知っているかもしれないと考えるかもしれない、ということで、ミランド公のご厚意でご血縁ということにして守ってくださることになったんです、そう纏められて魔術師がフードの奥でもの言いたげなため息を吐いたのをスサーナは見る。


「それであのようなことを?」

「あのような、と言いますと……」

「グラス。つまり何か仕込まれていると知って飲んだのか、君は。護符もなしに?」


 はっきりと責める口調になった相手にスサーナはえへへとごまかし笑いをする。


「それは、その。……あの時、誘拐された際に見た紋章を見かけまして。とはいえ確証はありませんでしたので、疑いを確定させようと思って、じゃあ何か入れるところを警備の方に目撃していただくのがいいだろうな、と。レオくん……王子殿下のグラスでしたでしょう。飲ませられなければやり直しをすると思って、でもグラスを払い落としたりすれば警戒させてしまうでしょう? 権能があるなら死にはしないと」


 うすく笑みさえ浮かべて言った娘の表情を魔術師は注視した。

 彼女の言葉を聞いていて、さきほどから違和感がある。何とは言えない僅かな違いだ。

 そう、例えば、頭に浮かんだイメージを言葉に直す際にどうにも既知の言葉として浮かばないものを無理に言語化する、というふうな口ごもる癖。

 言い訳じみたことを口にする際には追いすがる子猫の類に似て奇妙な必死さが見えはしなかっただろうか?


 後ろめたい、ということを述べる際に微笑む癖は? どちらでも見た仕草だったが、居たたまれなげに目をそらすほうが強いのがこの娘ではなかったか。


「そうか。……まあ、今はいいとしよう。体調を診る。こちらへ。」

「今はとても健康なんですよ。毎日運動させられていて……」

「食事が足りていないのでは? 貧血気味でもあるように見えるが。」


 首を、と告げて手を伸ばした彼にスサーナはふと疑問を感じる。

 ――あれ? 左手だ。それに、手袋。普段は外されるのに。

 言うまま首を反らす形に首筋を差し出しながら、普段と違うやり方に僅かな違和感を感じなくもない。そういえばさっき護符を渡されたのも左手だったろうか。

 ――そういえば、今日はフードも下ろされないんですね。……いえ、珍しいことではないんですけど、二人だけの時には大抵下ろされるのに。

 思えば、喋る感じも少しくぐもっている?

 思いつつ、一瞬こういうパターンって別人だったりしますよね、などと益体もないことを考えはしたものの、まさか自分の顔を見てまず体調についてのお説教が出る魔術師が二人いるとは思えない。そんな行動トレスするだけ無駄以外の何物でもないだろう。それに、その他の点におかしなところはない。


「――」


 そう考えながらスサーナは、首筋に手を当て、それから動きを止めた相手を仰いだ。


「第三塔さん?」


 彼はフードの陰で深く眉を顰める。

 彼女の内側で働いているはずの術式の気配を追う探査は狙いの気配を捉えられないままほどけて消えた。

 護符を長期間外していたのだ。全く予想をしていなかったかと言うと嘘にはなる。


「あれから、体調に異常は?」

「いえ。健康なんですよ? 本当に……。ああ、あの飲まされた後でしょうか。特におかしな事はありませんでした。」

「そうか。気分が沈むということは? 悪い夢を見ると言っていたね。それは――」

「いいえ。……なんでしょうね。こちらに来てからは、夢も、一度も。」


 答える娘は快活げに見える。杞憂だったのだろうか。無事に薄れて消えたのか? あれが残っているのなら、心身を損なうことが無いものだとは思えない。ならば、取り越し苦労だったのか。――本当に?



 すっと黙り込んだ相手がふと手を上げる。両手で頬を抑えられる形で顔を覗き込まれ――フードのせいでわからないが、多分――て、スサーナはたじろいだ。


「君は――」

「は、はいぃっ!?」


 予想外のことに混乱する。普段なら不摂生に対するお説教がやって来るところだ。フードの闇に隔てられているが、鼻先がふれあいそうな距離。

 ふと何故かあの日見た光景が浮かぶ。一幅の絵画のような美しい口づけの絵。

 反射的に振り払おうとしてしまった理由はスサーナ自身よくわからなかったが、多分仕方のないことだったろう。


「――っ!」


 右手を強く掴んだ瞬間に漏れた苦鳴ではっと正気に返る。


「え……すみません!強く掴みすぎました!?」


 指をおかしな風に掴んでしまったのか。それとも爪でも刺さった?

 ぱっと手を覗き込んだスサーナは表情を固くする。

 ――これ、なに?

 手袋と袖の隙間、わずかに覗く皮膚が爛れている。

 恐る恐る見上げた瞬間と、振り払った際に、指先が跳ね上げて後ろにずれたフードを相手がばっと引き下げた瞬間が同じだった。


「第三塔さん……?」

「見苦しいものを見せた」

「待って。どうしたんです、それ……」


 第三塔が後ろにゆっくりした動きで一歩下がる。スサーナはそれを追ってむずがるようにフードの端を掴んだ。


 引き下ろした先から顔があらわになる。少し困ったような表情をした見慣れた顔。

 その右半分。美しい宝石のようだった右の目が白く濁っている。額の半ばから顎にかけてが何か劇物でも浴びたかのような爛れた傷になっている。


「……大したことじゃない。」

「大したことじゃないって……だって、顔、目が……腕、手も?」


 右半身全部こんな風になっている? そう考えてスサーナは頬を引きつらせる。どれだけこの傷は広くて深いのか。どれほど痛むのだろう。


「そこまで支障があるわけではない。目は……損傷するのには慣れていてね。この程度なら魔術師なら十分癒える範疇だと分かっている。全て問題なく治る傷だ。」


 言い聞かせるような声で言われる。


「こんな所に来ている場合じゃないじゃないですか……! どうしてこんな……」


 声を震わせたスサーナに第三塔はもう一つ困ったような目をして、フードを被り直した。


「これでもだいぶ回復した後でね。治癒をせずいる、というわけではないから安心しなさい。動いて支障なくなるまで休養している。それで遅れたんだ。」


 すぐ接触するつもりではあったのだが、治療に集中せざるを得なかった。彼はそう呟く。


「それ、大丈夫の文脈で言ってるおつもりなのかもしれませんけど、動けない大怪我だった、ってことじゃないですか!」


 涙目で唸ったスサーナを宥めるように頭にぼふっと手を置かれ、ぐしゃっと撫でられる。

 その左手の動きも少しぎこちないような気がして、スサーナはさっきのもやもやも忘れて歯噛みをした。

 魔術師というものは、大きな怪我などしないものだと思っていた。してもすぐに治してしまうものかと。


「どうしてこんな怪我……」

「恥ずかしながら、安全確認を怠ってね。自分の所為なんだ。」


 第三塔はバツが悪い、という感じの気楽げな声をあえて上げてみせたようだった。

 普段、声に感情がそこまで乗らない相手なので、スサーナにはその事がよく分かる。


「あの演奏会の魔獣。あれの解析をする為に手近の施設に運ぶ必要があったのだが、凍結処理が甘かったらしい。途中で息を吹き返してね……。空の上ではとっさに対応しづらく、と言うのも言い訳だな。魔術師私達にしてみればなかなかのお笑い草、よほどできの悪い半人前の起こす事故だ。」


 仲間内ではしばらくからかわれることだろうね、と肩をすくめた魔術師は目の前の娘が顔面を蒼白にしたのに言葉を止める。


「あの魔獣……? 私が、飲んだ?」


 ――いまこの人はなんと言った?

 スサーナは息を呑み込む。魔獣の話。瀕死から蘇る魔獣の話を知っている。

 最近聞かされた話だ。糸を取るために鳥の民は魔獣に血を与えて養うことがある、とカリカが言った。ただし、与えすぎてはいけない、と。血肉を与えて養った魔獣の神経はよく馴染むけれど、とても殺しづらくなるから。首を落とし、核を割ってなお動き、喉首を狙ってくる。それで死んだ氏族の偉大な勇士が――


「ああ……。あの時早めに気づけて何よりだった。看過していれば君の内臓の治療が出来なくなるところだった。まさかああ厄介な魔獣だとは。」


 そんな、と呟く声が弱い。第三塔は訝しく思いつつも宥めようと口を開こうとした。


「そんな……。ああ、じゃあ、私のせいだ……。」

「なにを……」


 ごめんなさい、娘が呟く。


「ごめんなさい、……ごめんなさい。こんなことになるだなんて思わなかった」


 かつて感応のうちで聞いたのによく似た言葉の並びに彼は眉を寄せ、少女を見下ろした。


「君のせいではないだろう。君が飲まずとも別の……例えば第五王子が飲んだものだ。……多少早い遅いは出ただろうが、……君でなければ我々も気づかなかった可能性が高い。誰か……王族の内臓が食い散らされて腹を破られ、魔獣が外に出てくるまで。」


 君の取った手段は乱暴だったが理にかなっていたと言わざるを得ないし、誰が飲んだ所で魔獣は出てきていただろう、と言われて、スサーナはいやいやと首を振る。


「違うんです。違うの。ごめんなさい。鳥の民の血を吸った魔獣は強くなるって……私……、ああ、もっとよく考えていたらよかったのに。もっと、私……」


 繰り返す言葉は謝罪というより譫言に近い。

 亡者の悔恨に似た後悔の言葉はかつて聞いたものにあまりに似ている。

 急速に抜け落ちていく表情に焦って第三塔は瘧のように震える娘の肩を掴んだ。


「落ち着きなさい。そうだとしても君のせいじゃない。あれしかなかったのだろう?」

「だって……痛いでしょう? こんな怪我を――させるぐらいだったら、私……あの時もっと我慢できたはずなんです。我慢していたら良かった。今ならわかるんです。そしたらこんな目に遭わせず済んだのに。私だけで済んでいたはずだったんです」


 そうだ、今ならわかる。魔法と権能の知識を多少でも得た今なら。耐えていればあの魔獣を外に出すことはなかったのだ。中に閉じ込めたまま、運が悪くても道連れにすることぐらい出来たはずだった。それでも異常は察してもらえただろう。厨房の方へ行った護衛達は魔獣と交戦したのだと聞いた。魔獣を吐き出さずとも、血を吐いて事切れた、というだけで原因は理解されたろう。

 そうすべきだった、きっと。それが最良だった。それで状況が今より悪くなる事柄はきっとほとんどない。ああしたのだから、あれしか無いと思ったのだから、そうなることは当然だったのに。自分の責任は自分で取れたはずだった。

 あの時、助けてもらえる、と思ったから。甘えたことを考えなければああはならなかった。

 このひとだけには。 こんな目に遭わせていい人じゃないのに。

 わたしが、もっと。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


 目を見開いたままぼろぼろと涙をこぼす少女が手を伸ばし、闇のうちに沈ませた、肉をむき出した頬に触れるのを彼は感じる。間近で見上げる眼は夜の底を掬い取ったようで、こちらを見ているはずなのに全く別の何かを見ているようだった。祭壇を見上げる虚ろな娘の目。

 痛みよりも焦燥が勝る。引き戻さなくては。何も映していないかのようなその目が不快で思考が乱れた。


「聞きなさい、聞け! ……魔術師を舐めてもらっては困る。君に憐れまれるほど私は弱くはない!」


 魔術師は娘の耳元に声を荒げる。はっと目を上げた彼女の目に理性が宿っているのを見た後、自分が言葉選びを大きく間違ったと察して口ごもったがもはや遅い。


「あ……ごめん、なさ……」


 怯えが混ざったような、突き放されたこどものかおをして後ずさった相手に言葉を探す。


「その、だから。君が気に病む筋合いはない事柄だ。私の為に君が悲しむ必要はない。だから――」




 そこで言葉が切れ、はっと首を上げた第三塔の手から光の字列が生まれると、次の瞬間鋭い金属音が夜の中に弾けた。

 障壁に食い込むようにして、大ぶりの曲刀が幾振りも止まっている。


「気配を察して来てみれば……。こんな所で月の民がなにをしているのです? ワタシの弟子から離れなさい、魔術師手妻遣い。」


 スサーナが振り向くと、硬い表情のカリカが丘を回って歩み寄ってくるところだった。

 曲刀がぎっと鈍い音を立て、自ら障壁から刀身をもぎ離す。

 自在に浮いたその先端は、すべて真っ直ぐに魔術師に向いている。


 ち、と舌打ちをした第三塔が地を蹴り、大きく飛び離れた。


「……弟子、か……。」

「あ……」

「スサーナ。ゆっくりこちらへ。月の民。少しでもおかしな動きをしてご覧なさい。お前が術を使うより早くこの刀がお前を貫きます。」


 スサーナは一瞬迷った目を双方に向ける。


「スサーナ。聞こえませんでしたか。……ワタシはカーラ・リカ。若造のようですが、名ぐらいは聞いたことがあるのでは?」

「なるほど、片手では相手取るのに不足な使い手とみえる。高名な魔術師殺しと相見えられるとは。」


 あまりに剣呑な会話に、スサーナの自責に溺れかけていた思考が一時遮断されたのは僥倖だったと言えるだろうか。

 ――っ、いえ、呆けてる場合じゃ、ない、ですね? なんですこの『一生普通は聞かないでしょうファンタジーど真ん中の敵対的応酬』。仲が悪い、とレミヒオくんからも聞きましたけど、それどころじゃない単語……

 ぐらぐらと揺れる意識で、それでもなんとか考えを巡らせる。

 ここから動かない場合、カリカ先生がじれて開戦してしまいそうだ。それは、よくない。だってただでさえあんな怪我をしていた人なのだから、これ以上危険な目に遭わせては。

 スサーナはおとなしくカリカの側まで後ずさった。


「お褒めに与かり恐悦至極。さて、このような所で何を? 群れから逸れでた若雛を見つけたとでも思ったのかしら。残念ですけど、その娘は我が弟子。安々と実験材料やらに出来ると思ったら間違いですよ。」

「誤解だよ、魔術師殺し殿。このヴァリウサは我々と親しい国家だ。……私は大貴族の娘に護符を渡しに来たんだ。鳥だなどと思うはずもないだろう?」


 第三塔がいっそ穏やかな声を上げる。声音にはそれでも敵意と嘲笑めいた、穏やかではない気配が混ざっている気がスサーナにはした。


「安心するがいい、時代は変わってね。我々ももはやさほどそちらに興味など持ってはおらぬ。痩せた小鳥一羽バラしたところで基礎研究の足しにもならない。……上客の血縁だと思うからこそ接触したんだ。あなたの弟子になどなんの興味もないよ。そうと知っていれば関わったものか。」


 彼の言葉にカリカが鼻を鳴らす。


「あら、俗物でしたのね。まあいい。ならば行け! 二度とここに現れるな!」

「言われずとも。」


 魔術師の袖の中から獣の形の小さな駒が落ちる。

 一瞬後、それは騎獣の像になり、魔術師をその背の上に跳ね上げ、そのまま空に駆け上がっていく。


 カリカがふうっと息を吐いた。


「やれやれ、行ってくれましたか。スサーナ、いけませんよ。月の民はワタシ達にはよくない。生きたままバラバラにされてもおかしくなかったのよ?」

「……そんなこと、あるはずが……」

「アナタの潜り込む先の立場からすればそうだったかもしれませんね。……確かに先走った行為だったわ。ただ、そうして死んだものも沢山いたのです、覚えておいて。鳥だと知れればどんな目に遭わされるかしれません。あれらに心は許さぬよう。」

「そんなに……仲が悪い関係だったのですか?」


 スサーナの問いかけにカリカは迷いなく頷いた。


「ほんの200年。アナタ方若者たちは知らないかもしれませんが、そのぐらい前まではまだ穏やかならざる関係でしたよ。火が余燼へと変わったと言っても気を抜くべきではない。……かつてより使い手……正しく世界に愛された者があれらの手に渡ったことはないの。随分と興味を持っていたようでしたけれど、ね。」


 魔法の仕組みに月の民たちは興味を持っていた、とカリカは言う。糸を埋めた男たちが囚われれば生きては帰ってこないものだった、と。

 彼らがそうしなくなったのは、当時小競り合い程度になっていた関係が互いに近寄らぬものへと変わった、というのもあるが、単純にそうすることで知れる知識をすべて集めたと判断したからだろう、とも。


「だから、アナタは気を抜くべきではないの。王都に向かった後も覚えておおきなさい。……勿論、使い手かどうかは月の民には容易く判別がつくはずはないのですけど。」



 カリカに送られて部屋に戻る。

 スサーナはベッドに倒れ込むと、枕の上で長くなり、首を上げてにゃあと鳴いたロコの腹に顔をうずめた。


 関わるべきではない。きっとたくさんの意味で。あんな大怪我をさせた。迷惑をかけた。それも、良い感情があるはずがない血族のことで。

 そうだ、それにもう自分はおうちの子ですら無い。後は残った繋がりらしいものは品種改良の注文程度で、島の人間でないのなら、多分、次はない。

 当然の結論なのに何故喉が詰まったような気分になるのだろう。よくわからない。

 あの物言いの一体どれほどが本心だったのだろう?


 腹が湿るのが不快らしいロコににゃーあぁと抗議の声を上げられる。ぺしんと額に当たった肉球にぐいーと押されて、ベッドの板面に鼻を押し付ける形になる。

 ――寝てないからこんな気持ちが不安定なのかもしれませんよね。また、叱られちゃう……。

 またはもう無い気もするけれど。

 スサーナは枕からだいぶずり下がった姿勢で眠ってしまうことにした。



 ◆  ◆  ◆



 塔の内部に戻った第三塔は一つ息を吐く。


 思考制御の術式を追って作用するはずの護符の術式の一つは、元の術式が消えた今、なんの意味もなさないものになっている。本当なら取り払ってしまうのがいい。

 魔力の消費を考えても、もう一度出向いて護符を調整するべきだ。

 ――弟子か。

 しかし、術式が解け、さらに同族の指導者メンターがついた今、更に自分が関わる理由はあるのか。表情も振る舞いも不穏で心を騒がせたが、危惧したように正気を失うようなことは無いように見えた。傷が残っていたとしても、彼らのやり方で癒やされるものかもしれぬ。


 どう理由をつけたところで自らはあの娘にとっては他者だ。

 鳥の民という母集団に受け入れられたのなら、それはもう下手に干渉すれば形を歪めることになりかねない。いたずらに立ち入るべきではないことかもしれなかった。


魔術師との関わりは、軸足を鳥の民に置くつもりなら良くない事態を招くかもしれないとも思う。特に導師が古い時代を知るものなら、立場を悪くする可能性がある。今回は咄嗟に知らぬふりをしたが、信用されるだろうか?

としても、その立場のものだと知って余計な注意を引くと芳しくない興味を抱くものも居るかもしれない。

――だが、捨て置けば簡単に体を壊す――いや、それこそ指導者が居るのならば介入する意味のないことでは?

関わらなくてはならない理由をいくつか思考に上げ、しかしそれは全てあの娘が本来の集団に属しているなら必要ないものだ、と一つずつ論理的に結論付けられた。



 着替えることにして疼痛を抑えるための外出用の術式を解く。

 異常察知のため強い刺激こそ押さえないものの、皮下組織まで及んだ損傷をそのままに動くためには必須のものだ。

 ただの傷ならいざ知らず、毒と呪いが混ざりあったこの壊死症は簡単な術式で修復が出来るものではない。安定継続して行動が可能なこの状態に戻すにも一月必要だった。


 眉をひそめる。

 痛みの感覚が無い。

 まさか神経障害が、と考えかけ、次の瞬間、第三塔ははっと自らの手袋をむしり取った。

 爛れどころか傷一つ無い皮膚が現れる。術式で制御していた視覚を開放する。片方に見えるのは本来なら薄暗く濁った闇のはずだった。見える。

 急ぎ描いた術式で呼び出した姿、自らの外観を確認するための投影像を見れば、そこには通常と変わりない2つの目が自分を見返している。


 訳のわからない苛立たしさに駆られて彼は強く手を握りしめた。

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