第239話 穏やかかもしれない田舎生活と日常になっていくこと、それからあんまり穏やかではない小さな出来事 1

 それからまた数日が過ぎ、田舎生活も後半戦に入る。


 スサーナの腹筋と背筋は相変わらず動く度に痛み、足やら腕やらがパンパンでお風呂に浸かりたいと呻いてはなぜ湯船文化がないのかと恨めしく無い物ねだりをする生活であるが、とりあえず数日やったところでどうやら何らかの鍛錬を積んだ鳥の民たちとスサーナの基礎体力は違うとカリカは気づいたようで、運動強度はわずかに――そう、昼ダンスをして夜トレーニングをしてもぎりぎり動ける丁度そのライン上に――落としてはもらえたようだった。


「ごめんなさいね。アナタ、きっと体質なのね。人の中に巡っているときの魔力はどうしても見づらいものなのだけど、スサーナ、アナタは特に見づらいよう。魔力の巡り方で丁度いい具合を測れるのだけれど、アナタへは魔力をほとんど持たぬ子たちと同じように筋肉の具合を見ながら稽古をつけるべきだと分かりました。……ああ、アナタに魔力がないというわけではありませんから安心して。」


 これからはアナタに最適な負荷にしましたからもう大丈夫ですよ、と微笑まれ、期待したスサーナはなんだかほとんど変わっていないような気がするのに呻いたが、確かになんとか昼の疲労を合わせてもギリギリ動ける、というバランスに保たれている。


 魔法自体については実際に行使するより事前の鍛錬、つまり瞑想と呼吸の精度を上げることが重要だと言われており、あれから使ったのは一度きりだ。

 刺繍したのは前回と同じしずくで、水の量も両手いっぱいだったが――泉だと思われているなら泉を刺そうかとも思ったものの、よく考えたら塔の上なので水濡れはまずいのではないか、と気づいた――水が現れるまでの時間は半分ぐらいに短くなっていたのでカリカがなにやら非常に満足気にしていた。


 ここから先は暗示の声掛けの量を減らし、時間の短縮と同時に自分ひとりで魔法を発動できるようにするのだ、という。

 これは人によってはだいぶ難しく、特別な薬に頼る者もいるけれど、ワタシはそのやり方は絶対に教えませんから頑張って学んでくださいね、とカリカが断言したのでスサーナは、ああ、そういえば図書室の本にあった。では本当になにか麻薬めいたものを使う技術があるのだな、とほんのり悟った。そしてカリカ先生はやはり特に肉体派なのでは? とも。


 それがある程度出来るようになったなら、生きたものを現すすべを学び、更にそれと同調する技術を学ぶのだ、とカリカは言った。


「ええ、でもこれは一年やそこらでは出来ないでしょうから。ゆっくり覚えていきましょうね。」

「生きたもの……ですか。」

「ええ、まずは花や木から。出来るようになったら小さな獣。ワタシ達はそうして作った鳥を斥候にしたりもするのですよ。アナタなら小型の馬ぐらいまでは現せるようになるかしら。」


 その先には普通でない生き物を現しうるようになり、その先には概念がある。そこぐらいになると氏長の魔法の範疇で、その先に環境をまるごと顕す姫宮達の大魔法がある。そのあたりは知識として覚えておくように、ともカリカは言った。


「次の試験に出しますよ……と普段なら言うところですが。……ああ、もう少ししたら初歩の知識の試験もしましょうね?」

「ふえ」

「返事は、はい、ですよ。」

「はいぃ……」




 昼。ダンスのレッスンについては侍女たちは相変わらず情熱を燃やしていたが、ともかくネルが相手に入ったことでだいぶ楽は出来るようになっている。


 礼儀作法の座学には貴族名鑑の内容を覚えるというものが入り、とうとうどの相手に対して個別にどう振る舞えばいいのか、と言うところに入り始めた。

 運が非常にいいことには、スサーナが隠し子になったミランド公は国内でも上位の貴族であるので、スサーナが使い分けなければいけない礼儀の種類はそこまで多くはない。これが中位で同等ぐらいの親類縁者がたっぷりいて、議会の席と役職も中ぐらい、というような貴族だったらさぞ複雑怪奇なことになるはずだ。


 ――マリアネラお嬢様の先見の明に心から感謝するべきですね……。

 スサーナは、まだレティシアとマリアネラと一緒に勉学に励んでいた頃、マリアネラに貴族名鑑の暗記を勧められたことがある。

 そのあたりは全然苦手だというレティシアと一緒にひたすら貴族名鑑を音読したのがこんな所で役立つとは。まったくイメージは出来ないながらも、偉い公とかいう地位の人達の性別と名前と年齢、どんな職務でどんな経歴か、領地と名産ぐらいはなんとなく頭に入っている。おかげでこちらも少しは楽だった。



 そんな感じで、ハードではあるものの生活は一応日常になっていく。それなりに慣れてきたスサーナは自由時間にロコと散歩に出たり、魔法とは関係のない針仕事をちょっとしたりなど、特訓中心ではない生活をちょっとずつ取り戻しもしだした。



 またそれから数日した夜。

 前腕とつま先だけで真っすぐ伸ばした体を支える、という鍛錬をやらされているスサーナの背に飛び乗ってぎゃあという情けない悲鳴を上げさせたロコを抱き上げたカリカが、ふと呟いた。


「このお屋敷の周りの花はみなモスターサマスタードなのね。」


 スサーナがぺしゃんと潰れつつそちらを見ると、なるほど、昼間花瓶にさした菜の花にカリカ先生が抱えたお陰でいい距離になったロコがじゃれ出したようだ。


「っはい、そうですね。」


 返答したスサーナに、はい、あと五回、と言いつつカリカが少し思案したような顔をする。



「あれはここの畑になるのかしら。育てているのですか?」


 一通り指定された運動を終わらせて床と仲良くなっているスサーナにタオルを渡しながらカリカは問いかけた。

 スサーナはあれ、と一瞬考えてからああ菜の花のことか、と気づく。


「屋敷の周りは皆ここの持ち物の畑で良いそうですけど、ここの所ずっと人が来ていない場所だったので、畑として使っているわけじゃなくて、あの菜の花は特に世話をしているものではないそうです。門番さんと管理人さんが毎年種をとってマスタードにはしているそうですけど、こぼれ種で勝手に増えるんだとか。」

「そうですか。じゃあ、少し貰っても構わない?」


 なんだか少し目をキラキラさせて問いかけてきたカリカにスサーナはうなずく。ちょっとやそっと減った所で誰も気にすまい。皆あれを屋敷の周りの花、とは認識していても取るものだとは――種以外は――思っていないようだ。


「目潰しでも作るのか?」


 控えていたネルが問いかけた。

 そういえば山わさびクレーンでは目潰しを作るとかレミヒオくんが言っていたっけ、とスサーナは思い出す。


「まさか」


 カリカが笑って首を振った。


「草を食べるのよ。ワタシの群れではあれをよく食べたものです。塩漬けにすると美味しいものなんですよ。あれだけたくさん生えているなら採りやすいでしょう」


 ほう、とスサーナはにゅっと首を上げる。

 そういえばカラシナは高菜の近縁である。

 ――つまり、高菜漬けのようなもの?


 この北部ではカラシナは青菜と言うよりも自生ハーブみたいな扱いらしい。

 タネからマスタードを作り、若い芽を(他のハーブと同じように)料理のアクセントにしたりするという。南部よりかはサラダめいたものを食べるためにそういうものにも入れたりはするが、なんというか放っておくとあまり茂るのと、辛味が強くてメインで食べるというのではないのと、さらにマスタードこそが主な産物みたいな目で見られているため、薬草園や小規模な農園で作る手間を掛けた野菜よりも一段下みたいな扱いだ。

 貴族も食べなくはないのだが、そういう場合はだだっ広い所に咲いたものよりも小さな畑でわざわざ作り、若い芽、それから葉っぱを除いた太い茎をさっと茹でて柔らかいうちに食べるらしく、周囲ぐるりが菜の花であるところのこのお屋敷ではわざわざ栽培する気は無いようで、少なくともスサーナの食卓には全然出てこない。

 使用人さん達は食べている気がするのだが。


 島ではカラシナはオイル煮のアクセントでよく食べたもので、少し寂しくはある。

 しかし、今はカリカの言った塩漬けだ。


 ――そういえば、お漬物についてはもうずっと考えたこともなかったなあ。

 味噌や醤油がなくとも、ついでに言えばまあ米ぬかもなくても、塩漬けなら漬物らしいものは食べられるはずだ。……誰も肥料をやらずに自然に任せた状態のカラシナなら、下肥の心配だって無い。


「カリカ先生、それはどういう食べ物で、どうやって作るんですか?」

「あら、興味がありますか? 若くて柔らかいうちは手で折れるので、そういう部分を集めて……葉は除かずにね。洗って……お湯をかけて絞って、それから塩で漬けるのよ。重石をして、次の日から食べられるわ。」


 作り方はスサーナの記憶にある浅漬とそう変わらない。


「塩漬けは爽やかでピリッとした香りがして良いものよ。……時間が経ってしまうと酸味が出るのですけど」


 ――あっ、ちゃんと乳酸発酵してる!! こっちでも耐塩性乳酸発酵菌いる!!

 おうちでは酢漬けは作っても漬物は漬けなかったので、いまいち確信がなかったのだ。


「それもまた美味しいもので、肉の脂身と炒めて種無しパンで包んだり、中に入れて焼いたり……」


 ――ああーーーっ、お米のご飯なくてもそれなら美味しいやつじゃないですか!! おやきだ!!!!!

 スサーナはがばっと身を起こした。


「カリカ先生、お帰りになる前に摘みましょう。お付き合い致します!」

「まあ、いきなり元気になりましたね」


 ネルに頼んで台所からジャム用の壺と塩をいくらか取ってきてもらう。今いるミランド領は領内に岩塩が豊富に取れる塩田があるとかで、内陸ながら台所の塩は使い放題で管理が甘い。


 マントを被ってカリカと二人で菜の花畑を彷徨い、若くて柔らかそうな――花が咲いていないので多分誰も気にしない――若いみずみずしい茎を探して摘み取る。


「アナタがモスターサカラシナの塩漬けに興味を持つとは思わなかったわ。」


 カリカが何となく嬉しげに言う。


「そうやって食べる旅隊群れを他には知らないの。きっとワタシが生まれるより前、群れが馴染んだ何処かの土地でそう食べていたのでしょう。もうワタシの群れは散り散りに他と混ざってしまったけど、食べる度に思い出すのですよ。食べてみてもし気に入ったなら、アナタの系統の群れはワタシの群れの血が入った所だったのかもしれませんね。」


 ――ごめんなさい、カリカ先生! 興味の原因は血筋とか関係なさそうなんですけどね……!!

 少し申し訳なくなったものの、柔らかい茎を探してはしゃいだり、作り方のコツを話したりするカリカはなんだか純粋に指導者メンターとして接してきていたのだろうこれまでより表情が柔らかくて、ちょっと親しくなれた気がして嬉しい。


 たっぷりカラシナを摘み取ったカリカは、ふっと茶目っ気を出した顔で微笑む。


「そうだ。スサーナ。アナタには一度ワタシの魔法を見せねばならない、と思っていたのです。簡単な水を現す魔法でも色々な使い方ができるのよ。」


 言うと彼女はスカーフをすいっと抜き取って示してみせた。


 それには水色と白で川が縫いとられている。常民でも見過ごせるようなステッチパターンに近い、縁の刺繍のように見せかけてはいるが、よく見ると白で複雑な水紋が示されていたり、それよりかは写実に近いようだった。


 カリカが一瞬刺繍の川に目を据え、すうっと息を吸う。次の瞬間、まるでポンプ式の井戸に似て、中空に流れる水がどっと大量に現れ、カリカの周りにくるくると渦を巻いた。


「すごい、早い……」


 スサーナが感心すると、こんな事で感心されては困ります、と彼女はたしなめるような口調で言う。


「これは水ですが、ワタシが操っている限り、精密に動かすことも出来ます。見ているように。」


 言うと、水が摘み取って山になったカラシナをすくい取っていく。

 見る間にカラシナから埃や小さなゴミ、黄色くなった葉っぱが取り除かれ、八百屋の店先にあるもののように大きさで揃えられて幾把かの束に揃えられる。


「はい、洗い終わりました。これであとはお湯を掛けて漬けるだけ。お湯にも出来ますけど、すぐ漬けるわけではありませんから今はやめておきましょう。……水としっかり同調していればワタシ達でもこういうことも可能よ。アナタもこのぐらいは早く出来るようになってくださいね。」


 便利ですよ、と言ったカリカにスサーナは素直に目を輝かせた。正直、日常生活に使うという発想はなかったのだ。

 余りみだりに使うものでもありませんけどね、と釘を差し、どさっと腕の中にカラシナを抱えてからカリカは水を消す。


 それからカリカはジャム壺一杯分で漬けられるだけをスサーナに渡し、手を振って何処へともなく帰っていった。


 スサーナはネルに頼んで台所で熱湯を貰うと、言われたとおりにカラシナを塩漬けにし、糸紡ぎ部屋の隅を綺麗にして板を敷き、そこに重石をしたジャム壺を置いた。

 なんとか侍女たちの目を盗んで台所に入れないだろうか、と思案する。おやきが作れずとも、最悪刻んで炒める程度の作業ができれば、平焼きパンに包んで食べるのでも美味しいはずだ。


 この日を境に。

 なんとなくカリカの態度が打ち解けたものになった気がするのは、多分スサーナの気の所為ではないようだった。

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