第238話 まさかの辺境スローライフ 7
「杞憂じゃねえかよあのバカ」
カリカを送り出してから寝室まで戻る途上で、ふとネルが呟いた。
「はい、何か仰いました?」
スサーナがネルを見上げると、彼はなんと言っていいか、という表情ですこし眉を寄せる。
「あいつ……指導役殿はお嬢さんに魔法を使わせたらもっと埒外の事が起こるんじゃないかと予想してたみたいでな。わざわざ実力者と名高いとかいうあの女傑を呼び寄せたようだが、気を張ることもなかったなと思ってよ。それじゃアンタには逆に厳しすぎてよくねえんじゃねえかと……」
「女傑」
「女傑。」
それはどういう意味なのだろう、と一瞬思考をブレさせたスサーナだが、なんとか思考を立て直す。
「まあ、そんなものなんじゃないですかねえ。治癒? とかは適性があったみたいですけど、私、魔法らしいことが出来たのはあの港での一回だけですし……? ご期待してもらってわざわざすごい方を呼んでくださったのは申し訳ないですけど……。」
「今更人選を変えようもねえのがな。……俺の時は酷かった。糸に魔力を流すってのが解らなくて一月ばかりやってた時に呼ばれてきてな。」
「あ、カリカ先生、もしかしてネルさんにも先生なんですか?」
「思い出したくもねえ……。ああやって頭だのに触ってよ、ニンマリ笑って言いやがるんだ。『まずは体が覚えるのが一番です。ちょっと
焼け火箸を爪に突きこまれるのだってあそこまで辛くねえぞ、とネルは何かを思い出した顔で震えてみせた。
額や肩に触れられたときにはほんのり暖かさが残留する感じで痛みも不快感もなかったんだけどなあ、とスサーナはすこし疑問に思うが、まあ別の施術なのだろうな、と順当に考える。
「いくら取れる時間が少ないからって初っ端で無理に使わせるとは思わなかった。あの婆ァ思いやりってものがねえのか。知ってたけどな。」
「ババアって……お年はわかりませんけど、まだお若い方じゃありませんか、駄目ですよそういう悪口。」
「お嬢さん、見た目に誤魔化されるなよ。あの婆ァ、百を超えてる。」
「わあ」
若作りの師範! 若作りの師範だ!! と内心ちょっと興奮したのはそっと内心にしまいつつ、スサーナはまあまあと首を振ってみせた。
「別に辛くはなかったですよ。あの額とかに触ったの、ネルさんのとは別の何かなんだと思います」
「そうか、ならまだいいが……。辛けりゃ遠慮なく言ってくれ。」
それでもなにか信じきれなかったのかなんなのか、寝室に着いた所でネルがわざわざ部屋のドアを開けて支えてくれたのでスサーナは少し面白かった。
次の日も、侍女たちの目を盗んでこまめにおやつを持ってきてくれたり、過剰なぐらいに気を使われたので、これはネルさんにはよほど焼き付いた嫌な記憶なのだな、と少し同情する。
そして夜。さあ、これからは発動までの時間を早くしましょうね、と微笑んだカリカに流石に急ぎ過ぎなんじゃねえかと言ったネルがはっと鼻で笑われていた。
「何を惰弱なことを言っているのかしらこのひよっ子ちゃんは。妹さんはアナタと違って良い生徒ですよ。起こせた作用こそ小さいけれど、あれだけの教えで魔法を使える子は珍しいのよ。磨いてあげなくては勿体ないというもの!」
「だからと言って一度目で
弱々しく反論したネルが腰に手を当てたカリカに即座に威圧される。
「やっていませんよ。アレはちょっとガイドをつけただけ、初日にはどのぐらい近いところまで行けるか試すものです。さあ馬鹿なことを言っていないで頂戴。普通、よほど飲み込みのいい姫君でも端緒に辿り着くまで五日は掛かるの。それを妹さんは一日で使った。確かに命の危険で魔法を使ったことがある子だ、と聞きましたけど、力の安定しない血の薄い氏族では一度の偶然で終わることが多いんです。ですけど妹さんはちゃんと既にちからに馴染んでいるわ。つまり逸れ者だろうがなんだろうが才能があるということ。……いいですか、磨ける爪を磨かないのは罪! 罪ですよ!!」
立て板に水を流すような口調でネルがやり込められるのを見ながらスサーナは
――あっ、こっちもスパルタの気配がする。
なんとなく察した。スサーナのその手のカンは当たりやすい。
いや、女傑と言われた時点でそうだと確定していた、という気もするのだが。
とはいうものの、いきなりバンバン魔法を使わせられる、ということはないようだった。
今後は昼のうちに前回通り水の刺繍を作っておくよう、と言われ――適宜足りなくなったら糸を補充するので糸も少しずつ紡いでおくように、とも――この日は氏族の伝承やら祭儀やらの話を聞かされ、体の内側に意識を向ける方法だとか、その際の呼吸のやり方だとかを講義され、少し実践した後に何故かひたすら腹筋と背筋を鍛えさせられる。
「舞踊にも呼吸にもいちばん大事なのは腹筋と背筋ですよ? やり方が身についたら自分でも行っておくのよ。ああ、明日からはもっと楽な服に着替えておくように。明日は瞑想を教えます。……本当は一日目に辿り着くことはなかなかありませんから、こうして段階を積むの。明後日はまた実践をしますから、その時にもっと早く発動できるように意識していきましょうね。」
――あれ……
床にぺたんと広がりながらスサーナは思う。
――もしかして魔法の行使とかって、そのう、ものすごく……肉体を意識するやつ?
なるほど、レミヒオやネルがなんらかの拳法めいた動きをするのはそういうことの延長か。民俗的に整合性が取れるなあ! スサーナは内心でそっと叫ぶ。
どうやら一般的に鳥の民の魔法に習熟するというのは、刺繍があればいい、というわけではなく。座禅とか、ヨーガとか、ともかくジャンルとしては修行とかいう単語で呼ばれる、そういう方向性のものらしい、と遅まきながらうすうす気づきだしていた。
ではまた明日、とカリカが去っていくのを床に広がったまま見送って、スサーナは呻いた。
「起き上がれない……」
酷使した腹筋と背筋はスサーナの意志を無視することに決めたらしい。起き上がろう、と意識しても全然体が上がらないのだ。
体験者特有の同情の眼差しを浮かべたネルが横にしゃがみこんだ。
「お嬢さん、上半身だけ起こせるか。」
「うぐぐ、なんとか……」
でも何故、と呻いたスサーナにネルは丸めた背中を示す。
「背負ってく。……歩くよかマシだろ。」
よいしょっと背中に引き上げられて脱力しつつ、塔の階段を降りる。
段ごとにふわふわ揺れはするが、背中は広く、安定していて危なさは感じない。
「すみませんネルさん……お恥ずかしいところをお見せして……」
「別にいいさ。気持ちはよくわかる……。」
「腹筋地獄、体験済みですか……?」
「あの婆ァ、容赦ってもんを知らねえんだ」
よぼよぼ会話しつつ下まで降り、声を抑えたスサーナはネルの肩をぺしぺし叩いた。
「ありがとうございます……ここまでで結構です……」
「気にするな。部屋まで背負ってくさ。」
最難関、階段は超えたものの、腿はぷるっぷるだし、長い廊下もそれはそれで歩きたくない。スサーナは力強く頷きたい気持ちをそれでもぐっと抑えていやいやと首を振る。
「でも、何方かに見咎められたら良くないですし……。侍女の方々は使用人の方と握手するだけでも目をまんまるにして怒るんですよ」
おかげで、ダンスの練習の際に男性役のパートを使用人さん達の誰かに頼むということも出来ないのだ。スサーナは思い出して少し遠い目になる。明日もダンスは待っている。
「それさえなければダンスの男役だって誰かに頼めるのに……。貴族の男の方との挨拶には抱擁もあるし、エスコートも頼むのに……なんで日常で触ると駄目なんでしょう。理不尽ですよね……」
「ま、そのあたりは俺にはなんとも言えねえけどな……、見咎められねえよ。鍛錬も積んでるんだ、人の気配ぐらい読める。」
そうですか、なら、と頷いたスサーナをよっこいしょと背負い直しつつ、ネルは続けた。
「それに、他の使用人共ならいざ知らず、俺はアンタの所有物だからな」
「理由になるんです? それ……」
「見咎められたとしても自分の青帯奴隷をどう使ってようが文句なぞ出ねえよ。」
どうだろうなあ、とスサーナは首を傾げた。そういう間柄はともかく、性別が男性というだけで侍女たちは怒りそうな気はするのだが。
「お貴族様が青帯奴隷を娘に持たすんなら……あー……ま、
「よくわかりませんが……。じゃあ見咎められたら異父兄だって言うことにします」
「俺はいいけど、そりゃ公のご愛人とやらの立場がややこしくなるんじゃねえか……?」
軽口を叩きながら部屋まで送って貰う。ネルはスサーナをベッドに下ろすと、ちょっと白猫を撫でてから帰っていった。
◆ ◆ ◆
「おーなーかーとせーなーかーがーいーたーいー……」
朝。ベッドの中でスサーナは全力で呻いていた。
僻地とは言え公のお屋敷の豪勢なベッド、であるはずのものにスプリングがないことがなんとも恨めしい。久方ぶりの全力の無い物ねだりだ。
一晩眠った所で筋肉痛は的確に襲い来た。しかもここ数日、白猫――皆が好き勝手に呼ぶので認識しているかは怪しいものだが、ロコという名で決定した――が何処かのタイミングで腹の上に登り、ながながと伸びて寝るので、ろくに寝返りも打てずにダメージは倍増と言ったところだ。
ねこはかわいいのでしかたがないけれど。
どうも平均的な女性よりずっと痛みに強いスサーナではあるが、筋肉痛とはどうも仲良くなれない気がする。動かそうとした所に断続的な痛みが走る、というのは不意打ちに近くて非常に気に入らない。
どれほど呻こうがぐったりしようが侍女たちは変わらずやってくるものである。
ぐいぐい今日も
午前中の日課を終えて昼。
極限まで腹筋が痛いと何か飲み込むのにも苦労する、ということをこの日スサーナは思い知った。
侍女たちは「令嬢は見苦しくないよう人前では小鳥のように飲み食いすべし」という信念も持っているようではあり、普段のスサーナの少食はむしろ誇らしく思っているようではあるのだが、マナーを実践する必要がある以上、食事の作法を洗練させる場である昼食の時間は一口ずつは食べさせられるのでその度に腹筋が引きつってたまらない。
昼食だけでヘロヘロになりつつも午後のダンスの指南の時間がやってくる。
「死ぬかもしれない……」
スサーナは地を這うような声で呻いた。
練習用のダンスホールの代わりになっている一階の小ホールにふらふら行ってみると、侍女たちと一緒にネルが部屋の端に控えていた。
こちらに来てからネルは青帯奴隷に一般的な衣装、つまりシンプルに柄のない首元の開いたチュニックと焦げ茶のボトムの組み合わせで過ごしている。
しかし今日は、リネンシャツの上に使用人身分に許された大青の生葉染めではあるもののくすんだ空色の毛織のベストを身に着け、ヒースグレイのボトムを履いている。髪も後ろになでつけ、つまり、ダンスが出来るような格好だ。
――おう?
スサーナがまじまじと二度見するうちにネルが進み出てきて、恭しく跪いた。
「恐れ入ります、お嬢様。このような場所ですからダンスの練習相手がおらず、お困りだと聞きました。僭越でございますが、私には多少心得が御座います。卑しい私の手でも杖代わりぐらいにはなりましょう。よろしければお使いくださいませ。」
ダンスの教師役の侍女がため息交じりに、本当なら舞踊の教師を呼ぶべきなのですけど、このような田舎では、と言う。
つまり、ネルをダンスの練習に使うこと自体は問題にされていない、ということのようだった。
――ね、ネルさぁん!
スサーナは心底喜んだ。つまり、肩に手を掛けた場合体重をかけられるし背は支えてもらえるということだ。あと、回転運動の際に遠心力を気にする必要も減りそうだ。ダンスの手順を思い返してみるとそういえば侍女相手に練習しているうちはどれも望めなかったので、この腹筋と背筋の死んでいる状況ではどれほどの苦行になるだろう、と今日は覚悟していたのである。
まず一礼して、手を伸ばして進み出る。
「(ネルさん、助かります、本当に助かります)」
スサーナは侍女の爪弾く八弦琴の音に紛らせ、侍女たちから見えない位置でそっと囁き、ネルに礼を述べた。
「(あまりやりすぎると侍女頭にお嬢さんが叱られそうだから、あまり休ませてはやれねえが)」
ほとんど口も動かさずに返答がある。
確かにネルにはダンスの心得があるらしい。もしくは舞踏ではなく武闘のほうの経験を生かして、最適な位置に足を運んでいるのか。
身長差はだいぶあるはずだが、動いていて気にならないということは膝か何かよほど工夫してくれているのだろうか。見ている侍女達から文句も出ないので、外から見ていても違和感はないらしい。
ぶら下げてもらうような気持ちでだいぶ楽をしつつ、スサーナはそっと問いかける。一体何処で貴族向けのダンスなど習ったのだろう。まさか鳥の民の修練に普通のダンスが入っている、と言うオチはあるまいな、と多少危惧していた。
「(ネルさん、ダンスお上手だったんですね……。)」
「(練習役は慣れてる)」
返答にああ、と納得する。
――そうか、妹さん。
ネルの妹は魔法の才能を見込まれて貴族の子飼いになっていたのだ、と聞いた。ダンスを求められるような役割だったのか。
「(……ごめんなさい)」
謝ったスサーナに、
「(……いいさ。アンタの役に立てりゃ何よりだ)」
ネルはそう言って笑った。
彼の動きの綺麗さを侍女頭は大いに気に入ったようだった。
「お嬢様、良い青帯奴隷を頂いたのですね。グリスターンではこのような奴隷が出回っているのですか。素晴らしいこと。」
明日のダンスのレッスンの際にも練習台になるようにというお許しを貰ってネルはうやうやしくお辞儀をする。
「お役に立てますこと、光栄にございます。」
侍女たちは小ホールを少し片付けて夜の支度に入るそうで、スサーナはそのまま午後のお茶に連行されるはずだったが、台所からお茶を切らしたと連絡があったので本日は少し早く休憩と相成った。
お茶を買い足さなかったのですか、と呆れた声を上げる侍女頭と首をかしげるお茶の支度をしていた侍女を尻目にネルを連れてさっさとスサーナは廊下に出る。
「お茶、もう無くなるような量でしたっけ。」
「さあな。明日には棚のどっかから出てくるだろ。」
ネルは小ホールから出るところまではうやうやしく振る舞い、出た所でスサーナを引っ抱えると迅速に寝室に運搬して放り込んだ。
「お嬢さん、今日は休んどけ。」
スサーナは今度こそ力いっぱい頷いた。夜になったらどうせ次のスパルタがやってくるのだ。
ドレスなのでベッドに潜り込むことこそ出来ないものの、長椅子に凭れてしばらくぐったりすることにした。
ロコがしばらくにゃあにゃあ言っていた気がしたが、ネルがつまみ上げて台所に連れて行ったらしい。結局スサーナは夕食まで数時間居眠りをすることが出来た。
かといって特に筋肉痛は軽快しなかったので、結局夜中のスパルタでまた盛大に床と仲良くなるはめになったのは如何ともし難いことであったのだが。
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